少し前になりましたが、終戦の日の「巣鴨塚」は、久しぶりに終わった瞬間、シーンと痛いような静寂が耳を刺した舞台でした。

演者一同はいいものにするために力を尽くしたわけですが、お客さまの多くはテーマ的にも台本的にも、飲み込み辛く感じられたものと想像します。


コロナ前に喜多流の大島輝久さんからのお電話で、新作の能を書いてほしいとご相談いただいたのが、僕にとっての「巣鴨塚」の始まりでした。

現代美術家・杉本博司さんが女優の余貴美子さん、輝久さんと10年前に上演した朗読劇「巣鴨塚  春の便り」、これを能の形にする企画が立ち上がり、輝久さんとご一緒したVR能「攻殻機動隊」の能本を僕が書いていた縁でお声がかかりました。

シテは石原莞爾とともに満州事変、満州国建国を主導し、敗戦後東京裁判ののち巣鴨プリズンで刑死した板垣征四郎陸軍大将、杉本さんがこの構想を得たのは、板垣が処刑前にしたためた、長大な自叙伝的漢詩の写しを見た時だったそうです。

この漢詩はA級戦犯の弁護を無報酬で請け負ってくれた弁護士に、せめてもと受刑者達が残した揮毫帳の最後に書かれたものでした。

お受けしたものの能本を書く上で難しいと思われたのは、シテの板垣征四郎は軍の高級参謀であり、戦場ではなく参謀本部にいる人物のため場面が作り難いことに加えて、石原莞爾とともに主導した満州事変、満州国建国が歴史上、日本の汚点に近い評価を受けていることでした。

まず能になるようなアクションの無い題材を能にするのには、「船弁慶」や「碇潜」の知盛に仮託して滅亡平家が描かれたことを参考に、板垣を人形にして必要に応じて先の大戦の諸様相を着せ替えることにしました。

能の作りとしては将軍ということで「頼政」のイメージを借りました。

また、当時の軍の所行は絶対に賛美できるものではありませんが、彼らとても歴史に身を投じて日本の国益を守るために力を尽くした人物であり、現代からの視点で不当に貶める必要はないと考えました。

こういう作品ですから、テーマ的に軍部の罪の糾弾、戦犯とされた人々の戦争責任の追求、もしくはそれに対する反論など、歴史的な視点からの叙述、もっと言えば板垣に反省させる能が期待されるのだろうと想像はしました。

が、思想を開陳するような能はどう考えても醜いですし、板垣の口を借りて僕の歴史観を述べるような舞台にはしたくなかったので、かなりフラットに歴史を見た上で、板垣への弔いを通して大東亜戦争に関わった人々の鎮魂になるよう、形としては保守的な複式の修羅能を作ることにしました。

世阿弥も能を書くのに才能はいらないと言っている通り、能とはよく出来たもので、題材があれば様式に沿って言葉は自然と決まって来ますし、言葉を書くのと節付けと型と舞台運びはほとんど同時に出来上がります。

輝久さんから電話をいただいてから板垣に関する本を読んで、数日であっけなく書いてしまいました。

その後コロナで一度企画が流れ、4年を経てついに上演されることになり、一発書きのまずさを直すべく見返したのですが、どうしても今ある形以外には書き改めることが出来ませんでした。

十分に書けたのか今もって自分でもわからないくらいですので、この作品がテーマ的に、台本の出来的に諸々誹りを受けることがありましたら、それは僕の責任であると言い切れます。

それにしても「巣鴨塚」について考えるなかで、未来から見れば、政治家から一般大衆まで総体としての令和日本人は、僕らが愚かなことをしたと見なす昭和初期の軍国日本人より、おかしな道を進んでいるかもしれないと思いました。

歴史の読解力を高めて、大日本帝国時代のことを我がこととして学ばなければ、同じ過ちを繰り返す、もしくはもっと恐ろしい過ちを犯すかもしれません。

こういう新作能が企画されること自体、僕らが育った頃の、軍という物全てにアレルギーが起こる時代が終わり、あの頃の日本人がどうであったか、恐れず冷静に振り返る、むしろイデオロギーに染まった色眼鏡を外して学ぶべきタイミングが来た証左なのだと感じています。


