先日の「三人の会」にて、谷本さんが「求塚」を舞われたのですが、ツレを勤められた坂口さんに僕の持っている小面を使ってもらった。

実は入手してからこれが初使いだった。

その際に「鼻の穴が小さく角度が悪い。高く着けると鼻が裏に当たる」などの感想をもらったので、見市さんの工房に持参して見ていただいた。


お話を伺うとこの小面自体は江戸時代の作なのだが、恐らくすごく古い型の小面を写したのではないかと言われた。

能面の裏の彫り方は、江戸以前と江戸以降でかなり変わるのだそうで、彫り方を見ることでその作の時期、もしくはその作が手本とした原作の時期が、江戸をまたぐかまたがないかある程度わかるのだという。(能面は裏も写す)

大昔は面の裏の鼻の裏彫りに自分の鼻を合わせて着けていた、つまり面の顔に合わせて比較的面を低く着けていたのが、江戸時代に入ると面を高く着ける(背が高くスタイルが良く見える)美意識が生まれたために、面裏の鼻と口の間くらいに役者の鼻がくることになり、面裏の鼻から口にかけてを深く刳っておかないと、僕の小面のように鼻が当たることになってしまうことになった。

そのあたりは安土桃山から江戸初期にかけての面打ちの二大巨頭、是閑(1527年〜1616年)と河内(1581年〜1657年)でも少し違う。

もちろん例外もあるが、一世代先輩にあたる是閑には、鼻と口の間を深く刳る意識が無いが、河内の面は必ず深く刳ってある。

つまり河内の時代に面を高く着ける美意識が生まれたのかもしれない、と。

河内は当時の観世大夫に請われて、観世流用にモダンな女面若女を創作したり、河内彩色と呼ばれる古びを表現する技法を工夫したり、古作を写しても古作よりも良作に仕上げるなど、とにかく能面という物を、能の道具としても工芸品としても、完成の域に高めた天才なのだと思う。

観世御宗家がお持ちの河内作のオリジナル若女を見ると、能面を高く着けてイケてるスタイルを造型する美意識が、当時世界一の都会であった江戸市中でも最高にモダンな慶長美人の風貌とともに、能面の中に結実した瞬間の火花を感じる。

江戸時代、乱世が終わり武治から文治の世になり、すでに200年以上演じ継がれてきた能も全国に行き渡り、ようやく本腰を据えて美意識を深める時代に入った。

常に命のやり取りと背中合わせにいた能は、明日死にゆく人間達の手から、明日も明後日も生を謳歌する時代の人々へと手渡された。

その時代の要請を受けて、社会を構成する武家、舞台を呼吸する役者、実際にノミを振るう職人の美的感覚が響き合い新しい流れが起こり、それがスタンダードとなっていった。

そしてそういう時代があったことを語る、無言の能面だけが残される。

そんなことを思いながら面裏の彫りについてお願いしていた。

げにこの世は面白い。