奈良の春日野にある瓦葺きのホール・甍で、ある先生が能「三輪」を舞われたことがありました。

師匠が地頭で僕も地謡の端に座っていたのですが、能が始まるとすぐに空気が変わり、後半の神と人との婚姻物語、神代のはじめの天岩戸神話にむけて、舞台上の時空が強烈に古代へと引き戻されて行き、濃密な神代を演者と客席が共有した驚くべき舞台でした。

奈良の古名「大和」は、日本の伝承上最古の権力者達が都を作った、奈良盆地南部の三輪山周辺をさす地名であり、「やまと」とは水との境を表す「港、みなと」と同じで、山のふもと、山本を表す普通名詞です。

つまり「やまと」の「山」とは、太古から神の坐すと考えられた最も有名な神奈備山・三輪山のことであり、当時日本の中心であった三輪山のふもとの小さな呼び名「やまと」が、奈良全体を、そして日本全体を表すことになったということです。

地酒と地魚は土地で頂くのが格別であるように、やはり大和猿楽の大和な曲を大和で上演すると、特別なことが起こるのだと思いました。


神話のふるさととも呼ばれる三輪には、三輪山の神を祀る日本最古の神社・大神神社があります。

この神社が古神道の様式を残していると言われる理由は、神体山・三輪山を拝する拝殿のみがあって、神の住まいたる本殿が無いところにあります。

そもそも神社の社(やしろ)とは屋代、つまり仮の建物を表します。

つまりお神輿のように祭りの場に運び込まれ、神祭りの目印にされ、祭りが終われば撤去されるのが屋代でした。

拝殿というのも恐らく常設の本殿が出来てからの考えで、元々はそれも無かったものと思われます。

つまりひっきりなしにお詣りに来る人間の事情で拝殿が作られたということです。

さて、大神神社の拝殿と三輪山神域(禁足地)の間には、三輪鳥居(三ツ鳥居)と呼ばれる、鳥居の左右に小型鳥居が合体した、三尊形式のような、風変わりな鳥居が立っています。

三輪鳥居は鳥居でありながら壁となっている、通行の禁止を形にした門であり、掲げられた〆縄が普通と左右逆になっていることからも、人の禁足のみならず神の封じ込めも表現されているのかもしれません。

それというのも、古事記日本書紀には、三輪山の神が天皇に祟った話がいくつも出てきます。

これは天皇家が外から大和に入って来て、元々いた部族を退け、大和の中心たる三輪山を占拠し、その神祭りを地元勢力から引き継いだということを表しているのでしょう。

つまりは恐ろしい三輪の神を神域に封じ込めたようとしたのです。

もともと恐るべき力を持ち、自由に空間をいききする存在だった神代の神が、神域の〆縄内が縄張りとなり、仏教が日本に伝わってからは、常設で常に仏が祀られている仏殿の影響を受け社殿が作られ、その力と共に本殿に封じ込められ管理されATM化するというのが、古代からの神道の流れです。

その後中世に至っては、神社より世俗的な力を持った仏教に飲み込まれる形で、神仏習合の憂き目を見るわけですが、これは日本の神は仏が民衆を救うために取った一形態に過ぎないという、仏を主、神を従とする考え方です。

仏が衆生を救うために神の形をとり、さらに神は人の悩みを知るために人の姿となって人と交わる、そのうちに人の苦しみや罪を背負った存在となってしまう。

奉斎する勢力の世俗的な力が、神仏のランキングを左右する、世知辛くもあります。

古代には畏怖すべき強力な存在であった男神が、力を失い醜女の女神とまで落ちぶれたのが能「葛城」の神ですし、「三輪」の神も巫女に降りての神語りとも見ることはできますが、やはり玄賓を通して仏にすがり、人の世の罪を助けて欲しいと訴える、零落を極めた神の姿として現れます。

その神が能の後半「女姿」と現れたのに、「千早掛帯」つまり巫女の格好ではなく、「祝子」つまり神主が着す烏帽子狩衣を、巫女装束の裳裾の上に掛けているというちぐはぐな装束なのが興味深いです。

このあたりにも、威儀を正し得ない哀れさがあるような気がします。


大神神社の祭神オオモノヌシ(大物主)には天皇家を祟る物語のほかに、三人の女性の元に通った話が記紀に伝わります。

時系列的に並べると、以下の通りです。

セヤダタラヒメという美人を気に入った美和のオオモノヌシ神は、赤い丹塗り矢に 姿を変え、ヒメが厠へ行くのを見計らって川の上流から流れて行き、ほとを突いた。彼女は驚き、その矢を自分の部屋の床に置くと麗しい男の姿に戻った。こうして二人は  結ばれて、生まれた子がヒメタタライスケヨリヒメで神武天皇の后となった。(古事記・神  武記)

