今回は脚本家の藤咲淳一先生が書いて下さった台本を、僕が能楽師が言いやすい言葉に直し、切り貼り加筆し、能の流れに組み立て大枠は作っておいたのを、三人の会の坂口さん谷本さん、喜多流の大島輝久さんで謡ってみて稽古をして、手直しして能本を作りました。
あまり能を見た事のない人が多いはずですので、なるべく言い回しを平易に、原作の言葉を活かすことに気をつけました。
池袋で、また来月の博多座でご覧になる方のご一助にと、能本製作者として士郎正宗氏よろしくVR能の注釈を試みてみようと思います。
以下本文と註釈↓

VR能注釈

地取リ(人形使い)【※1】
「影を求めて潜れども。影を求めて潜れども。我が手には何も残らず
地謡サシ
「世にはびこる電脳犯罪を追う。公安九課の馬頭。馬頭は事件の闇の中に。消えし女の姿を追う。女の名は草薙素子
馬頭
「素子は何処。姿も影もつかめぬ。まことに人形使いと何処に去りぬるや
地謡下歌
「生まれしときよりからだをもたぬ。草薙素子は。魂のみの存在なり。義体人形に宿り。人のごとく生きし女
馬頭【※2】
「思い出だしたり素子と出会いしは。火炎渦巻く戦の最中。それよりは背中を任せ共に戦い。幾度も修羅を駆け抜けしが
地謡
「いつしか素子の背中を。我が守るように。なりしなり     (カケリ)
馬頭セリフ
「守るべき素子の背中は次第に遠くなり。我が手はもはや届かず
地謡サシ
「素子が掴みしは。虚な人形の手。素子はいづくにや
素子【※3】
「不思議やな微弱なれども広やかなる電網の匂い。この深さは人形使い
人形使い
「いかにも我は人形使いなり。心通わぬそなたにはただ光と見えよう
素子
「おことは電脳の藻屑と消え去りしはず
人形使い【※4】
「さにあらず。我は大いなる電網に接合せり。今こそ我々をその一部に含み。我々全てを一つとなす。更なる上界へと飛翔の時なり(本ユリ)
地謡サシ
「素子が掴みしは虚ろな人形の手。素子はいづくにや。人の世の柵を離れ。魂魄は。電脳の海に。溶けゆきしなり(打切)
地謡クセ【※5】
さればにや。人形使いの言葉には。我は流るる雲にして。海を揺蕩う水蛭子。そなたと色に染み。天御柱の果実をなさん。(打切)その時素子は。予感の内に手を取りて。一つにならんと人形の。殻を脱ぎ捨て電網の。まばゆき流れの果てにてついに結ばれ融合す
素子
「皆が。我が姿を追いしなり
地謡
「素子が何を見。何をなさんとするかを。国を天高く。覆う電網の上に。素子は遍満す。あるときは形を成し。またあるときは形を持たず。あるいは光または闇。全てと無とを行き来する。人形使いと溶け合い生まれし存在
素子【※6】
「なにゆえ妾(わらわ)を選び給うぞ
人形遣い
「エンなり    (中入り)