「巣鴨塚」も12月23日(火)に再演が決まりましたので、ご覧になる方のご参考に能本作成者として、大変野暮ながら台本に添えて解説を書いてみたいと思います。

※ここには載せませんが狂言口開、間狂言部分は輝久さんが大枠書いてくださり、ワキ方、狂言方を交え作りました。



次第

ワキ「枯れ野に春は遠からじ。枯れ野に春は遠からじ巡り廻るは因果の春〈1〉

「これは唐土方〈2〉より出でたる僧にて候。我いまだ倭国関東を見ず候ほどに。この度参り巡りて候。さても山河も見へず高楼軒を連ね。天を摩する有様は宛ら畳々たる峰の如し。行路を廻る車は轣轆として喧しく。人々殷昌して賑わひ果てなし。さればこそ東の都にて候。また此所は巣鴨とやらん申し候。さても栄へたる街の邉りを見れば。寂しき荒れ地の中にひとつの塚あり。こはいかなる塚やらん。あわれ詳しき謂れを知る人の通り候へかし〈3〉

アシライ出シ〈4〉

前シテ「春近くして春の陽なく。冬名残りて春の香もなし。げに恐しや春の便り。寂滅亡国の響きあり。 国破れて山河あり。春の訪れ恐しや

下歌

「歩みを運ぶ老いの身の。踏み行く石の原遠き〈5〉

上歌

「西の空より吹き寄する (打切) 西の空より吹き寄する。風懐かしく聞こゆるは。還り来るしるべか。御法の声か徒夢か (打切) 中有を照らす燈火か。闇踏み分けてこの塚に。手向けをなすぞありがたき。手向けをなすぞありがたき〈6〉

ワキ「いかにこれなる老人に尋ね申すべき事の候

シテ「こなたのことにて候か何事にて候ぞ

ワキ「御身はこの塚の謂れを知る人にてましますか

シテ「さん候これはこの塚守にて候

ワキ「塚守にてましまさば。これ程賑わひたる街の邉りに。か様に寂しき塚の候を不審に存じ候。こはそもいかなる所やらん御教へ候へ

シテ「これこそ巣鴨塚とてこの街の旧跡なり。さも恐ろしき裁きの跡なれども。戦去り富国の月日重なりて。人々これを忘れ果てたり

ワキ「御教へ祝着申して候。尚々巣鴨塚の謂れ。詳しく御物語候へ

シテ「さらば語って聞かせ申し候べし。かつて世界を焼きし大いくさあり。その火の海は亜細亜をも飲み込まんとせしが。日の本のおのこ共。義を重んじ心は直く勇敢なり。東亜を守らんと勇躍せしが。敵は多く我は寡なし。つひに矢も尽き刀折れ国土は荒廃す。帝これを深く嘆き。玉音を垂れ賜い戦の果てを定め給う。それより松嵩の中将〈7〉を頭として。敵の軍は進駐し。将兵を選み罪人となし。裁きののちここにて七人の命を取る。その時しもは師走の二十三日。や。しかも今日に当たりて候。その巣鴨プリズンの。跡なるがこの巣鴨塚なり〈8〉

下歌

地謡「されども彼らの心には。一片の曇り無く。この国の行く末に。殉じ果てし者どもなり (打切)

上歌

「中にも。板垣の大将は (打切) 板垣の大将は。関東の兵に石原の少将伴ひて。凍り付く。満蒙の地の果てに。王道楽土の夢を見し。五族協和の花の園幻とこそなりにけれ。夢幻となりにけり〈9〉

ワキ「不思議なりとよ塚守の。あまり委しき物語。そもやいかなる人やらん

シテ「我こそ生きて王道楽土の夢を追ひ。負して俘虜の辱めを受け。死して咎人の汚名を受けし者なり

ワキ「げにもげにも。謂れありげに見えて候。そも死したるとは

シテ「国に奉じ巣鴨に死して。靖国に祀られしが。国の大臣の訪れも絶え果て。生死の狭間に浮かばれぬ。恥かしながら板垣の。亡霊これまで来たりたり

下歌

地謡「春の便りの無き世かな。あはれ遠き世は。兵火の憂いを忘れたる。〈10〉楽土の如き栄えなり。されどもかつてを忘るれば。修羅の夜となるべきなり。その理をも聞け人よ。夢ばし覚ましたもうなよ夢ばし覚ましたもうなよ (中入り)


