能「船橋」と言えば大学時代観に行った観世会で、師匠が舞った舞台を今でも思い出します。

直面(素顔)で出て来た前シテの品格と心に響く謡、後シテのドロドロとした存在感と目を驚かす型の面白さ、素晴らしいお能だなと思いましたが、「船橋」はその後今に至るまで、僕でもあまり上演を見ない相当マニアックな能です。
テーマは万葉集の東歌(東国の民歌)、作者は間違いなく世阿弥、もともと田楽など他の芸能で演じられていた古い古い能を、初期世阿弥が存分に筆を振るって改作したため入り組んでおり、謡が多いということもあって上演が稀になっていると思われます。
能楽師は遠い(上演が稀な)曲が苦手です。笑

この能に引かれた東歌「東路の 佐野の船橋 取り放し 親しさくれば 妹に会わぬかも」は、「東国の佐野の船橋の橋板を取り外し、親が二人の仲を割くものだから恋人に会うことが出来ない」という内容で、船橋とは橋脚を持たず小舟を並べた上に橋板を敷いた、簡易的な橋のことを言います。
この歌は以下のような物語が下敷きになっています。
「むかし佐野の辺りを流れる烏川の両岸に、互いに愛し合う二人の男女が住んでいて、夜な夜な川に架かった船橋を渡って逢瀬を重ねていたが、それをよく思わない親達は、二人が会えないように船橋の橋板を外しておいた。
それを知らない二人は夜、対岸にお互いの姿を見つけると、喜んで船橋を渡り走り寄ろうとしたが、取り外された板間を踏み外して川に落ち死んでしまった。」
原典の万葉集では「かみつけぬ 佐野の船橋 取り放し 親はさくれど 我はさかるがへ」となっており、「親が仲を割いても私は離れまい」と少し異同はありますが、佐野の船橋は歌枕として、後世の多くの文芸の種となってきました。

能「船橋」は熊野から平泉を目指す山伏(ワキ)が、上野の国(今の群馬県)の佐野の渡りに着くところから始まります。
(この佐野は能「鉢木」の佐野源左衛門尉常世の領地のあったところです。)
するとそこを流れる川のはたに里の男女(シテ、ツレ)が現れ、山伏に橋を架ける寄付を募ります。
普通は現れたシテにワキから話しかけるのですが、「船橋」ではシテがワキに「寄付して下さい」と語りかける珍しい形です。笑
また、登場したシテ、ツレが橋掛りで謡いはじめ、途中から舞台に入るのは、やはりこの曲のテーマが「橋」にあり、橋を印象付けるねらいからなのでしょう。
この二人と山伏の橋の寄進をめぐっての掛け合いが、掛け言葉を多用しつつリズミカルに運ぶあたり面白く、世阿弥のどうだ!が聞こえるようです。
二人は例の東歌の上の句を引いて、この土地にまつわる悲恋の物語を仄めかしつつ、山伏こそ橋をかけるべきだと主張します。
理由を聞く山伏に、山伏の祖である役行者(役優婆塞)が葛城の神(一言主)を使役して架けさせようとした岩橋(久米路の橋)の故事を語りますが、ここの言葉の連なりが素晴らしく、葛城というのも大和猿楽の下地が思われて床しい気分になります。
葛城の岩橋を引くために、ワキを山伏にしたのかもしれません。
結局、葛城山と吉野にかけて渡すはずだった岩橋は、我が容貌を恥じた葛城の神が夜にしか作業をしなかったために、完成を見ず苔むしてしまいました。
この久米路の橋は佐野の船橋と同様、成就しなかった男女の仲の例えでもあり、それはそのままこの能のテーマです。
そして「佐野の船橋取り放し」「佐野の船橋鳥は無し」と、歌の読み方に二説あることを山伏が尋ねると、男はこの土地に伝わる、上記の船橋にまつわる悲恋の物語を詳しく聞かせるうち、我がことであったように語り出します。
やがて男は自分たちこそこの物語の二人なのだと明かし、あの世で重い苦患を受けていることを語ると、鳥は鳴かず鐘の鳴る夕空に消えて行きます。
橋を架け果せることが二人の愛の成就であり、菩提への道なのでした。