馬頭【※7】
「かくて素子と人形使いが交わり。電脳の海へと旅立ち四年半。海は遥かに揺らめけり。その海月なす揺らぎのうち。霊能局に魂合環は。素子の形を見定めよと召されける
素子①【※8】
「わらわは草薙素子。汝は何者なるや
素子②
「わらわは草薙素子。ここで相見えしは偶然か必然か
素子①
「幾度となく魂を渡り歩き。ついに汝に巡り逢う
素子②
「ならば必然かそれとも。数多の偶然が作り上げし必然なるか
素子①
「星の巡り合わせなり
素子②
「星にはあらず大樹なり
地上歌【※9】
「舞うは桜花。ならば木花咲耶の。大樹なりしや。樹が伸びゆけばその根の。行き着く先は根源。剣と珠と鏡を掴む。三つの足
素子①
「それは八咫烏
素子②
「烏は何処へ
地謡サシ【※】
「新たな地平に木の枝を咥えて。航海を終えた渡り人ぞ来たる。それは新たな種を蒔くための翁。いや古き人々にその姿を。捉えることはできぬ。羽衣をまといし天女の姿が見えぬように。それは天つ風かさていかに。まだ鏡はまわりはじめたばかり。如何なる花をつけるかは。何人にもわからぬ
素子②
「神となろう汝にも
素子①【※11】
「わらわは神にあらず。ただの語り部。汝こそわらわの影として。逆さまなりし天の邪鬼
地謡ノル【※12】
「世の理は陰陽の二極と。世の理は陰陽の二極と。それが交わる三つの形。彼の世と此の世のいづれが真か。未来と過去。二つの鏡に映しいだされた。現世の姿。時のみぞ知るか。時のみぞ知るか
素子①②【※13】
「ただゴーストの
地謡
「ただゴーストの。声を聞くのみ  (立廻〜舞)
素子【※14】
「素子はただ一人
馬頭
「素子は何処。姿も影も掴めぬ。素子は何処
地謡キリ【※15】
「影を求めて電網の。海に潜れども。漂う泡を掴むがごとく。我が手には。幻さえも残らず (打切) これは後の世の。そしていにしえの物語。重なり合うこの刹那。何処に行くべしやさて何処にか行くべき
地取(人形使い)【※16】
「影を求めて潜れども。影を求めて潜れども。我が手には何も残らず