ワキ「さては板垣の四郎常信の幽霊。仮に現はれ給ひけるぞや。元より同じ蓮の法に。巡り逢ふたる友なれば。いざや御跡弔はんと

待謡

「今はただ。南無妙法蓮華経。妙法蓮華経と。唱ふれば峰々の。凍れる雲は吹き消へて (打切) 冴へゆく空に真如の。月さへ出ずるあらたさよ月さへ出ずるあらたさよ〈11〉

出端

後シテ「四方の海みなはらからと思う世に。などあだ波の立ち騒ぐらん。それは明治の御製なり。〈12〉敗将世を去って幾星霜。然れども寒林に骨を打つ。霊鬼の死地を離れ得ぬ

地謡「さすらいの。身の浮き雲も散り果てて

シテ「真如の月を。仰ぐ嬉しさ〈13〉

ノル

地謡「高楼にこだます軍靴の響き。あるか無きかにかげろう姿は。名に負う帝国陸軍の装い。さも厳厳たる有様なり

ワキ「不思議やな月澄み渡る塚のほとりに。軍体の人の見えたもうは。板垣の大将にてましますか

シテ「なかなかに我は北支の守。板垣四郎常信の亡霊なるが。この一夕の報恩に。慙愧に堪へぬ古へを。語り申さん聞きたまへ〈14〉

ワキ「いたはしやなほ執心の様々に。思ひも残る時は冬

シテ「師走八日の早暁の。潮の満つる暁に

ワキ「真珠の珠のおのこども

シテ「ニイタカヤマ上りしより

ワキ「修羅の時にぞ

シテ「なりぬべき

上歌

地謡「ますらをが。悲涙のあとをご覧ぜよ (打切) 悲涙のあとをご覧ぜよ。無辺なる大陸の。果てまで。歩みを運びつつ。帰らざりし防人も。または大海の。藻屑となりし荒鷲も。ふるさとの山河を守らんためか哀れなり〈15〉

クリ〈16〉

地謡「そもそも列強の覇権。世界を貪り東亜に迫るその勢ひ。さながら津波の如くなりしなり

サシ

シテ「中にもこの日の本は。その悠久の起こりより

地謡「文武二道を事として。清廉なりしもののふの。防ぎ守れる国土なり

シテ「我も一つの盾たらんと

地謡「蛍雪年を知らず。武を練り文を修めて。血気昂然たるところに。朔北の風雲急となり。戦塵の天に。身を投ず (打切)

クセ

「海征かば。水漬く屍山征かば。草むす屍を晒さんも。武士の本懐なり。思ひ出ず満蒙の。地は荒れ鬼哭啾々たり。奢りたる作霖。貪婪なる学良に。民は。苦しみ仁人は。百年を愁ふのみ。地は哭き天の叫ぶ声。轟然たり柳条溝 (打切)貔貅たり一萬の兵。志士競って興起し。時も移さず彼の地に。大満洲を建国す〈17〉

シテ「されば王道楽土とて

地謡「一朝にして暗雲霽れ。清明にして恩讐無し。五族皆協和し。鼓腹して楽土を謳う。されども悟らぬ者ども愚かなる矛を打ち鳴らし。火花を散らすその地こそ。悲しむべし 盧溝橋  (カケリ)〈18〉

シテ「あれご覧ぜよ美しき。山河も街も火の海なり。陸海空の敵の将兵。この日の本を取り囲む

ワキ「げにげに見れば恐ろしや。夜空を覆ふ白金の鳳。猛火の雨を降らしつつ

シテ「帝都の闇も赤々と

ワキ「夜空を焦がす黒雲の

シテ「ただ一閃に消え去りし。かの広島や長崎も〈19〉

キリ

地謡「我らが科か哀しやな。我らが科か哀しやなと。四海を見れば果てもなく海原を埋む敵船の

シテ「大八洲を囲みつつ

地謡「矢玉を降らす大砲の。地を轟かし 山を崩し

シテ「さてまた陸に上がりたる

地謡「松嵩の軍兵雲霞の如く。戦車を連ね火炎を放ち。鬨を上げて攻め寄せる。皇国のつわもの滅敵の矢先を揃えつつ切先を並べて防げども。敵は多く我は寡なし。力なく倒れゆく。修羅の戦ひ哀れなり。かくて虜囚となりぬれば。かくて虜囚となりぬれば。刑戮近き身を知る東條の大臣の言の葉に

