宇和島の小料理屋で先輩と一献二献、地元の話を聞くうちに、女将さんは三味線を持ち出し、大将の口上が始まった。
「伊達政宗のご長男秀宗公が初代藩主として入部なさってできた宇和島藩。江戸の中ごろ藩主様が参勤交代で江戸へのぼったとき、仙台の伊達家と顔を合わせた宴席で、伊達家の本流はどちらかという論争が起こった。仙台側の家臣はこっちが本流だと言わんばかりに地元民謡『さんさ時雨』を披露する。負けじと宇和島伊達家の庭番、吉田万助が即興で宇和島の『さんさ』を歌った。これが『宇和島さんさ』の起こりです。仙台も宇和島も同じ伊達家ということで『もろともに』という合いの手が入ります。」
と女将さんの三味線に合わせて大将は唄い始めた。
大将もお湯割りをちびちびやっていたからか、なかなか調子がいい。
「昔は和霊神社の大祭にはみんな舟で繰り出したものです。どこも思い思いの大漁旗を上げて、色とりどり海を埋め尽くすくらい。舟には四人漕ぎと六人漕ぎがあって、エンジンなんて無いもんだから、女房子供にいいところを見せようと男衆はやっきになって漕いだもんです。私ら子供は父さん頑張れ頑張れと囃し立ててね。祭りの日は見知らぬ人でも舟に『まあ乗れまあ飲め』と乗せちゃあ酒を飲ませました。懐かしい。今は埋め立ててしまったので、祭りにはみんなマイカーで行くんでね、飲まなくなりました。思えばいい時代だったのだと思いますよ。何であんないい物がなくなってしまったのだろう。全く様変わりしてしまいました」
こういう話はどの地方都市を回っても必ず聞かれることだ。
華やかなりし時代を忘れ得ぬ宇和島も人が遠のき、観光客も松山までは来るが宇和島に足をのばす人は少ないという。
かつての宇和島で当たり前に展開していた世界が今もあるなら、どんなに素晴らしいだろうと思った。
僕らは右へ倣えのゆるキャラや取ってつけたようなレジャー施設、箱物には興味が無い。
そこに住んできた人々が風土や自然とともに作り上げてきた生き方や景観に触れたくて、旅をする。
海や山に沿って走る古代の道を破壊し、地図に重機で線を引き、都会のやり方を押し付けるような国作りを押し進めたから、この国はすみずみまで陳腐化してしまった。
開発の名のもとに。
仙台本家との間を取り持った伝説とともに宇和島の意地を伝える、宇和島さんさの哀愁を帯びた調べに聞き入りながら、僕の心には港を埋め尽くす大漁旗の極彩色がありありと見えていた。
ありありと見えてはいたが、それと引き換えに宇和島が手にした物が何であるのか、僕には全くわからなかった。