【※1】
素子の姿を求めてネットに潜っても、姿も形も掴むことは出来なかった。地取リはテーマを暗示する謡。本来はバトー(馬頭)の心情だが、人形使い役の大島さんが謡われた。
【※2】
バトーと素子は世界大戦のさなか、戦場で出会ったらしい。ここからカケリまでの流れは、バトーが素子と共に戦った日々、そして人形使いと融合し消えてしまうまでの回想シーン。カケリは修羅能において武将の霊が舞う、戦場の興奮を表す緩急ある短い舞。虚ろな人形の手とは人形使いの手。今回の能本では「手」をテーマの一つとして多用しました。
【※3】
ここ以降は、原作漫画1巻後半で素子の電脳に人形使いが2度アクセスした場面を凝縮した。電網の匂いとしたのは男女の色恋のニュアンスが欲しかったため。
【※4】
原作で人形使いに神の示現を見たシーン。「我々をその一部に含み、我々全てを一つとなす、さらなる上部構造へシフトする」とは、自分達が生きている作品世界を外から見るということで、正に作者の視点であろう。人形使いとはキャラを動かし物語を作る作者・士郎正宗氏のことである。上部構造を上界、シフトを飛翔と言い換えた。飛翔は後半の八咫烏を暗示するために書いたが、ちょっとつなげるのは変か。
【※5】
クセは地謡によって物語の重要な叙事的な内容を語る、能一曲の中で中心となる小段。クセの前半で人形使いがいかに素子に語りかけ融合することになったかを、能「井筒」風にラブシーンとして書いた。後半は融合後の素子がどのようになっていったか、つまり原作2巻の内容の暗示を、能「山姥」風に書いた。
【※6】
原作1巻のやりとりを、本来なら融合する前に書くべきだったが、言葉を切り詰めて中入りのセリフとした。
【※7】
これ以降は舞台には登場しないが、霊能局の巫女・魂合環が特殊能力によって見ているネット世界の設定。能「葵上」の前半の生き霊をツレ・照日の巫女が見ているのと同じ構図。素子が9課から消えて4年半が経っている。
【※8】
人形使いと融合し、ネット上に子孫たる?同位体を生み出していく存在となっていたが、そのうちの一体と出会った場面。ここでは陽の素子と陰の素子。
【※9】
大樹は果てしなく伸びゆくネットであり、世界の根本原理をなす不可視の巨大な構造である。その先触れ、眷属のような存在が導きの神鳥である八咫烏??であると理解している。その天地人を表す三本足にはオリジナルの神器が握られている??
【※10】
八咫烏が向かうのは新たな宇宙の構造なのかもしれない。ここは陰陽の素子の対話をサシとした。航海を終えた渡り人とは素子の同位体たち。月の住人である天女のように現世の存在ではないから、普通の人々には捉えることはできない。鏡が回り始め世界は誰も見た事のない次なるフェーズに移る。彼女らは新たな種を蒔くも、いかなる知的生命体が花をつけるかはわからない。
【※11】
神とは超越した者、作品で言えば作者。作者のメタファーである人形使いと融合しキャラクターの殻から出たものの、素子自身は作者の視点を持ち得たわけではない。語り部とは事の成り行きを見守り、語る者。天邪鬼は常に自分とは逆の行いをする者。それは鏡像と同じであり、陰と陽のように、自己を成り立たせる片割れなのかもしれない。
【※12】
ここでは能のクライマックスに演奏されるノル(大ノリ)というダイナミックなリズムに乗って、2人の素子によって、世界を構成している陰陽の二極とその融合など、三つ揃いの概念が語られる。未来、過去、現在。彼の世、此の世、その融合。ネットの仮想空間と現世、舞台と客席、どちらが真実でありリアルなのかは、とにかく見て下さいと投げている。笑
【※13】
ネットは電網と言い換えたが、ゴーストはこの作品の最重要ワードなのでゴーストのままとした。世阿弥も「キメ文句はクライマックスにもってこい」と言っているので、本作もそうした。笑、、魂の声に従って、皆さんただ楽しんで下さいということ。
こと。
【※14】
2巻の世界を表現する舞を終えた素子が謡う一言だが、ここはわざと節をつけずにおいて、どう謡うかは舞手に委ねた。この一曲は、素子の影を求め続けるバトーの追憶と妄想の世界であり、素子はただ一人とはバトーの呟きなのかもしれない。
【※15】
ここからは魂合環の見る世界ではなく、やはり何の痕跡を掴め得なかったバトーの視点に戻る。打切以降は能「木賊」の終局部のように劇世界を離れ、物語を外から眺める視点となる。「後の世」とは未来を描いた作品であるということ、「いにしえの物語」とは30年前の原作であるということであり、その未来と過去が交わるこの刹那こそが舞台であると述べている。「何処へ行くべしや」は原作1巻の有名な最後のセリフ「さてどこへ行こうかしら、ネットは広大だわ」を持ってきた。原作やアニメでは素子のセリフだが、ここでは地謡のナレーションにした。「さてどこで上演しようかしら、世界は広大だわ」の心。笑
【※16】
冒頭の地取リがここでも調子を変えて謡われる。バトーはもとより、素子も人形使いも、求める者は求め得ないという主題で締め括られる。


いつも新作能で難しいと思うのは、能の場面の作りやリズム、能楽師が謡いたくなる言葉運びなど、能楽師でないとわからない部分を本を書く作家さんにお任せしてしまうことで、すんなりと能になってくれないということです。
その点今回は能作りを任せていただけたので、脚本家の藤咲淳一先生の書かれた言葉とプロットを、割と自由に能の舞台運びに変換することができました。
よく、漫画やアニメを能にするとは大胆な企画ですねと言われるのですが、能は元々スピンオフの芸能であり、人口に膾炙されていて長年の評価を受けている作品なら、何でも能になっておかしくありません。
一つ条件があるとしたら、人間の本質を問うテーマでしょうか。
そういう意味では三十年もしたら「鬼滅の刃」も能になっているかもしれません。
また、「攻殻機動隊」は非常に能に通じる要素をもった作品です。