シテ「春の便りの無き世を去らん

地謡「我らに不義は無けれども永久の科を身に受けて万歳を唱えて失せし身なり〈20〉

シテ「懐かしき。閻浮の人よ今もなほ。東亜のほかに 東亜あるべき〈21〉

地謡「忘るるな人々よやがて修羅の夜は明けゆく。我らとこしへに礎となりて東亜の春を。守らんと言ひ残し。出ずる日影に手を合わせ。その魄霊の姿は。塚のほとりに失せにけり。巣鴨塚に失せにけり〈22〉


地トリ

「枯れ野に春は遠からじ。枯れ野に春は遠からじ巡り廻るは因果の春〈23〉



〈1〉朗読劇の地次第に用いられていた文句をそのままワキの次第としました。

「春の便り」と副題がついているように、「春」というのが「巣鴨塚」のテーマになっています。

「春の便り」とは、日米開戦のきっかけとなったコーデル・ハルの最後通牒・ハルノートを表す、杉本さん一流の言葉遊びであり、「春」は季節の春、敗戦から立ち直れない日本人の覚醒の時をも表していると思っています。

コーデル・ハルはノーベル平和賞を受賞しています。

〈2〉僕は最初ワキの出身地を板垣と同じ日本の東北(板垣は岩手)にしようと思っておりました。

東北の出と名乗っておけば大陸の東北(満州)もほのめかせると考えておりましたが、杉本さんよりワキは朗読劇通り唐土出身にしてほしいとの修正がありましたので、唐土出身としました。

現在中国は共産党政権であり、なかなか仏教徒ということが考えにくくはあるのですが、逃げてきた仏教徒、もしくは満州ゆかりの日本人、、とすれば成り立つかと思います。

〈3〉池袋の繁盛ぶりと巣鴨プリズン跡にある東池袋中央公園(サンシャインシティ内)にひっそりと立つ巣鴨塚(石碑)。

現実の石碑には「永久平和を願って」と彫られています。

永久とA級(戦犯)をかけているのではないかと思ってますが、どうなのでしょう?

高楼は池袋サンシャインシティのビル群を指します。

ワキの語る情景描写の漢語表現は御厨さんの加筆です。

〈4〉アシライ出シで忽然と幕際に登場するシテの出の文句は、杉本さんの文章をそのまま引用しました。

「国破れて山河あり」から、日本の山河をテーマとして各所に書き込みました。

前シテを毎年現れる巣鴨塚の塚守としました。

〈5〉東池袋中央公園の石碑に通じる敷石の道と、石原莞爾をかけました。

〈6〉「遠き西の空」はあの世、大陸、満州をイメージしてます。

石原莞爾は板垣の死刑判決を聞き、「石原もすぐに参りますので、あの世の道案内はお任せ下さい。」との伝言を頼んだと言います。

その逸話を加味して「還り来るしるべ」としました。

三ノ松から舞台に入ったシテは巣鴨塚に手を合わせます。

〈7〉松笠→マッカーサー。

杉本さんの言葉遊びです。

〈8〉巣鴨プリズンでのA級戦犯7人の処刑は、12月23日未明に執行されました。

この日は当時の皇太子(現上皇陛下)の誕生日でした。

次の天皇の誕生日に日本の戦争犯罪を思い出させる、アメリカの計画です。

その日に引かれて出て来た板垣の霊が「や?」と思い出す素振りを見せるのは、能によくある小芝居です。

〈9〉「五族(満州、日本、漢、朝鮮、蒙古)共和」「王道楽土」は満州国建国のスローガンでした。

傀儡国家を誤魔化すための綺麗事でもあり、真にそう思い込んで身を投じた人々もあり、満州国は正邪一面からは語れない存在です。

満州国は日本の敗戦により、13年で解体します。

〈10〉兵火→陛下

〈11〉「今はただ 妙法蓮華と 唱えつつ 鷲の峰へと いさみたつなり」板垣の辞世。

峰々は池袋のビル群。

〈12〉明治天皇御製の「四方の海 みなはらからと 思う世に など波風の 立ち騒ぐらん」の「波風」を日米開戦前夜の御前会議で昭和天皇は「あだ波」と言い換えて詠まれました。