夜すがら山伏が二人を弔っていると、まずは舞台に女の霊が現れ、弔いにより三途の川から浮かび上がることが出来たことを感謝します。
男は橋掛り一ノ松にて紺色の小袖をかずいて謡い出しますが、これは女と違い浮かび上がれず水中に没していて、いまだはっきりと姿が見えないことを表現しています。
「通小町」ほどではないですが、男の方がすっきりしないパターンです。
ここで男は「泣く涙 雨と降らなん 渡り川 水増さりなば 帰り来るかに」と古今集(小野篁)を引き謡いつつ、「渡り川」と下を見ます。
「渡り川」とは三途の川のことで、亡き人を惜しむ涙が雨のように降って三途の川が増水して渡れなくなれば、あの人はこの世に帰って来るだろうかという意味です。
自分が浮かびかねている三途の水面を見る面白い型です。
そうはしていても徐々に山伏の弔いの効果によって、男も引き上げられ舞台に入り姿が見えました。
能では恋愛で死んだ者は必ずあの世で重い苦しみを受けますが、昔の出来事を再現して見せることで救われるというルールがあります。
二人は成仏への最後の仕上げとして、仲睦まじかった昔を見せようと、女はワキ座へ、男は闇夜を行く立廻で橋掛り二ノ松へ行き、川を隔てて両岸に佇む体となり、あの運命のひと夜が展開します。
月も傾き人も寝静まった丑三つ時の暗闇の中、集落を抜け出した男は、冷たい川風もいとわず対岸を眺めやり、女の姿を探します。
すると遠くに愛する人の姿を見つけ、お互いにそれとわかった二人は喜びに満ち溢れ、心踊るなかいち早く会おうと船橋を駆け寄ります。
が、親が外しておいた板間を踏み外し、お互い冷たい川水に落ちてしまう様を、橋掛りいっぱいを使って舞台へ走り込んだ男が、舞台の真ん中で両袖を巻き上げ舞台に飛び伏すことで表現します。
学生時代に見た師匠のこの演技が、忘れられないほど鮮やかでした。
大アクションを決めた直後シテは顔を上げ、例の「佐野の船橋」の和歌を一首丸々歌い上げ、自分たちのこの夜の死によって今に伝わる歌枕となったのだと告げるのでした。
舞台の山場に和歌を丸々引用してシテに歌わせるあたり、「風姿花伝」他にも書いてある作劇法そのままで、ああ初期世阿弥の筆だなぁと思います。
また、息の上がるアクション直後にしっかりと謡わせる、世阿弥のドSぶりも感じます。
前述の通り、恋愛で死んだ者はそのまま報いを受けるという能の原理により、二人は川に落ちてすぐ三途の川橋の人柱となって重い苦しみを受け、恐ろしい鬼の姿になっていましたが、行者の弔いにより仏果を得ることが出来たと手を合わせ、消えて行きます。
なぜ能の恋人は必ず邪淫の悪鬼となり、責め苛まれなくてはならないのでしょうか。
大和猿楽の芸のルーツには払われる邪鬼、亡者を責める獄卒の鬼がいて、その演技を流用して演劇(能)が始まりましたから、幽玄一本で走り出すまでは、鬼無しに能は作れなかったのかもしれません。

僕はワキ体質の人間として、能を舞う前にシテの面影を偲ぶため現地に赴くのを愛するのですが、今回は群馬の佐野に船橋伝承地を訪ねました。
もちろんかの船橋は現存せず、今はそのイメージを伝える、佐野橋という人道橋が架かっているとのことでした。
高崎から二両編成のローカル線に乗ってふた駅、佐野のわたし駅で降りると烏川は目の前に流れ、下って行くにつれ佐野橋はすぐに見つかりました。
橋脚こそ鋼材であるものの橋桁と欄干は木製で、昔を偲ぶよすがを残しているのが有り難い造りです。
駅の側の岸には上越新幹線も通り今まさに宅地化の波が押し寄せていますが、対岸は遠くに春の色に染まった小山の連なる、のどかな風景が残っていました。
欄干に手を掛けて謡の文句を繰りながら渡り、土地のいにしえに思いを馳せているとすっかり感動してしまって、あぁ渡った先の里山あたりに女の集落があって、約束を交わしてはここで落ち合っていたのかななどと、ついつい立体化した夢想のなかに遊んでいました。
佐野橋は観光用ではなく土地の人に実用されていて、僕があれこれイメージを巡らせている間も、多くの人々が行き交う生きている歌枕でした。
それにしてもこういう例は稀で、クレイジーな昭和平成の日本人は、全国の歌枕をほぼ破壊し尽くしてしまいました。
歌枕に時を経て襲ねられた文芸の衣こそ日本の財産であることに気付いて、これからはショッピングモールの駐車場や幹線道路の植え込みで排ガスを被っている石碑達を解放し、在りし日を思い再現する時代にしなければなりません。
こういう土地のいにしえと現代人一人ひとりを橋渡しする、いま僕らが能を舞う意味の一つはそこにあるのではないでしょうか。
僕らは歩く歌枕であるべきなんです。


「梅若会定式能」
4/21(日)13時開演 梅若能楽学院会館

能「弱法師  盲目之舞」小田切康陽
福王和幸、槻宅聡、曽和正博、國川純

能「船橋」川口晃平 鷹尾雄紀
村瀬提、一噌幸弘、鵜澤洋太郎、亀井広忠、梶谷英樹

ほか仕舞、狂言あり

チケットは僕にご用命下さると1000円引きです!
指定7000円、自由6000円