イクタマヨリビメ(陶津耳命の子)のもとに、正体不明の麗しい男が夜ごとに訪れ、やがて娘は懐妊する。怪しんだ両親は「赤土を床に散らし、糸巻の麻糸を男の衣の裾に刺しなさい」と教える。夜が明けてみると、糸は戸の鍵穴を通って三輪山の社の所で終わっていた。そこで初 めてヒメは男がオオモノヌシ神であることを知る。その時、戸の内には麻糸が三巻残っていた。そこでその付近を「三輪」と呼ぶようになった。(古事記・崇神記)

第7代孝霊天皇の皇女・ヤマトトトヒモモソビメはオオモノヌシ神の妻になった。しかしこの神はいつも夜にしかヒメのところへやって来ず姿を見ることができなかった。ヒメは夫にお姿を見たいので朝までいてほしいと頼んだ。翌朝明るくなって見たものは、櫛箱に入った美しい蛇であった。ヒメが驚き叫んだためオオモノヌシは恥じて三輪山に帰ってしまった。ヒメはこれを後悔して泣き崩れた拍子に、箸が陰部を突き絶命してしまった。その墓は「箸墓」と呼ばれた。この墓は、昼は人が造り、夜は神が造ったという。「大坂に 継ぎ登れる 石群を 手ごしに越さば 越  しかてむかも」(日本書紀・崇神紀)

このうちの二番目、イクタマヨリビメの物語が能「三輪」のクセに語られる神婚譚です。

こうして見ると、初代天皇である神武天皇の時代には、まだ神が自由に動き回り、神と人が隔てなく触れ合っていたのが、人が正体を見たいなどと言うようになり、ヤマトトトヒモモソビメに至っては神は恥をかかされヒメは死ぬという、神と人の通行が不可能になる、つまり神代の終焉の物語になっています。

そのヤマトトトヒモモソビメが葬られたとされるのが、初代巨大前方後円墳・箸墓古墳であり、神代の終焉すなわち古墳の発生=神よりも力を持ったヒトの登場(統一的な王権・大王の誕生)ということになるのだと思います。

この三輪山の麓に都した勢力によって全国の墓制が前方後円墳を始めとする古墳に統一されたのですから、日本で最も神代を残すという三輪の地が日本の神代を終わらせたのです。


「三輪」後半に三輪の神が現れてまず語るのはイクタマヨリビメの神婚譚ですが、冒頭でお話した春日野での「三輪」の舞台で、目からウロコの落ちる出来事がありました。

能の中心をなす過去を語る場面にはクリ、サシ、クセという一連の小段の流れがあります。

クリで盛り上げ現代からジャンプして、Google Earth的にマクロ視点で過去へ降下し、サシで着地し、クセにて物語をするのが定型です。

その「クリ」の末尾には必ず「本ユリ」という声明の影響を受けた、最後の一文字を長く長く引きながら音程を上げ下げする節があり、以前からこの本ユリはなぜあるのだろうか?という疑問がありました。

ところがその日の「三輪」で師匠の謡う本ユリに和していたら、その微妙な音階の揺れと一文字を長く引く台本上の余白の間に、フイルムがセピア色になるような、手紙の文面を読み上げる声が書き手に変わり、そこから書き手の見た世界に入っていくような、まるで映画的手法によって舞台上が神代の物語に入っていくのを感じました。

その後、違う舞台でも注意していたのですが、本ユリの効能は舞台上を過去へ転換させる余白だったのだと確信するに至りました。

その後サシを挟み、クセにおいては、ヒメが別れの悲しさに麻糸を男の衣の裾に縫い付ける、それを辿って後を追う、その糸は三輪の神杉にとまっていた、男が神だったのだと気づいたヒメの手元には麻糸が三巻き残ったので、この地を三輪と呼ぶようになった、などの物語が扇子を使ってヒメの一人称で舞われる見せ場となります。

さて、神々が神代を偲んで集まると、中高生時代の共通のやんちゃ話、あの時はヤバかった話で盛り上がるように、どうしても神代を語るとなるとアマテラスの天岩戸隠れ神話になってしまうのでしょう、あの頃は神々も活き活きしていたわけです。