〈13〉「さすらいの 身の浮き雲も 散り果てて 真如の月を 仰ぐ嬉しさ」板垣辞世。

〈14〉北支は北部支那、つまり満州のことです。

「板垣四郎常信」は杉本さんの作った名前です。

板垣も加わり大陸経営計画などを練り上げた、陸軍エリートの集まり一夕会の「一夕」を入れました。

「慚愧に耐えぬ」は板垣の手記に頻出する言い回しです。

〈15〉満州事変がついには日米開戦にまで至ったことを語るくだりです。

真珠の珠の緒と、真珠湾に攻め寄せる男達を掛けています。

大陸に、大洋に散っていった兵隊たちも、思いは故郷を守りたかったのだとしました。

〈16〉クリサシクセと、ペリー来航以来の日本の状況と、その中で育っていった板垣の半生を、板垣作の漢詩を引用しつつ語ります。

ここは将軍として頼政のように床几に掛けた演技です。

〈17〉「海征かば」は当時愛唱された軍歌であり、もとは万葉集大伴家持の長歌です。

家持属する大伴家は大王を守る武の家でした。

清朝滅亡後の満州の荒れ果てた様、張作霖、学良親子など軍閥の跋扈する様、柳条溝事件(満州事変)により状況を改め満州国を建国したことを板垣の立場から語ります。

漢詩から引いた「轟然たり柳条溝」は能「山姥」を模した型どころになってます。

〈18〉満州が治まり、日本をとりまく状況が安定しつつあるかと思われたのも束の間、日中双方の小競り合いから盧溝橋事件が発生し支那事変(日中戦争)が勃発します。

カケリは日中戦争から戦線拡大し、不拡大派であった板垣の努力空しく、ついには大東亜戦争にまで至ってしまう様を表します。

カケリは輝久さんのアイデアで矛を持って舞われます。

〈19〉「白金の鳳」はB29です。

以下、全国の都市を焼き尽くした空襲から、昭和天皇の決断により食い止められた本土決戦を、修羅の巷で幻視する場面になります。

こうなってしまったのも、自分たちの敢行した満州事変が発火点となったのだと悔います。

大空襲のあった順番に「東京大阪名古屋福岡」という台詞を書きましたら、杉本さんから生々しいので「帝都の闇も赤々と」にしてほしいと言われ直しました。

〈20〉「永久の科」→「A級の科」

12月23日の処刑の折、教誨を受け、葡萄酒を飲み干した板垣は、割れんばかりの声で万歳を唱えて刑に服したと伝わります。

両手を固く縛られていたため手を上げることは叶いませんでしたが、能では両手を高々と上げます。

「万歳を唱えて」の節を甲グリにしたのは林喜右衛門さんのアイデアです。

〈21〉「懐かしき 唐国人よ 今もなほ 東亜のほかに 東亜あるべき」板垣辞世。

「唐国人」を「閻浮の人」としました。

〈22〉中入り地にも書いた「修羅の夜」は「修羅の世」でもあります。

「出ずる日影に手を合わせ」の部分は澄んだ感じを出したかったので弱吟にしました。

日本人の魂を浄化するには日の出の日輪ということで、日影に手を合わせシテは消えていきます。

巣鴨プリズン跡がサンシャインになったことともかけています。

処刑後すぐ火葬された板垣ら7人の遺骨は、GHQにより海洋投棄されました。

〈23〉輝久さんのアイデアで、橋掛を帰って行くシテを地トリ(低く茫漠とした謡)調で謡うテーマソングで送りました。





今度の梅若会で舞わせていただく「天鼓」は、師匠の数ある得意曲のなかでも、特に目に焼きついている曲の一つです。
主人公の天鼓は神話的な誕生をした音楽的天才少年、しかもその天才を世の中に広く鳴り響かせるための、愛器までもが手の中に天降るという、能力的にも物質的にもギフテッドであり、その音楽の輝きを光の粒として撒き散らすような舞台は、師匠という天才のために用意されたものだと感じたものでした。
師匠はよく、「天鼓」の舞は舞そのものではなく、音楽のグルーブや拍子と絡まる旋律の美しさを「舞」として表現したのであり、天鼓のすり足は音符だと仰ってましたが、そんなとき、楽譜の向こうにある世界に行き来出来る人にしか感得し得ない世界を垣間見た気がしたものです。