VR能「攻殻機動隊」は難解で有名な士郎正宗氏の原作漫画を元にしておりまして、前半が1巻、後半が2巻、前後を繋ぐワキ的な立場のバトー(馬頭)は押井守監督の映画「ゴースト イン ザ シェル」「イノセンス」風味となっております。
第三次核大戦、第四次非核大戦を経て世界が荒れ果てた2040年、戦争による技術革新は人類に二つの新技術をもたらしました。
一つは人体の一部もしくは殆ど全てを機械に置き換える義体化、もう一つが今で言うスマホとコンピューターを脳に内臓する技術、電脳化です。
人間を超えた身体能力を持つ犯罪者が跋扈し、電脳ハッキングによる各種機関への侵入や人格の乗っ取りが横行する時代、これら技術革新によって凶悪化した犯罪を、時には武力をもって取り締まるのが、首相直属の秘密組織・攻殻機動隊(公安9課)であり、その実質的なリーダーが草薙素子です。

彼女は幼い時に脳と脊椎の一部を除いて全身を義体化しており、その熟練度と才能から優れた義体使い、電脳使いであり、特に電脳によるハッキング技術は世界でもトップクラスであるとされています。
攻殻機動隊の魅力あるキャラクターの中で、VR能には素子の他にバトーと人形使いが登場します。
バトーは素子ほど義体化の進んでいない男のサイボーグで、屈強なボディと陸自のレンジャー部隊にいた時に採用した、高機能な義眼が特徴です。
もう1人登場するのが人形使いと呼ばれるハッカーです。
人形使いは国際指名手配されている凄腕のハッカーなのですが、実は9課と張り合う公安6課が各種工作や謀略を行うために秘密裏にプログラムしたAIでした。
それが膨大な情報の海を行き来するうちに自我を持ち、生き物として人格を主張するにいたったものです。

原作にはその要素は少ないのですが、押井守監督版の素子はアイデンティティの危機にあります。
脳と脊椎の一部しか無くて人間と言えるのか、自分とは何であろうかという問いに苛まれています。
素子の全身義体は国の機材であり、人格のありどころとされる脳は自ら見ることができませんから、自分を感じることのできるのは、機械と生き物をギリギリのところで隔てている、ゴースト(霊、魂)のある無しのみなのです。
そう言う危機にある素子を「守る」という形で愛しているのがバトーです。
全身義体である素子もバトーもサイボーグですから、生殖をし子孫を残すことが出来ません。
自らの存在をゴーストに問いかける素子を、守り続けるのがバトーの生きる目的であり、だから押井守版の最後にバトーが用意した素子の義体は少女型で、ずっと庇護させてほしいという願いが見て取れます。
あの元ネタはレオンですね。笑
脳とゴーストのみしか持たない、つまり人間の中で最もネット上の存在に近く、人間としての生殖能力の無い素子にとって、最高峰のAIであり疑似的なゴーストのみの存在である人形使いは、世界で唯一生殖の出来る可能性のある相手でした。
それは人形使いにとっても同じです。
ですから人形使いは素子を求め、素子も人形使いに予感を感じ、その融合のプロポーズを受けたのです。
その生殖、その融合は生き物の世界から離れ、情報の海の中でのことであり、宇宙誕生以来初めての形でありました。
それは日本神話において原初の海月なす海で、イザナギとイザナミが天御柱の元で交わした神婚と同じであり、それは国生みであり、新たな世界を作り上げる出発でもあります。
そして出来上がりつつある世界に、神話の神々が次々と新しい神を生み出していくように、素子は同位体を残していく、というのが原作漫画2巻の設定です。
素子の同位体達はネット世界を自由に行き来し、仏が様々な変化身を持つように、神々が様々に変容するように、現実世界の各所に配置された義体に入ってはデバイスとして使っています。
そのようにして各々分化していった種々の同位体達が集い、世界を新たな段階に進める活動をし始めたというところで、原作の攻殻機動隊は幕を閉じます。
2巻はぶっ飛んでます。笑