そうして舞台はイクタマヨリビメの時代からぐっと遡って神代のはじめに向かいます。

すなわち岩戸隠れをしたアマテラスを誘き出すために、アメノウズメの舞った、本邦世界初の神楽の場面です。

ここで「三輪」でも能の「神楽」が舞われるわけですが、この能の「神楽」は前半後半で全く違う作りになってます。

詳しく言うと前半はアメノウズメが最高神のために舞う神楽ですので、幣帛(もしくは榊、笹)を持ってプポプポと繰り返す小鼓の呪術的なリズムに乗って拝礼(おじぎ)を多用する、神事的な舞となります。

それがアマテラスに出ておいでと招く型を二度繰り返すと、今度は幣帛を扇子に持ち替えて、全くノリの違う舞となります。

ここからはノリが良く流れるような「神舞」と呼ばれる後半で、アマテラスの神威を模した舞となります。

「神楽」を舞う能の曲はいくつかありますが、この「神楽」のデザインは「三輪」の舞台進行にぴったりマッチしますので、能の「神楽」は「三輪」から始まり、そのほかの神楽物の能は「三輪」からの流用になるのでしょう。

神楽〜神舞を舞い終えると、三輪の神は左袖を頭にかずき扇子で顔を隠して作り物に入り、自らアマテラスの岩戸隠れによって暗闇となってしまった世界を再現して見せます。

そして八百万の大騒ぎを不審に思い岩戸を少し開いたアマテラスが、一斉に向いた八百万の神々の顔が自らの体光によって白く反射した驚きを、文字通り「面白や」と、文章二行分くらいの間を使ってめちゃくちゃ強調して謡いあげます。

これは世阿弥も「風姿花伝」で述べてますが、芸能の発生はこの時の「面白や」でありますから、芸能の末流にいる世阿弥にとっても、現代の我々にとっても、グッとこなければならない一言なわけです。

そして天岩戸が開き太陽神が姿を現すまま、現実世界も夜明けとなり急激に玄賓の夢は覚め、神代の名残りに三輪の神は、「伊勢と三輪の神は一体である」と秘密を明かして消えていきます。

これは神仏習合の時代、特に密教の影響で、三輪のオオモノヌシと伊勢のアマテラスが密教の本尊・大日如来の変化身であるという考えに基づいています。

しかし元来、皇祖神の女神に祭り上げられて伊勢に送られる前のアマテラスは、三輪山と周辺に祀られていた太陽神(アマテル、天照御魂、男神)でした。

大神神社の大物主自体が記紀神話においては、大海原を照らしながら現れ、三輪山の山頂に鎮まった太陽神(オオクニヌシの和御魂)であり、大和盆地の東に位置する三輪山は元来日に向かう太陽信仰の山です。

と同時に大和に坐す強大な土地神の山でもあります。

三輪山麓に都した崇神天皇の御代に、皇居に祀っていて祟りをなしたと語られるニ神の一方がアマテラス、もう一方が大和大国魂の神でした。

崇神天皇はこの神々の神威に畏れをなして、皇居から出して祀ることとし、後々アマテラスは伊勢に鎮座することとなります。

ここではアマテラスと記されていますが、前述後述のようにアマテラスとは新しい神格ですから、もっと大きな意味での太陽神もしくはアマテルであったと考えられます。

もう一方の大和大国魂神とは大和の地主神でありますから、オオモノヌシと同一と考えてもいいでしょう。

この両方が天皇に祟ったのは、前述のように天皇家が大和を征服し、太古からの神祭りを引き継ぐこととなったからでした。

元々はミモロ(三諸)だったのが三輪と呼ばれるようになった地名縁起譚も、この時代に支配者の移り変わりがあったことを思わせます。

そして天空から依り来る神を天津神、地を占める神を国津神と呼ぶなら、三輪は天津神国津神両方のメッカであり、天皇家が日本の神話を一本化するために、大小豪族たちの奉ずる神を脇役として取り込みつつ古事記日本書紀を作ったとき、天津神のトップ・アマテラス、国津神のトップ・オオクニヌシを新しく造形し、それぞれ伊勢と出雲に神宮、大社と呼ばれるテーマパーク的社殿を造営し、神代実在のモニュメントとしました。

オオクニヌシはオオモノヌシと同一神ですから、出雲も伊勢も三輪から始まったのであり、「伊勢と三輪の神」が元々一体であったことは、密教や三輪流神道を待たなくても言えることでした。

「三輪」とは最も神秘的な能であり、遙かに過ぎ去った神代のエピローグなのだと思います。


7月16日㈰、梅若会にて舞います能「三輪」のため、タケノワ座さんと回ったおっさん三輪山ツアー動画は、全6本半の大作となりました。。

雷雨の予報でしたが、奇跡的に最高のお天気となった一日。

新緑美しい三輪山を背景に、能楽師のむやみな神代語りと古墳くびれフェチ、どこに需要が??という感じですが、作業用にでもぜひご覧ください!



