クリストファー・ノーラン監督の「オデュッセイア」観て来ました!
いやぁ、最高でした。

ただ、韻文美が無いと言うか、ホメロスの語った世界ではないという感じでした。
そういう古典という麗しくも重々しい額縁を取り去って、現代の人間にフィットした人物像、世界観にしたがために文語的な余白が無かったかなぁ。
「ガリア戦記」ならいいけど、「オデュッセイア」ではないと言うか。

あと、キュクロプスとかスキュラ、セイレーンなどは出て来るのだけど、あの世界には八百万のニンフはいないという感じでした。
モンスターはモンスターに過ぎないと言うか。
その関係で神々も人間のレベルに引き下げられていて、アテナ神もコンビニの店員さんみたいだったし、ヘレネが黒人だった、、
人種がどうのとは言わないが、ギリシア神話の美の象徴ヘレネまでが多様性社会に目配せさせられたようで、トロイア戦争起きないでしょ、、と思ってしまった。
とにかく絶対的、超越的な物はドラマから排除されていた。

ギリシア人演出家のミハイル・マルマリノス氏が、「ホメロスの世界を表現出来るのは日本の能だけで、西洋の技術では神と人と妖精が行き来する、多神教の世界は描けない」と言っていたことを思い出した。
やはり現代西洋人の精神性が遡れるのは、ローマが限界なのだろうか。

それでも、いやぁ最高でした。

写真は土井晩翠訳の七五調イーリアス、オヂュッセーア。
オヂュッセーアは昭和十八年刊行、戦時中だけに紙が悪い。
完全に韻文訳したホメロスって、他にあるのだろうか。







いま住んでいるマンションの和室に、形骸化し果てた床の間らしき壁の窪みがあり、そこに手持ちの掛け軸などを掛けてみたりしている。
思えば幼い頃、新興住宅地の建て売りであっても、和室にはそれなりの床の間があり、庭に面しては必ず濡れ縁が設えられていた。
それは、すでに形骸化しつつあったとしても、日常の中に自然と工芸の美を呼び込むための装置だったのだと思う。
ところが昭和の末期あたりから、床の間はテレビ置き場になり、やがて間取りそのものから消えていった。
隙間風の根絶とともに、内部空間を最大化した住宅からは庭が消え、自然とのあわいにあった縁側も消えた。

よく「日本の住宅には絵を掛ける場所がないから、欧州と違って絵が売れない」と聞く。
たしかに、豪華な額縁のついた絵画を飾り、その重量にも耐えられるような、だだっ広い壁面を日本の住宅に求めるのは難しい。
その点、現代の日本人が日常に取り入れ得る美の種として、掛け軸はかなりいいのではないかと思う。
まず巻き取れるから収納場所をとらず、軽いから壁面への負担も少ない。
しかも、床の間からあぶれた軸が、絵画から書まで大小市場に溢れかえっている。
古いものでも、驚くほど安価に手に入るものがある。
茶人や、きちんとした和室のあるお宅に住まわれている方々にとっては、当たり前の楽しみなのだろう。

けれど、僕のような侘び住まいの者でもいい。
洋室でも和室でも、家の一角を勝手に「床の間」と設定して、一本の軸を掛ける。
すると、不思議なことに住まいの中心が定まり、天と地がつながる。
ただ壁に何かを飾るのとは少し違う。
一幅の軸を掛けることで、見えない扉が開く。
そうしているうちに、今度は野とのあわいにある庭が欲しくなる。
庭とのあわいにある、縁側が欲しくなる。
失われた床の間を、掛け軸一本で仮設してみる。
もしかするとそこから、かつて日本の住まいが持っていた「内と外のあわい」まで、少しずつ取り戻せるのかもしれない



写真は十数年前、ギリシア・エピダウロスにて梅若実(当時)師匠と。

師匠が療養生活に入られてから、もう3年になる。
自分がどうのこうのということではなく、とにかく師匠が舞う能というものに魅了されてしまって、ただそれだけでこの世界にいる僕としては、半分が抜け落ちてしまったような状態で生きている。
そんな僕も年に数番の能を舞うようになったいま、師匠のお稽古を素通りせざるを得ず、非常に不安なまま舞台を勤めている。
下手であろうと何であろうと、師匠の稽古を受けて舞台に上がらないと意味がないと感じる。
師匠が「検品しました」というシールを貼らずに舞う舞台は、モグリの能である気さえする。

内弟子入門して7年、卒業してからも10年くらい後輩が出来なかったから、師匠のあらゆる舞台や稽古に、ほとんど一人でお供していた。
僕にもっと能の基礎と向学心があれば、その期間に吸収出来たものは莫大だったはずなのに、おっかなびっくり着いて行くだけだった自分の人間性が悔やまれる。
それにしても、内弟子時代の師匠の稽古は恐怖でしかなかった。
まず基本的に、始めから怒っている。笑
日常生活のことでも毎日怒られているのに、膝下にいる理由である能の修練を疎かにしている自分を晒すことで、いまここで生きている意味、そのものが揺らぐ危機だった。
師匠も年間100番近く能を舞う忙しさのさなかにいて、書生さんと呼ばれるような優雅さのかけらもない、全くの戦場生活だったことを口実に、僕は怠けていたのだと思う。
そんな頃も師匠は呆れながら、「叩き上げて、俺を超えるつもりでやらないと意味がない」と仰っていた。
それから随分と年月が経って、三人の会で「山姥」などを舞った頃、稽古のお直しの時に、「お前は俺がやろうとしているように、やっているな」と言われた。
その時は意味が分からなくて、「はぁ」とだけ答えていた気がする。
思えば、何と有り難いことを仰ってくださったのだろう。

梅若会で「三輪」を舞ったのが、師匠にお稽古を受けた最後になった。
その時の地謡が、師匠にとっても能を謡った最後の舞台になってしまっている。
なかなか舞台へのご復帰は難しいとは知りながら、師匠に謡っていただいた舞台の有り難さ、師匠の地謡について謡う喜びを思い出すと、今の状態が口惜しい。
師匠は関西の施設に入られているので、同門もなかなかご挨拶に行き難い。
僕は月に一回は必ずお見舞いをして、1時間くらい、これから舞う能の話や、師匠がいま話したいことを伺って帰っている。
伺って失礼しようとすると、また話が始まって引き止められる。笑
それを、なかなか実地で受けられない今のお稽古と思っている。
この間は「楊貴妃」のお話を伺った。
それだけではなく、新企画として、もう迷惑を承知で謡ってしまえということで、施設の部屋で「楊貴妃」の謡のお稽古を受けた。
「そんなに悪くはないんだが」から始まるお直しが、有り難かった。
「みんな音を下げようとするけど、下げるんじゃなくて、手から落ちるように落とすんだ」と、寝たまま見本を謡われる。
かつてのような豊かな響きではないのだが、療養中の身とは思えない、骨格のしっかりした、摂理に則った謡だった。
師匠の生命と不可分になった能の魂の不滅を感じた。
内弟子時代、こうして見本を謡われたのに聴き惚れて、そこから全く何も掬い上げられなかった数多の瞬間を思い出した。
お部屋を後にして、早く思い切り稽古をしたくなった。

とにかく師匠には、お元気でいていただかなくてはならない。
師匠がやろうとしたことのその先を、見ることが出来るのだろうか。
いま僕は、少しは師匠の弟子になれた気がしている。


#師匠 #弟子