ある先輩から、最近能を舞うとき役者として表現しようとし過ぎてないか?と指摘を受けハッとした。

能は演劇であるから、ほとんどの演目は全く役者心が無いことでは演じられない。
ただ、これは能の難しいところなのだが、役者心を全開にして臨むと、非常にいやしい舞台になってしまう。
謡の節も台詞の構造も、舞も所作もシンプルに出来ているから、そこに自分の思いを乗せたり色を出したり、思いつきや準備した工夫を表現するのは、誰でもいくらでもできる。
が、そういった個人的な思いが過ぎるとそれは演技の垢となって付着し、本道から外れた見苦しい能になってしまう。
役者心は必要なのに、工夫するのはいいことなのに、それらを抑制するか精製して透明にするかして、能の本道に対して敬虔な気持ちで臨まないと、ダメなことはわかっている。
そう思って師匠の映像を見返したりすると、誰もが欲が出てあれこれやりたくなるような所を、びっくりするくらいあっさりと演じていて、それでいてあれこれやるよりもよっぽど上級の効果をあげていて、振り返ればまだ入門の戸口を跨いだところにいる自分を見る気分になる。
本当に拙いながら少し演目をこなしてきて、そろそろ少し舞台上に居場所が出来た気がしていたが、まだまだ一生懸命墨を擦って、きっちり楷書のお手本をなぞらなくてはと思った。
能の演技は我慢とパッションの相剋から成り立っているのかもしれない。
現代特に得難いのは我慢の強さであって、能の修業がその人そのものを否定するくらい厳しいのも、その我慢を得る修練が不可欠であるからなのだろう。
それにしても無心に大きな正しい声を出し、手足を思い切り使って真っ直ぐ舞わせられた子方の時代を、自分の心身のルーツに持っている能の家の生まれはいいなぁと思う。
かつて師匠が僕らに見本を見せるとき、師匠が子方時代に先々代から習ったままの、真っ直ぐな骨が見えて圧倒されたことが何度もあった。
その師匠から稽古を受けるのがままならない、舞台のお直しを伺えない昨今が本当に不安である。
が、先輩のひとことで、危うく踏み外しかねなかった足を引っ込めることが出来たかもしれない。

11月17日(日)に「清経   恋之音取」を舞うので、必ず観にきて下さい。笑


僕もこのご時世であるから、年に数回コラボ公演や新作などがあり、例えば他ジャンルの音楽に合わせて舞ったり、その中で謡ったりということがままある。
その度に、他ジャンルの人たちにシンプルさを磨き抜いてきた能の凄さを褒められるし、何となくお客さんも感動してくれて、古典の能ではない自由さが楽しいのだけど、同時にそういう空間に能の枷を外して身を置くことの危うさも感じてしまう。
本当に基本の修練が済んで、守破離の離の段階にいる人が他ジャンルと自由に交わるのは構わないが、まだまだ修業段階にある我々が生半可な能の鎧を着ていっぱしに表現意識を持つことは、能楽師一生の修練を考えたときに、本道の能への敬虔な気持ちや畏れ、自分の欲や心身を律する我慢強さみたいなものを、容易く手放してしまうきっかけにもなると思う。
能の演技を外側から見ることが出来るという効能は捨て難いし、様々な舞台に対応する度胸がつくというフィードバックもあるが、失ってしまうと再び取り戻すのが難しい能の本道をわたる手形もあり、よくよく気をつけなければならないと思う。
本店では皿洗いしかさせてもらえないはずの寿司屋見習いが、ファミレスでバンバン寿司を握って寿司を語る、そういう弊がある気がする。
我が身を省みると恐ろしいが、僕は新作の能を作っていきたい人間でもあるので、肝に銘じておこうと思う。