・能楽師 川口晃平の聖地巡礼『三輪』奈良県桜井市三輪(0)

944 はじまりの三輪駅



 • 能楽師 川口晃平の聖地巡礼『三輪』奈良県桜井市三輪(1)

三輪駅から大神神社へ



 • 能楽師 川口晃平の聖地巡礼『三輪』奈良県桜井市三輪(2)

大神神社から玄賓庵へ



 • 能楽師 川口晃平の聖地巡礼『三輪』奈良県桜井市三輪(3)

玄賓庵から檜原神社へ



 • 能楽師 川口晃平の聖地巡礼『三輪』奈良県桜井市三輪(4)

檜原神社から茅原大墓古墳へ



 • 能楽師 川口晃平の聖地巡礼『三輪』奈良県桜井市三輪(5)

茅原大墓古墳から三輪そうめん山本・箸墓古墳(前編)へ



 • 能楽師 川口晃平の聖地巡礼『三輪』奈良県桜井市三輪(6)

最終回 箸墓古墳(後編)・纏向遺跡 



~あらすじ~

「山姥の山めぐり」を持ち芸として都で人気を博す遊女・百万山姥(ひゃくまやまんば)は、母の追善のために信州の善光寺詣でを志し、上路(あげろ)越えと呼ばれる険しい山路にさしかかると、俄かに空が暗くなる。

驚き怖れる一行に宿を貸そうと現れた女は、彼女が百万山姥であると名乗らぬうちに見抜き、「山めぐり」の芸を所望するが月夜を待てと言い残し姿を消す。

凄まじい月が深谷にかかった頃、本性を現した山姥は、怖れる百万山姥を言い諭して謡わせ、自ら本物の山姥の山めぐりを見せる。

やがて名残りを惜しみつつ山谷に翔けり、行方も知れず去ってゆく。


よく自然の精霊で巨大な存在である山姥は謎めいた存在であり、この曲は非常に哲学的な能であると言われますが、この山姥ほど人間くさい様々な思い悩みや主張を、生々しくあからさまに口にするキャラクターもいないのではないかと思います。

山姥の語ることには大きく分けて以下の3種類があります。

①様々な対立項を挙げ、達観しようとするも妄執が拭えないこと。

②百万山姥に対し、自分を題材にした演目で人気を博しながらも、感謝もせず全く顧みないことへの詰りと、詰りつつも真実を教えたいという気持ち。

③山廻りは苦しいということ。


まず①についてですが、山姥は驚くほど多様な対立項を挙げます。

良し悪し、前世の業と前世の徳、霊鬼と天人、悔恨と喜び、岩と水、形と色、山と海、法性の峰と無明の谷、上求菩提と下化衆生、仏法と世法、煩悩と菩提、仏と衆生、衆生と山姥、柳の緑と花の紅、、、

本当に様々語られますが、この対立項の最終地点は都での人気と深山での孤独、人気を博す百万山姥と人に顧みられない山姥に行き着きます。

このジレンマを善悪不二、邪正一如、色即是空などの超越的概念で納得解消しようとしますが、何度思い巡らしても救われません。

山姥を構成する、拭いきれない妄執の雲の正体は、「名を成したい」という願いでした。


さて②です。

この「山姥」の前シテは本当に台詞が多いのですが、そのほとんど全てがツレに対する詰りに費やされています。

ツレの百万山姥は百万の名前の通り、観阿弥が曲舞を学んだ曲舞舞の流れの祖の名を冠しており、この能がクセ舞を見せることに眼目を置いて作られたことがわかります。

という訳で、「山姥」は「百万」「歌占」などと同じく、次第・クリ・サシ・クセが揃い、次第の文句で舞い納めるという、わざわざ古風な様式の整ったクセを採用しているあたり、もともと山姥の曲舞があったのに想を得た世阿弥が、その文句を改作し一番の能に仕立てたとも考えられます。

このクセで語られる山姥の正体なのですが、どこからともなくやって来て、仮に自性を変化して一念化生の鬼女となって目の前に現れ、また何処かへ去って行くのは役者であり、山姥は能役者の暗喩なのだと思います。

そうなると山中で相見えた山姥と百万山姥はともに芸能者であり、座を異にしつつ先行した山姥と、その演目を取り入れた後進百万山姥の構図が見えてきます。

僕が想像をたくましくするところでは、この山姥には世阿弥、百万山姥には音阿弥が擬せられているように思われます。

音阿弥は世阿弥の甥っ子で、中年まで実子のいなかった世阿弥の養子となり後継ぎの立場でしたが、実子が出来てのちは独立し観世座の別派として活動していました。(観阿弥、世阿弥に続いて、観世音の一字を名乗りに使っています)

