
歯舞群島とは、北海道の東端、納沙布岬の沖に点在する島々。歯舞諸島とも表記される。
地質構造的には色丹島とともに根室半島の延長が部分的に陥没したものとされ、地形や植生なども根室半島に似ている。台地状の平坦な島々が多い。 いわゆる北方領土のひとつであり、水晶島、秋勇留島、勇留島、志発島、多楽島、春苅島及び貝殻島をはじめとする小さな島からなる。中央に位置する志発島が最も大きい。なお、諸島であるが北方四島のうちの1島として扱われる。歯舞は四島全体の2%の面積を占める。

18世紀末に江戸幕府の蝦夷地調査隊によって比較的に正確な地図が描かれ、岩礁も含む島名が明示されてから、日本国内で存在が広く知られるようになった。当時の記録によれば、歯舞群島は無人島であった。文化4年(1807年)に幕府が東蝦夷地を直轄地としてから色丹島とともに出稼ぎ労働者によるコンブの採取が始まった。定住が始まったのは明治10年(1877年)以後で、函館の広業商会が昆布採取のために貸出した資金で生産者・漁師などが居住した。その後も島内の産業は昆布や海苔、ホタテ貝の採取を中心とし、タラなどの沖合漁業も行っていた。また勇留島や志発島、多楽島では約200頭ずつ馬を飼育していたという。明治時代は対岸の珸瑤瑁(ごようまい)村に属していたため、珸瑤瑁諸島と呼ばれていた。大正4年(1915年)、珸瑤瑁村は歯舞村と合併し、歯舞村となった。このため珸瑤瑁諸島は歯舞群島と呼ばれるようになったが、戦後になっても珸瑤瑁諸島と呼ばれることも有った。第二次世界大戦が終わった時の総人口は約4,500名で、漁業人口は95%であった。

1945年9月2日、太平洋戦争が終結し一般命令第一号が発令された。この命令により、千島の日本軍はソ連極東軍に降伏することが定められると、ソ連軍が上陸して、占領下に入った。翌年1月29日、GHQの指令第677号により歯舞群島を含む日本の行政権が停止されると、ソ連は自国に編入。以来、ソビエト連邦・ロシア連邦の実効支配下にある。戦前は対岸の花咲郡歯舞村に属していたが現在の日本も領有権を主張しており、昭和34年(1959年)に歯舞村が根室市と合併したため、現在は根室市に属している。しかし、平成20年(2008年)の時点において日本の施政権は全く及んでいない。 【上記の写真は全てWikipediaを使用。上から順に歯舞諸島・水晶島・勇留島】
日本政府見解としては同島のロシアによる占領は日ソ中立条約に反した違法行為であり、現在に至るまでロシアによる不法占拠下にあるものとしている。
以下歯舞諸島の旧名、1987年(昭和62年)9月28日に珸瑶瑁へ行ったときの記録です。

当時、私は札幌市北31条西3丁目に住んでいました。珸瑶瑁郵便局で貯金事務をしていた男性が、私も札幌から来たんですよ。と言ったので、どこら辺に住んでいたのですか?と聞いたら、北28東16丁目(確か新町通の近く)に住んでいたと言うので一気に親近感が湧きました。それで業務の合い間に郵便局をバックにして、写真を撮ってもらいました。もう20年以上も昔の話です(^^ゞ






