■私が7歳の時です。

学校から帰ってきて、父のテーブルにおいてある一枚のはがきに気づきました。
なんてきれいなはがきでしょうか。

雪に覆われている富士山を背景にして、
桜はピンクの雲のように燃えています。
風で散った花びらが桜の木の下で優雅に微笑んでいる着物姿の女性の肩に落ちました。
その姿は、まるで恋人の帰りを待っているかのようでした。
このはがきを見た小さな私はしばらく呆然とその場に立ち尽くしてしまいました。
私の全身全霊がその一枚のはがきに魅了されていることがわかりました。

そのときから富士山、桜そして着物というイメージの日本が私の脳裏に焼き付けられました。
大人になったら、このはがきの中の世界に行こうと、その時、小さな私は決心したのでした。


日本に来たのは四年半前の秋でした。
高く遠くシルクのようなブルーの空には雲が少しもありませんでした。
「本当に日本に来たんだ」と感動して涙が出てきたのを今でも覚えています。

歳月が経っても、子供の時の日本に対する憧れとそのときの決心は少しも色あせることはありませんでした。

ただ、そのときの私は日本に対する憧れだけを持っていたのではありませんでした。
それは、日本留学が私の人生の転機になり、将来の夢に一歩でも近づくためのチャンスにするのだという思いでした。
そして夢は必ずかなえられると信じていました。
私は、夢と希望に燃えている自分の心のなかで言いました。
「深呼吸!出発だ!」

そして、静かに荷物を整理してから、慎重に歩き出しました。
自分の新たな人生を歩き出すように。

これが私の日本での最初の記憶です。

しかし、現実ははがきのようにきれいなものではありませんでした。
着物は日本人にとっても珍しい存在になっていました。日常生活のなかで、今の日本人は着物を着ません。
きれいな女の人がたくさんいますが、皆、朝の通勤ラッシュで混雑している電車の中でゆっくり化粧をしています。
桜が満開になったら、桜よりもたくさんの人間の頭が桜の木の下でうごめいています。
花見でもないのに、日本の若者が道端のあちこちに座り込んで、騒いでいます。青春の贅沢です。

富士山に登ったら、いたるところに捨てられたごみは富士山の治らない傷のように目だっています。


日本語ができない私は失敗ばかりの毎日を送っていました。
学校で仲良くなった先生に対して、私は「あなたは時間ありますか。私の家に来て、餃子を作ってあげます」と。
先生は苦笑いです。
すると隣の韓国の先輩が「先生に対して、あなたとか、してあげるとか使わないです。敬語、敬語使うんですよ」と教えてくれました。
「敬語ですね」私は、その時初めて敬語という言葉の存在に気づきました。
そのような私ですからもちろん敬語を使うことができません。
中国語には日本語みたいなシステム的敬語がありません。
中国人はみんなストレートに自分の気持ちを表します。
お土産を人に渡すときに日本人なら、
「つまらないものですが」といいます。
つまらないものなら、どうして人にあげるのですか。
中国人は疑問に思います。
中国人なら「あなたのために、わざわざ買って来たとてもいいものです。きっとあなたに喜んでもらえるはずです。」と主張するに違いありません。

日本、日本語のこのような曖昧文化に対して、私はどうしたらいいのかわからなくなっていました。

また、中国では、食べ物は何でも火を通して食べるのが普通です。
日本では、冷たいものや生で食べるものが多いです。
「日本人はよくこんなものを食べて長生きをしているね」と不思議に思っていました。
ある日、お昼のお弁当に初めてお寿司を買ってアルバイトに行きました。
やはり冷たい、とても食べられません。電子レンジに入れ、あたためてから、気持ちよくあつあつのお寿司を食べました。
「あ、おいしかった。ご馳走様でした!」食べ終わってから、やっと周りの日本人の視線に気付きました。
みんなまるで宇宙人を見たように目を丸くして、驚いていました。
「ああ、しまった!またやっちゃったか」
私のこのような失敗は空の星のように数え切れません。
日本語、日本人そして日本文化に戸惑っている私は「はがきの日本はどこにあるんだ!ここに来た私は間違っているのか?だれか教えて!」と心の中で叫んでいました。