能「船橋」と言えば大学時代観に行った観世会で、師匠が舞った舞台を今でも思い出します。

直面(素顔)で出て来た前シテの品格と心に響く謡、後シテのドロドロとした存在感と目を驚かす型の面白さ、素晴らしいお能だなと思いましたが、「船橋」はその後今に至るまで、僕でもあまり上演を見ない相当マニアックな能です。
テーマは万葉集の東歌(東国の民歌)、作者は間違いなく世阿弥、もともと田楽など他の芸能で演じられていた古い古い能を、初期世阿弥が存分に筆を振るって改作したため入り組んでおり、謡が多いということもあって上演が稀になっていると思われます。
能楽師は遠い(上演が稀な)曲が苦手です。笑

この能に引かれた東歌「東路の 佐野の船橋 取り放し 親しさくれば 妹に会わぬかも」は、「東国の佐野の船橋の橋板を取り外し、親が二人の仲を割くものだから恋人に会うことが出来ない」という内容で、船橋とは橋脚を持たず小舟を並べた上に橋板を敷いた、簡易的な橋のことを言います。
この歌は以下のような物語が下敷きになっています。
「むかし佐野の辺りを流れる烏川の両岸に、互いに愛し合う二人の男女が住んでいて、夜な夜な川に架かった船橋を渡って逢瀬を重ねていたが、それをよく思わない親達は、二人が会えないように船橋の橋板を外しておいた。
それを知らない二人は夜、対岸にお互いの姿を見つけると、喜んで船橋を渡り走り寄ろうとしたが、取り外された板間を踏み外して川に落ち死んでしまった。」
原典の万葉集では「かみつけぬ 佐野の船橋 取り放し 親はさくれど 我はさかるがへ」となっており、「親が仲を割いても私は離れまい」と少し異同はありますが、佐野の船橋は歌枕として、後世の多くの文芸の種となってきました。

能「船橋」は熊野から平泉を目指す山伏(ワキ)が、上野の国(今の群馬県)の佐野の渡りに着くところから始まります。
(この佐野は能「鉢木」の佐野源左衛門尉常世の領地のあったところです。)
するとそこを流れる川のはたに里の男女(シテ、ツレ)が現れ、山伏に橋を架ける寄付を募ります。
普通は現れたシテにワキから話しかけるのですが、「船橋」ではシテがワキに「寄付して下さい」と語りかける珍しい形です。笑
また、登場したシテ、ツレが橋掛りで謡いはじめ、途中から舞台に入るのは、やはりこの曲のテーマが「橋」にあり、橋を印象付けるねらいからなのでしょう。
この二人と山伏の橋の寄進をめぐっての掛け合いが、掛け言葉を多用しつつリズミカルに運ぶあたり面白く、世阿弥のどうだ!が聞こえるようです。
二人は例の東歌の上の句を引いて、この土地にまつわる悲恋の物語を仄めかしつつ、山伏こそ橋をかけるべきだと主張します。
理由を聞く山伏に、山伏の祖である役行者(役優婆塞)が葛城の神(一言主)を使役して架けさせようとした岩橋(久米路の橋)の故事を語りますが、ここの言葉の連なりが素晴らしく、葛城というのも大和猿楽の下地が思われて床しい気分になります。
葛城の岩橋を引くために、ワキを山伏にしたのかもしれません。
結局、葛城山と吉野にかけて渡すはずだった岩橋は、我が容貌を恥じた葛城の神が夜にしか作業をしなかったために、完成を見ず苔むしてしまいました。
この久米路の橋は佐野の船橋と同様、成就しなかった男女の仲の例えでもあり、それはそのままこの能のテーマです。
そして「佐野の船橋取り放し」「佐野の船橋鳥は無し」と、歌の読み方に二説あることを山伏が尋ねると、男はこの土地に伝わる、上記の船橋にまつわる悲恋の物語を詳しく聞かせるうち、我がことであったように語り出します。
やがて男は自分たちこそこの物語の二人なのだと明かし、あの世で重い苦患を受けていることを語ると、鳥は鳴かず鐘の鳴る夕空に消えて行きます。
橋を架け果せることが二人の愛の成就であり、菩提への道なのでした。