この漫画がこれほど人気作品でありながら、難解だと言われるのは、極めて人間に近いロボットと電脳化した人間の入り混じるハードSFな設定と、人形、人形使い、ゴーストなど、独特の設定とキーワードが多用されているためでしょう。
今回謡本を作るにあたって読んでみて、漫画家の息子としての勘をもって考えるに、この作品が持つという人間とは何か?という問いかけとともに、漫画家とは何か?キャラとは何か?というテーマが、ハードSFの作画に忍ばされているように感じました。
例えば、人形と言うのは文字通りコマの中に描かれた人がたであり、その人がたが作中で能動的に活動する時に必要なのがゴーストなのだと思います。
父が以前、神がかってノッてるときには、筋や展開を考えなくても、キャラが勝手に動いて物語を進めてくれる、自分はそれをペンで記録するだけだと言っておりました。
これは「ゴーストが囁いて」いるどころか、ゴーストが大合唱している状態でしょう。
遅筆で有名な士郎正宗先生の場合、設定偏愛と豊富過ぎるビジュアルイメージが先立っていて、やや微弱な傾向にあるキャラのゴーストに耳を傾けて場面を作っていくという作り方である気がします。
アイデアの枯渇はあらゆる作家の危惧するところですが、よほどの天才でない限り、漫画家が一生の内自作のキャラに付与できるゴーストの総量は決まっていて、その枯渇イコール漫画家の死なのだと思います。
いくら描ける絵のアイデアが沢山あっても、ゴーストが切れてしまえば漫画は描けないのです。
そう考えてくると、人形使いとは正に人形を使って物語を描く、作者のメタファーでしょう。
作中に肉体を持たないハッカーとして君臨し、あらゆるキャラのゴーストハッキングが出来るのは作者です。
と言うかそれこそが漫画家の仕事です。
手塚治虫師から始まって、作中に作者自身や作者のアバターを登場させて、メタ視点で狂言回しをしたり、楽屋落ちのギャグを挿入するのはよくある手法ですが、このような形でハッカーとして作者が作品に干渉するのは、攻殻機動隊だけなのではないでしょうか。
作者は物語世界の作り手として、場面を作りキャラを動かせても、悲しいことにその世界に生きることはできません。
それはキャラ達にのみ許された権利です。
ですから人形使いの登場はまずこのタブーを破っています。
また、コマ展開の説明の無さに反して、欄外にびっしりと書き込まれる作者視点の解説も、作者による作中世界への侵食を思わせます。
神が自分に似せて人を作り、人が自分に似せてロボットを作ったという西洋原産SFの世界観からすると、作者とはキャラにとっての神であり、素子が人形使いに出会った時の天使のイメージは作中への作者の示現であり、素子の涙は創造主に出会った感動ゆえでしょう。
あの天使の羽は士郎正宗氏のペン先です。
そう考えると本当に危うい作品です。
作者が作品世界で生きられないように、キャラは作品世界から出ることはできません。
そこには決して破ることの出来ない殻があります。
それはコマです。
主人公である素子と、作者の暗喩である人形使いの融合とは、このタブーへの挑戦なのだと思います。
それは登場人物ではなくなることであり、作者でなくなるということです。
攻殻機動隊以降、士郎正宗先生がほとんど漫画を描いていないのも肯けますし、素子と人形使いが融合してのちを描く、超難解で有名な2巻が、物語に沿って人格を持ったキャラが活躍する、いわゆる“漫画”であることを超えて、ある種の美麗なビジュアルブックとなっているのも理解出来ます。
素子が人形の殻を離れ電脳の海に解き放たれたように、氏も漫画家の殻からビジュアルの海へ解き放たれたのでしょう。

