生きる意味? | スマイルはタダ・・・

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シンガー・ソングライター、
「堪忍」のブログです。
ライブ情報や聞いた音楽、カメラ関連や
考えたことなど。

なんだかヘビーなタイトルですが、
別に私の気持ちが今疲弊している訳ではなく。

 ただ、先日目にした記事を読んで改めて思ったことがあり、
そこから派生してこのテーマで書いてみようかな、と。
 ちなみにその記事は、動物の目的は「進化」ではなく「種の保存」であるという類の話でした。
しかし、そこにまつわる話はここではうまくまとめられそうもないので、
今回はそこから派生して考えたテーマ
「生きる意味」について書いてみたいと思います。


生きる意味なんか特に何も与えられていない
 いきなりですが、これが今のところの私のスタンスです。

 私は、人間が生きる理由など、元々与えられているものではないと考えています。
むしろ、宗教的な観点からの発想を除けば、
「与えられているであろう生きる理由」を探すというその姿勢自体について疑問を抱いています。
言うなれば、学校教育や市場価値のように、
答えやルールを自分以外がいつも決めている(ように見える)場での悪い癖が、
残り香を残しているのではないかとすら思っているのです。

 学校教育においては、問題集についている答えを見れば、
何がしかの答えが書いてあります。
 生活上のルールも、
ほとんどの場合は誰かが規定したものによって守られています。
 商品の値段も、サラリーマンのお給料も、
気付けば自分以外の誰かが(市場が)決めていることがほとんどでしょう。

 そういった環境においては、
「誰かが与えてくれている」、「誰かに決められている」という状況が当たり前かもしれません。
しかし、それらと同じ発想で、
自分が生きる意味も、
「既にどこかにはあるはずだ、という前提」で探しにでかけてしまうと、
どこにも唯一無二の回答が存在しない
ことに気づきます。
すると、中には「生きる意味が見出せない」という場所で身動きがとれなくなったり、
何よりそれを、とても苦しいこととして感じてしまう方もいらっしゃるのではないかと思うのです。

人生が私たちに何をしてくれるかではなく、
私たちが人生に対して何が出来るか ( V.E.フランクル『夜と霧』 )


 「与えられているであろう生きる意味」が見いだせないということ。
私はそれを悲しむべきことではないと考えています。
 確かに、例えば神様のような存在によって
生きる意味が与えられているはずだとすれば、
自分についてそれが見つからないということはかなり苦しい
ことでしょう。

 しかし、もしこの点については
そもそもそれとは全く違った原理で成り立っているとしたらどうでしょう。
 生きる意味なんてそもそも最初からは与えられてはいないらしい、
というということを受け入れてみる
とどうでしょう。
逆に言えばそれは、どんな理由や意味をそこに適用してもそれは自由、ということではないかと思うのです。
(勿論、適用しないのも自由でしょう)


点と点が、
いつつながるかは誰にも読みきれない


 だとすれば、そこに適用する理由や意味は、
どんな大仰なことでも、
逆にどんなに些細なことでも構わないと思うのです。
 世界と関連するようなものでも、極めてパーソナルなものでも、
少なくとも、
それが誰かの存在を大きく脅かすようなものであったりしない限り、
他人がどうこう言う筋合いはないのだと私は思います


 なぜならそれが、山中教授のiPS細胞の研究のように、
最初は「そんなことやってないで・・・」と周囲に言われていても、
どこで、どんなこととつながってくるか、誰にもわからないからです。
 仮にあなたが、周囲にとっては全く意義のわからないものについて
並々ならぬ興味を持っていたとして、
あなたがそれを深めなければ、向こう百年誰もそれに興味を持たないかもしれません。
そして、もしかするとそれについての知見が積み重なった上にしか
見つからない実用的な知見があるかもしれません。
その実用的なレベルに達するためには、
結局はどこかで誰かがそれについて一度は深めておいてくれないとその先は成り立たないのです。

 もちろんこのスタンスについて、
他人に押し付けるつもりはありません。
 ただ、私自身は、
思春期に悩んだ時、最終的にこれが一番自分に馴染んだ考え方だったのです。
逆に言えば、比較的出会いやすい、
「どんな人でも一人一人生きる意味が与えられている」系の発想では、
どうしても納得できずに苦しみました

 なので、同じように悩んでいる過去の私のような方がもしいれば、
是非いい形で悩んで欲しいと思いますし、
ふらりとこの記事に出会った時に、これが1つの思考材料になるなら幸いです。

 そしてまた、もしもまだ、生きる意味が見出せない方、
事情があって見失ってしまった方がいらっしゃるとしたら、
いつかどこかで、素敵な意味と出会えることをお祈りしたいと思います。
 そういった意味や理由を「社会人になるまでに見つけてなければいけない」とか、
「途中で変わってはいけない」なんてルールも、
きっとどこにもないのですから。

最後に、
昨日公開したnasu.のライブ動画と、
このテーマで書くにあたって、
なんとなく心に浮かんできた写真たちを、
いくつか以下に載せて終わりたいと思います。