この能の舞台は後漢時代の中国。
後漢は、前漢を簒奪した王莽を討って光武帝劉秀が復興したものの、外戚や宦官が実権を握り、代々幼帝が傀儡となり賄賂政治が横行した、ある意味中国王朝らしい時代です。
少年天鼓から愛器天鼓を奪おうと考えた皇帝も、もしかすると天鼓と似たような年齢の、必要が無くなれば廃されるだけの、哀れな操り人形であったのではないか、などと考えてしまう時代設定です。
後漢は九歳で即位した十四代献帝の御代に、黄巾の乱から引き続いた混乱のなか滅亡しました。
いわゆる三国志の時代です。
「天鼓」の帝が幼帝であったかは描かれませんが、皇帝とは天命をもって天から使わされた唯一の天子です。
音楽という使命を帯びて生まれたとは言え、天から使わされた天鼓はある意味天子であり、天下に二天子はあり得ない以上、帝としては愛器天鼓を奪うか、少年天鼓を呂水に沈めて、唯一の天子の立場を守らなければなりませんでした。
その目端に少年天鼓を捉えたあたり、この帝が幼帝であった感触を受けたりもします。

「天鼓」は「藤戸」と同様、権力によって不当に我が子の命を奪われた親と、権力者の弔いによってその子本人の霊が登場する、前後二場構成の能です。
「藤戸」は母親、「天鼓」は父親、「藤戸」の漁師の子は恨みを述べ、「天鼓」は述べないという違いがありますが、これは漁師と芸人という違いが関係していると思います。
「藤戸」の漁師は本当に不当な理由で殺されましたが、天鼓は音楽ゆえに殺されました。
つまり我が芸術を守るために殺されたとも言えます。
その後帝の命でも鳴らなくなった天鼓には芸術家の反骨が象徴されていますし、老父が打っての妙音の奇跡、後半現れた天鼓の霊の喜びに溢れた演奏は、不当に自由や命が奪われても芸術は死なない、権力に対する芸術の勝利をテーマとして語っていて、作者不明のこの曲に僕は世阿弥を感じます。

世阿弥は父・観阿弥をも超えると嘱望した我が子・元雅を三十歳そこそこで失います。
時に世阿弥は七十歳。
この事件の背景にはその後の世阿弥の佐渡配流と同様に、音阿弥一派を後援していた時の将軍・足利義教との確執があるように思われます。
義教には元雅を廃して、音阿弥に観世大夫を譲らせる意向がありました。(元々甥の音阿弥が世阿弥の後継ぎでした)
作風を見ると鬼才路線ではあったものの、間違いなくギフテッドだった元雅を天鼓、帝を義教とすると、老父世阿弥は天鼓の父・王伯です。
王伯は登場すると我が子の死を嘆き悲しみ、「伝え聞く孔子は鯉魚に別れて。思いの火を胸に抱き。白居易は子を先立てて。枕に残る薬を恨む」と、偉大な先人も我が子を失っては悲しみに沈むほかなかった故事を謡いますが、これと全く同じ文句が、元雅を失った世阿弥が絶望のあまりに、泣きかがまりながらしたためた手記、「夢跡一紙」に書かれています。
世阿弥ではなく後の誰かが「天鼓」を書いたのだとしても、前シテ・王伯の嘆きには世阿弥の肉声が留められている、そんな気がします。
(「天鼓」の記録上の初出は世阿弥死後23年後、同じ文句は乱曲「初瀬六代」にもあります)
そうすると後継ぎ息子を失い、一座としても廃絶寸前の落ち目にあった世阿弥が、サイコパス将軍義教の召しを受け満座のなか一節を謡わされる。
そこで元雅遺作の一節を謡うと、老い木の枝に散り急いだ若木の花が咲き、見る人聞く人は感涙を覚えた、そんな場面が思い浮かびます。
王伯は天に還った、いまは触れ合うことの出来ない我が子とのつながりを聞いて、撥を落とすと泣き崩れます。