今回冒頭と、最後ワキであるバトーが去って舞台が無人となる部分に「影を求めて潜れども、我が手には何も残らず」という地取(能のテーマを暗示する地謡の呟き)を書きました。
ここでは「(素子の)影を求めて(ネットの海に)潜ったが、(バトーには)その痕跡さえも掴めなかった」という意味なので、謡うとしたら地謡もしくはバトー役であるべきなのですが、敢えて人形使いを舞われた大島輝久さんがお一人で謡われました。
素子と融合し、ネット世界で同位体を生み出す存在となった人形使いの声で謡われることで、この地取の文句がバトー個人の心境であることを離れ、バトーはもとより素子も人形使いも、人間でもAIでも「何かを求める」誰しもが、それを得ようとしても結局は求め得ず、得たと思ってもその実感は幻となって失われるという摂理でテーマを貫く形になったと思います。
そして輝久さんの謡の声は、僕自身時々驚くくらい僕の謡の声と似てらして、8月に見に来てくれた僕のお弟子さん達ですら地取の謡を僕だと思ったとのことで、図らずも人形使いによるバーチャルバトーによって幕が開き閉じるという、VR能に相応しい演出になったのかもしれません。笑
今回11月版では輝久さんは出演なさいませんが、地取は輝久さん?かもしれません。


観世黒雪作の茶杓、銘「善界」を見せていただいた。
黒雪は観世座九代目の大夫で安土桃山〜江戸初期の人ですから、本物でしたら400年以上前の道具です。
黒雪はお抱え元である徳川家康が梅若大夫を偏愛するなど、諸々に不満を申し立て高野山に出奔し、服部慰安斎暮閑を名乗りました。
服部は世阿弥伝書にあるように猿楽者の先祖・秦氏由来の苗字、しかし慰安斎暮閑とは自虐的で哀れさを感じます。
その後梅若大夫の尽力もあり復帰しましたが、その梅若大夫が当時活躍していた梅若家中興の祖・玄祥で、師匠はこの名跡を襲名しました。

中興の祖ということで、なぜ一時期衰えていたかと言うと、梅若家は元々丹波猿楽の家であり、信長の頃は丹波の領主明智光秀に仕えていました。
この主従関係はなかなか深かったらしく、声が良く謡が巧みであったために妙音大夫と呼ばれた梅若大夫は、本能寺の変にも明智方で参陣し、その後とって返して来た秀吉との山崎の合戦において深傷を負い、討ち死にしました。
当主である妙音大夫を失ったため、梅若家は残された幼い大夫(のちの玄祥)を守りつつ、豊臣時代には謀反人の家として丹波で謹慎状態にあったと聞きます。
権力者の興亡によって連なる人間の立場が浮き沈みするのはよくあることですが、家康が梅若大夫を重んじたのは豊臣時代に対する巻き返しだったかもしれません。
その時代を読んで江戸に進出したのが、役者として大いに成長した玄祥でした。

ちなみに本能寺の変の二週間前、信長は家康を安土城に呼んで接待しました。
その差配役を命じられたのが光秀、宴席で能を演じたのが梅若の妙音大夫でした。
ところが用意させた魚が腐っていたということで、激怒した信長の命で光秀は急遽差配役から外され、能を舞った妙音大夫も出来が悪かったとのことで、演能途中にもかかわらず舞台から降ろされ折檻されたと伝わります。
光秀の差配で四座(観世、宝生、金春、金剛)の大夫を差し置いて任された妙音大夫の、後ろ盾を失った状況で、しかも不機嫌をきわめた信長の前で能を舞った心境やいかに??
本当に魚は腐っていたのか?本当に梅若大夫の能は下手だったのか?など考えると、この二週間後には日本史を大きく転換させる大事件にまみえる主従の、歴史の文面には残らない、ギリギリの暗闘が想像されて興味が尽きません。
のちに家康が、その日眼前で折檻された妙音大夫の息子・玄祥を寵愛したことにも、因縁めいたものを感じます。

さて、黒雪作の茶杓はその人となりを伝えるのかは分かりませんが細身で繊細、「善界」とした銘の見立ては大破した天狗の羽団扇であると想像しました。
能「善界」は、中国から日本の仏教界を滅ぼしにやってきた天狗の首領・善界坊が、高野山ではなく、比叡山の高僧と神仏によってコテンパンにやられて逃げ帰るという物語です。