音阿弥は能は作らなかったものの卓越した役者に育ち、将軍足利義教の寵愛を受けたことから、世阿弥・元雅(実子)の座を凌駕しシェアを拡大し、その観世大夫就任前後のゴタゴタで元雅は客死し、齢七十の世阿弥は佐渡に流されました。

世阿弥は長くこの道の第一人者とは目されていたものの、義満没後は自身も座も振るわず、晩年に向けて迫害され衰滅していったのが実際です。

老いては身の花を失い、座が落ちぶれれば舞台に立つことも無くなる、それでも能を作り続け、能の深化と未来への望みを手放さなかった世阿弥をよそに、パイオニア世阿弥が命懸けで作り上げた名作たちを、その産みの苦しみすら知らず易々と演じ、都で喝采を浴び、彼が成し得なかったレベルで名声を得ていく他座の後進たち、なかでも音阿弥。

僕はこういった者たちに対する世阿弥の、ルサンチマンに近い感情が「山姥」執筆の動機だったのではないかと、勝手に考えています。

世阿弥は鬼の能、鬼の芸を避けました。

が、もともと世阿弥の属する大和猿楽は鬼の芸で興った一派であり、世阿弥自身も鬼こそが本芸であると言っています。

ではなぜ避けたのかと言えば、父観阿弥の先進的な教育が功を奏し、世阿弥少年は大和を出て都の足利将軍家に伺候することとなり、貴人に囲まれ最高の教養を身に付けることとなりましたが、そこで出会う上流階級の人々が求めるのは舞台上の幽玄、つまり様々に含蓄のある美であり、鬼の芸は幽玄からは程遠い、古臭くつまらない田舎の芸であると目されていく時代にあったからです。

その流れのなか、世阿弥がわざわざ鬼の能を作るのには特別な意味があったのだと思います。

聞くところによると「野守」など世阿弥の鬼の能はその後半生、自らのルーツに却来した作品だと言うのです。

そういう能に登場する鬼は少し屈折した性質を持っています。

自らは鬼でありながら「我に恐れるな」と言い、力動風、砕動風からすると、人の心を持った砕動風鬼であり、超越的な力を持ちながらも自らの存在を恥じ、現世からは隠れ住むようなキャラクターです。

しかし一度話が通じる相手と見ると、その広大な懐の内を存分に見せて、去って行く。

正にそういう鬼をシテに据えた「山姥」はやはり世阿弥後半生の作品であり、その主人公・山姥とはスターダムからは程遠い地位に退いた、能の巨人の自画像なのだと思います。

父から受け継ぎ、自ら作り上げた能の永遠化を求めた世阿弥にとって、受け入れ難い没落のさなか、他座であっても能によって名を成す後進たちには、望みを掛けずにはいられませんでした。

大舞台への出演は失われても、能のために目に見えない貢献をする。

それが木樵の重荷に肩を貸したり、機織りを手伝ったり、砧を打ち継いだりと喩えられる程度のささやかなことであったとしても、能の現場の陰にいて、後進を教え、様々に立ち働いたものと思われます。

山姥の百万山姥に対する屈折した思いには、そういった世阿弥の肉声が刻印されている気がしてなりません。


最後の③です。

まず山姥の世界観の壮大さは、能を極めるということの果てしなさを語っているように思います。

山姥にとっての険しい山々は、万物に能を見、能から万物を見た世阿弥にとっての舞台、芸の宇宙であり、山廻りというのは能を作り、能を極め、能を伝えていく世阿弥の人生。

煩悩も恨みも、喜びも悲しみも、良いこと悪いこと、様々に湧き上がる思いや考え、その全てが能を作り、能を極め、能を伝えていく原動力になる。

だから山姥は何も否定しませんし、全てを善悪不二、邪正一如と受け入れてひたすら山廻りを続けます。

それはまことに苦しいことではありますが、「苦しき」と訴えながらも、命の果てまでその山を廻り続けるしかないのが世阿弥です。

それはパイオニアならではの、産みの苦しみと不可分にある、宇宙を産み出す喜びを誰よりも知っているからなのでした。

その果てしない山廻りの本当を、彼の作り出した山に遊ぶ売れっ子の後進に思い知ってほしい、そんな自らの姿を語り継いでほしい、そういう世阿弥自身の妄執が積もって形を成したのが山姥だとしたら、超自然的で難解な哲学的作品というよりは、世阿弥その人とその心象が剥き出しとなった能、それが「山姥」である。

そんな気がします。