うだで

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古語は端っこにほど残っているらしい。
ということで、日本で一番古い言葉が残っているのは高知県だと聞いたことがある。
この人の動画を見ていると、青森の津軽弁では自分を「わ」、相手には「な」と呼びかけることがわかる。
この「わ」は日本の最古の国号・倭(わ)国、倭人の「わ」と同根であろう。
すると「漢倭奴国(かんのわのなのくに)」とはどういう意味になるだろうか。
「漢の冊封を受ける倭人族のなかの、かつてお前らと呼ばれ、その呼び方の定着した国」という意味になるのかもしれない。
語尾に「べし」を付けるのも非常に古文的だ。
また古文で嫌な気持ちを表す「うたてし」という言葉も、津軽弁には残っているらしい。
しかし「うたて(うだで)」が「スゲー」などの意味で使われているのは、「やばい」が「揺さぶられるような良さ」を表すようになった、現代的な現象なのだと思う。

ちなみにダークナイトに「うだで」は出てきません。笑

徳川と魔物

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日光をはじめとして、徳川家が作った空間に身を置くと、いつも必ず独特の居心地悪さを感じる。
建築の作りなのか意匠の配置なのか、そもそもの思想なのか、それは昭和平成の国会議員達の背広の色彩感覚にも似た、鈍重な風通しの悪さを思わせる。
戦国の三傑で言うと、型破りな美的空間を作り出し身に纏った信長、絢爛と渋みを極めた秀吉に比べ、家康はどうだったのだろう。
今に残る徳川家の遺物を見るにつけ、家康には先輩二人のように時代の美を創り上げる方向性やセンスは無かったように思われる。
そもそも権力や富という物は、人々が生滅し流れる時代の喘ぎを「美」として歴史の座標に保存するために費やされてきた。
殉じてきたと言ってもいいかもしれない。
それこそが人類の大きな存在意義でもあったのだと思う。
人類にその心がなかったのなら、我々の過去がどれだけ長かったとしても、振り返る価値もよすがも無い不毛の幾万年が横たわっているのみであったろう。
ところが我々の先祖達は違ったのだった。
しかし「美」は現実や時間を超越して生き、人の心を魅了し、その手を引いて遥かな宇宙へと旅立たせてしまう魔物でもある。
信長秀吉を含めて、歴史上の多くの権力者達は、その手を引かれる事に余りにも無防備だったがために、栄誉ある治世を子々孫々受け継がせることなく、自ら創り上げた美の結晶の幾欠片のみをこの世に残して、歴史の濁流に消えて行った。
思うに徳川はこの「美」という魔物と手を切ることによって、子々孫々をシステム化しすることに成功した。
もちろん徳川家も数々の神社仏閣や伝統文化の復興を成し遂げたし、多くの美しい工芸品の数々を残した。
しかしそれはレディメイドの美意識の焼き直しであって、富や生命を湯水のように注ぎ込んだ時代の美の創造とは言えない、ある意味美との格闘を事務的な手続きによってかわす考えであったのだろう。
その企画者は家康だったはずだ。
信長の安土城、秀吉の大阪城、徳川江戸城の空前絶後の巨大天守閣(家康作ではないが)、それらは間違いなく時代の粋であったが、全て余りにも脆く失われてしまった。
それらは時代の権力を象徴する軍事施設であったから、失われるのは必定だったのかもしれないが、三傑の生きた時代のありようがこれほど鮮やかに理解される遺物は無かったはずだから、その喪失は本当に悔やまれる。
日本においては徳川が手を切って以来、権力は魔物に拐かされることは無くなった。
魔物に見捨てられたとも言うのかもしれない。
僕は徳川の空間を訪れるたび嘲笑う魔物の声にいたたまれなくなって、一刻も早くその場を離れたくなるのだ。


縄文展

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先日滑り込みで縄文展に行ったが、数年前の土偶展と比べても、縄文時代に対する注目度が高まっている感じがした。

常設の展示なら絶対に人が群がったりしない土器片や木の切れっぱしに人集りが出来ているあたり、ニヤリとさせられた。

僕はと言えば最初から最後まで通して「君らほんと粘土好きだな!」と、縄文人達の肩を叩きながら回っていた。

今回の比較展示にあったように、実用性を満たした器形の上に、普通はそうするだろうレベルに装飾を施す同時代の他地域の土器と比べて、日本の縄文土器の多くは、はじめから粘土で装飾をこれでもかと造型する目的で作られている。

その度が過ぎていて、正にガラパゴス土器である。

ガラケーの萌芽とも言えようか。

そこには止むに止まれぬ信仰上の事情があったとは思うのだが、あれらを作った人々は確実に粘土いじりマニアである。

粘土いじりの愉悦に信仰の様式が引っ張られた可能性もある。

また、止むに止まれぬ事情があったにせよ、あれだけの造型を追求することの出来る社会は、ある一定以上の余裕と豊かさを享受していないことには維持できない。

稲作全盛の小勢力割拠時代になると器がシンプルになるのはそのためである。

が、縄文の豊かさとは僕らが安易に想像しがちな、ユートピア的なものではないだろうし、昨今の縄文を手放しに賛美し、理想化する傾向には疑問を感じてしまう。

ある程度農耕は行われていたとは言え、狩猟採取を基盤に据えた彼らにとって、野放図な人口増大は生活を破壊するタブーであった。

縄文時代は武器を使っての争いが無かったと言われるが、呪術的な生け贄や間引きによって社会の規模をかなり厳しく制御する必要があったと思われる。

土偶や石棒は多産への祈りの呪具であったかもしれないが、それが僕らの考える多産とはまた別種のものであったろうことは、縄文土器に刻印された現代の僕らからするとギョッともゾッともさせられるような土俗、呪術的な生活から生い立ってくる造型感覚からも見て取れる。

あの過剰な装飾が、薄暗い竪穴式住居の中央で焚かれた火によって、複雑な陰影を揺らめかせていた様は、僕らの想像を絶する悪魔的な光景であったと思う。

でも最後に縄文人が赤ちゃんの足型を残したメダル状の土器にはほろっとさせられて、「ああ、あなた方はやっぱりご先祖、ありがとう」と思って会場を後にした。