それにしてもこの曲が名曲として演じ継がれてきたのは、終曲に向かって宇宙的な世界観を繰り広げるからなのだと思います。
天鼓とは、隕石の別名であり(天狗も同じ)、仏典によれば妙音を奏でる天上世界の楽器であり、牽牛(アルタイル、彦星)の別称です。
後半現れた天鼓の霊は、月の世界の天人の奏楽をまるで我がことのように懐かしみ、撥を振るって楽を演奏します。
アルタイル(牽牛)はベガ(織女、織姫)と天の川を隔てて、年に一度の七夕の夜を待ちます。
「天鼓」の舞台は天の川に見立てた呂水のほとり、折しも風涼しい七夕の宵です。
それはあの世とこの世の境の川でもあります。
七日の月は舟を象り、烏鵲(カササギ)は羽根を広げ二星の逢引きのために橋を渡す、その羽は別れを惜しむ二人の涙で染まり紅葉を敷いたよう。
北極星を中心に巡る天空を翔って「天の海面雲の波」と舞台を見渡しますが、星々や星雲を踏みながら天の川を渡っていく、牽牛の神話を肉体化したような最高の場面が続きます。
そんな天球の隅々まで響き渡る夜の音楽もたけなわななか、鳥は鳴き、朝を知らせる鼓は鳴り、時を惜しむように最愛の天鼓に駆け寄り、一つ二つと打った撥は主を失い地に落ち、能は終わります。



手元で見るより舞台で見た方がいい能面がある。

逆に手元では美しくても、舞台に着けて出ると表情が出ない面もある。
色々見ていて思うのは、手元でいい面は、面のサイズの中に工芸品としての美しさを追及した面で、緻密さはあっても能楽師の肉体を必要としていないから、舞台では生きてこず、逆に舞台で生きる面は、装束を着けて演技をする、能楽師の肉体と組み合わさることで完成するのを見越した造形であるから、手元でいい面より、時間的空間的な意味で、把握された美のスケールが大きい。
僕らに必要なのはそういう面であり、古作にはそういった面が多い。

それ単体で存在し得るか得ないかという点で、面は文学より歌詞に近い。
文学はいくら書き込んでも成立するかもしれないが、歌詞には、メロディの彩りを存分に羽ばたかせる余白が必要である。
書き込み過ぎた歌詞は、言葉の堆積がメロディを濁らしリズムを踏みつけ、歌を地面に縛り付ける。
古き歌に「あの日、あの時、あの場所で」というフレーズがあったが、文章的には大変無責任なこの詞章が、歌となるとどれくらいメロディと溶け合いイマジネーションを喚起するか、おじ&おばちゃんなら知っているだろう。
舞台で生きる面は、装束の色味や金糸の煌めき、謡の調子や囃子の拍感、演者の息遣いを吸い取って、様々な表情を見せる余白をまとっている。
そういった余白まで造形するという感覚は、面そのもののみを仕上げようという意識からは生まれないであろう。
よく出来すぎた子役が役者として大成しにくく、少しのんびりでやんちゃな子の方が伸び代があるのと同じかもしれない。
また、ある種の表情や詩情、雰囲気を作者の好みで添加された面も、あらゆる場面で作者の主張が演者と観客のやりとりを邪魔するので使い難い。
能楽師が我が芸風を見せようとして勤めると卑しくなるように、能面職人が自分を出そうと打った面は能には溶け合わないと思う。
演技から小道具にいたるまで、我慢と抑制の上に成り立つのが能なのであろう。

もちろん本物の名品は手元で見ても舞台で見ても素晴らしい。
置いてあっても着けて出てきても、面の周りに世界が広がっていき、想像力は面の中に引き込まれて行く。
木で出来た人体の断片であることを超えて、顔面という造形に封じ込められた世界の本質なのではないかと、疑わされる面すらある。
いや、むしろ本質の世界に開いた穴から虚構の世であるこちらを覗き込んだ顔に見える。
そういった本物の名品は、どんな演者でも助けてくれるのか、力の無い演者をはじくのか、着けたことがないので分からない。
ただ、不思議なことに面にも似合う似合わないがある。
面の造作と演者の骨格、その人がまとっている雰囲気、肌の色合いなどもあるかもしれない。
最高の名品とまではいかなくても、自分に似合う能面に出会う、能面としても似合ってくれる演者に出会えるのは、この上ない幸せである。
演者はそうして生涯を終え、ひとときの相棒を送った面はまた新たな肉体を求めて数百年を生きていく。