夜すがら山伏が二人を弔っていると、まずは舞台に女の霊が現れ、弔いにより三途の川から浮かび上がることが出来たことを感謝します。
男は橋掛り一ノ松にて紺色の小袖をかずいて謡い出しますが、これは女と違い浮かび上がれず水中に没していて、いまだはっきりと姿が見えないことを表現しています。
「通小町」ほどではないですが、男の方がすっきりしないパターンです。
ここで男は「泣く涙 雨と降らなん 渡り川 水増さりなば 帰り来るかに」と古今集(小野篁)を引き謡いつつ、「渡り川」と下を見ます。
「渡り川」とは三途の川のことで、亡き人を惜しむ涙が雨のように降って三途の川が増水して渡れなくなれば、あの人はこの世に帰って来るだろうかという意味です。
自分が浮かびかねている三途の水面を見る面白い型です。
そうはしていても徐々に山伏の弔いの効果によって、男も引き上げられ舞台に入り姿が見えました。
能では恋愛で死んだ者は必ずあの世で重い苦しみを受けますが、昔の出来事を再現して見せることで救われるというルールがあります。
二人は成仏への最後の仕上げとして、仲睦まじかった昔を見せようと、女はワキ座へ、男は闇夜を行く立廻で橋掛り二ノ松へ行き、川を隔てて両岸に佇む体となり、あの運命のひと夜が展開します。
月も傾き人も寝静まった丑三つ時の暗闇の中、集落を抜け出した男は、冷たい川風もいとわず対岸を眺めやり、女の姿を探します。
すると遠くに愛する人の姿を見つけ、お互いにそれとわかった二人は喜びに満ち溢れ、心踊るなかいち早く会おうと船橋を駆け寄ります。
が、親が外しておいた板間を踏み外し、お互い冷たい川水に落ちてしまう様を、橋掛りいっぱいを使って舞台へ走り込んだ男が、舞台の真ん中で両袖を巻き上げ舞台に飛び伏すことで表現します。
学生時代に見た師匠のこの演技が、忘れられないほど鮮やかでした。
大アクションを決めた直後シテは顔を上げ、例の「佐野の船橋」の和歌を一首丸々歌い上げ、自分たちのこの夜の死によって今に伝わる歌枕となったのだと告げるのでした。
舞台の山場に和歌を丸々引用してシテに歌わせるあたり、「風姿花伝」他にも書いてある作劇法そのままで、ああ初期世阿弥の筆だなぁと思います。
また、息の上がるアクション直後にしっかりと謡わせる、世阿弥のドSぶりも感じます。
前述の通り、恋愛で死んだ者はそのまま報いを受けるという能の原理により、二人は川に落ちてすぐ三途の川橋の人柱となって重い苦しみを受け、恐ろしい鬼の姿になっていましたが、行者の弔いにより仏果を得ることが出来たと手を合わせ、消えて行きます。
なぜ能の恋人は必ず邪淫の悪鬼となり、責め苛まれなくてはならないのでしょうか。
大和猿楽の芸のルーツには払われる邪鬼、亡者を責める獄卒の鬼がいて、その演技を流用して演劇(能)が始まりましたから、幽玄一本で走り出すまでは、鬼無しに能は作れなかったのかもしれません。

僕はワキ体質の人間として、能を舞う前にシテの面影を偲ぶため現地に赴くのを愛するのですが、今回は群馬の佐野に船橋伝承地を訪ねました。
もちろんかの船橋は現存せず、今はそのイメージを伝える、佐野橋という人道橋が架かっているとのことでした。
高崎から二両編成のローカル線に乗ってふた駅、佐野のわたし駅で降りると烏川は目の前に流れ、下って行くにつれ佐野橋はすぐに見つかりました。
橋脚こそ鋼材であるものの橋桁と欄干は木製で、昔を偲ぶよすがを残しているのが有り難い造りです。
駅の側の岸には上越新幹線も通り今まさに宅地化の波が押し寄せていますが、対岸は遠くに春の色に染まった小山の連なる、のどかな風景が残っていました。
欄干に手を掛けて謡の文句を繰りながら渡り、土地のいにしえに思いを馳せているとすっかり感動してしまって、あぁ渡った先の里山あたりに女の集落があって、約束を交わしてはここで落ち合っていたのかななどと、ついつい立体化した夢想のなかに遊んでいました。
佐野橋は観光用ではなく土地の人に実用されていて、僕があれこれイメージを巡らせている間も、多くの人々が行き交う生きている歌枕でした。
それにしてもこういう例は稀で、クレイジーな昭和平成の日本人は、全国の歌枕をほぼ破壊し尽くしてしまいました。
歌枕に時を経て襲ねられた文芸の衣こそ日本の財産であることに気付いて、これからはショッピングモールの駐車場や幹線道路の植え込みで排ガスを被っている石碑達を解放し、在りし日を思い再現する時代にしなければなりません。
こういう土地のいにしえと現代人一人ひとりを橋渡しする、いま僕らが能を舞う意味の一つはそこにあるのではないでしょうか。
僕らは歩く歌枕であるべきなんです。


「梅若会定式能」
4/21(日)13時開演 梅若能楽学院会館

能「弱法師  盲目之舞」小田切康陽
福王和幸、槻宅聡、曽和正博、國川純

能「船橋」川口晃平 鷹尾雄紀
村瀬提、一噌幸弘、鵜澤洋太郎、亀井広忠、梶谷英樹

ほか仕舞、狂言あり

チケットは僕にご用命下さると1000円引きです!
指定7000円、自由6000円





第五回  こがねい春の能「野守  黒頭」が明日、2月23日(金・祝)に迫りました!
まだチケットございますので、ぜひともお越しください!!
くどくど書いてますが、「野守」は最高のエンタメ作品ですので、初心者の方もぜひ!!






「野守」について
世阿弥の先輩たち、大和猿楽の役者は興福寺や春日大社など奈良の寺社に仕え、今で言う節分の豆撒きの鬼役を演じる身分の無い者たちでした。
その追儺の儀式にて、恐ろしく勢いある鬼を演じるとともに、払われて逃げて行く際の滑稽な演技もレパートリーであり、鬼のものまねのバリエーションを流用して彼らは演劇を創始し、それは能と呼ばれました。
美少年として足利義満に気に入られた頃の、世阿弥の幼名が一説には鬼夜叉であったのも、大和猿楽の根本に鬼というものがあったからです。
そうして大和から都へ進出した世阿弥でしたが、自身の芸の源流にある鬼のものまねを否定し出自を消そうとしたのは、時代や上つ方が求めた幽玄という美意識と鬼とが、あまりにも合致しないためでした。
その世阿弥が活躍の場を奪われ零落してゆく、悲劇的な色彩を帯びた後半生にいたって、敢えて鬼の能を作ったのが「野守」だと言われます。

「野守」あらすじ
春日野を訪れた回国修行の山伏の前に野守の老人が春日の風情を愛でながら現れる。
老人は春日野の野守の鏡と呼ばれる泉のこと、昔この野に住んだという鬼の持つ鏡のことを語る。
また、雄略天皇が狩りの折失った鷹を、野守が水鏡に映して見つけた歌物語を語り昔を懐かしむと涙を流す。鬼の持つという本物の鏡を見たがる山伏に、それは恐ろしい物であるから、鷹を映した水鏡を見るべきだと言い置いて、野守は塚の内に消えて行く。
夜更け山伏が行をして待っていると、老人が姿を消した塚から大音声が響き、大きな鏡を持った鬼が現れる。
恐れる様子を見て帰ろうとした鬼を呼び止めた山伏に、鬼は天上界の際、東西南北の際を鏡に映し大地の底の地獄の有様を見せると、地面を蹴破って地底に帰って行く。

野守の老人が守る野は単なる原っぱではなくて、天皇家が鷹狩りや薬草狩りをする、ある意味神事を行う禁足の聖なる区域でした。
そういう場を管理出来るのは普通の人間ではなく、やはり霊的な世界に触れうる、カースト外の特殊な人々でした。
その身分や特殊な能力、職掌は、一般社会の外にいて芸能を事とした、世阿弥たち猿楽役者と似通うものがあります。
また、春日野に隠れ住む鬼というのも、鬼を得意とした大和猿楽という出自を考えれば、世阿弥の面影を宿した存在と言えるかもしれません。
思うに野守の老人、野守の鬼は、世阿弥の自画像として造形されています。

「野守」の前半には、野守によって3種類の「野守の鏡」が語られます。
一つは野守が朝夕に影を映す野中の池、二つめはむかし春日野に隠れ住んだという鬼神の持つ鏡、三つめは雄略(天智)天皇の鷹狩りの逸話に登場する、行方不明の鷹を映し発見するきっかけとなった池。
世阿弥の能には水鏡に我が姿を映し、若く美しかった昔を思って涙する老人がよく出て参りますが、一つ目の野守の鏡は正にその舞台装置となっています。
野守の老人の懐旧の言葉を聞いていると、ただ失った若さを惜しむだけではなく、かつては身分の無い身でありながら、帝の思し召しを受け、また、自らが管理するこの野が、上つ方の盛んに訪れる場であった頃の、遠く過ぎ去った栄光への涙であることがわかります。
二つ目の鬼の鏡の逸話では、隠れ住みながらも鬼として存在し得た昔が語られています。
三つめの鷹を映した水鏡は、一つめの野守の鏡と同じ池だと語られますが、その水鏡越しに誰も見つけ得なかった鷹を野守が見つけた、これまた昔話です。
鏡というのは、この世の本質を虚像として映し見せる道具です。
この鷹を見つけた逸話には、野守の老人に仮託して、誰も知り得ない、見得ないものを、世阿弥が人々に虚像として見せていた自負が描かれていると感じます。
それは能の秘密とでも言いましょうか。
後半、深夜にいたって塚から現れた鬼は、その手にした鏡に、仏教世界の天上界の際から自らの住む地下深く、地獄の有り様を映し出します。
相手が山伏でしたから、山伏の信仰する不動明王の眷属八大童子、五大明王の一尊降三世明王を見せたのでしょう。
恐らくこの鬼の持つ浄玻璃の鏡は相手の求めに応じて、森羅万象をある程度映し見せることができるのです。
身分の極みにある人々から漁師、木こり、海女乙女、神々から鬼まで、あらゆる存在を舞台に乗せ、その物語を虚像として表現し得る、それは世阿弥にとっての能、この野守の鏡とは世阿弥の能のメタファーなのだと思います。
パイオニアとして誰も知り得ない能の秘密を知っていて、筆の上でも舞台の上でも高く深く万物を表現し得るのだという自負。
ただ、都の貴人たちに求められて幽玄を追求した役者としての全盛期、賞賛のなか能を舞っていたのはいにしえのこと、ふるさとに帰ってそんな昔を水鏡に懐かしむ、世阿弥の姿が見えるようです。

普通の「野守」は赤頭に唐冠(中国風の冠)を被りコベシミを着け、小袖の上に法被という大袖の衣をまとい、左手に鏡、右手に扇子を待ちます。
これは「鵜飼」の後シテと全く同装で、閻魔大王など地獄の裁判官を表現しています。
一方「黒頭」の小書が付くとその名の通り黒頭になり、唐冠を被らず、法被を羽織らずモギドウの姿で、扇子を持たずに登場します。
冠も扇子も威儀を正す道具ですので、普通の「野守」の後シテが正装をした裁判官を表現しているのに対して、そういった物を廃し、能の約束事で半裸を表すモギドウ姿の黒頭の後シテは、褌一丁で亡者を懲らしめる地獄の鬼(獄卒)そのものを表現しています。
同じ「野守」でも、鬼の性質がずいぶんと違ってしまうわけです。