日本といえば、東京より京都です。
京都に観光に行ったときの出来事です。
我々外国人なら誰でも知っていて、一目でも見てみたいと思っている京都のお寺といえば金閣寺です。
その湖の中に建っている京都の金閣寺を見た瞬間、日本の中にもうこれ以上素敵な風景は存在しないだろうと、子供のとき見た富士山のはがき以上に感動させられました。
隣で見ていた観光客の一人のおじさんが「金閣寺か。たいしたものじゃねえよ。本物じゃないし。もう一回燃えればいい。」とつぶやきました。
「日本人よ、どうしたの。日本よ、これからどうするの」
大きなお世話!といわれるかもしれませんが、私は本当に心配していました。
もしかしたら、日本人も不安なのではないでしょうか。
テレビを見れば、一番分かりやすいのではないでしょうか。
若者はいい学校に入るために受験の不安を抱え、大学に入ってからは卒業後の就職の不安を抱えています。
その他の人はどうでしょうか。
仕事があっても、不景気のためリストラの不安を抱え、年金問題から老後の不安を抱えています。
私から見ると日本社会はまるで不安ばかりの社会です。
私はこのような社会に身を置いて、身近に日本人の不安を感じることで、自分自身も不安になってしまいました。

理想と現実はなんでこんなにお互いが遠い存在なのでしょうか。
もう耐えられません。私は帰りたいです。中国へ。故郷へ。母のそばへ。
やはり、私は中国人です。
どうしても日本の社会に入ることができないと思います。
こんなに無気力に感じたのは初めての経験でした。
そのとき、私は一人の日本人に出会いました。
私の一生の先生です。
「楊さん、なにか悩みでもありますか」と聞かれました。
私は神という存在はあまり信じていなかったのですが、そのとき、先生の頭の上に神のような光が見えました。

「先生、どうしてわかりますか」

「楊さんの顔と声ですよ。隠したくても隠せないものがあります」
まるで神様のように私の心を読んでしまったのです。
私は一筋の希望の光をつかむかのように、先生に自分の気持ちを伝えました。
先生は黙って私の話を最初から最後まで聞いてくれましたが、望んでいた慰めの言葉はありませんでした。
先生は「帰りたいなら、簡単に帰ればいいです。なぜ、あなたはまだここにいますか」ととても冷たい口調で言いました。
さっきまで神様のように見えていた先生は急に鬼に変わりました。
私は答えることができませんでした。

しかし、このように先生に聞かれてから、自分について、日本の生活について落ち着いて考えることができるようになりました。
そう言われてみると、確かに帰りたいなら帰ればいいのです。
自分自身の悩みの理由は、自分にどうしてもあきらめられないものがあるからです。
それは日本に来たときに抱いていた夢です。
私の夢はたくさんあります。
お金持ちになりたいです。
きれいな女性になりたいです。
子供をたくさん生みたいです。
このようにたくさんある中で、一番大きな夢は教員になることです。
日本文化を学び、日本人を知り、そしてわたしが勉強したことを中国の子供たちに伝えたい。
こんなにたくさんの夢を持って日本に来た私は、まだひとつも夢をかなえていません。
このままでは中国に帰ることはできません。
私はそのように決意をし、先生に報告に行きました。
先生は
「今日の楊さんの顔は生き生きしてとてもきれいです」と褒めてくれました。
自分の夢のひとつ―きれいな女性になることがかなったようです。
一日でも。よかったです。
自信が湧いてきました。

それから、毎月一回、先生の家で鼓のお稽古を始めました。

思っていたお稽古よりずっと厳しいです。
言い換えれば、これこそ私がずっと求めていた理想的な日本像かもしれません。
着物を着て、丁寧な日本語を使い、美しい振る舞いの中に含んでいる日本人の心が見えます。
私は日本語も日本文化もよくわかりませんが、ただこの雰囲気の中で心を静めて、すべてを一生懸命に吸収しようと努力しました。
鼓を構え、調べをし、先生の張扇子の拍子に合わせて進めます。
周りのすべてを忘れて、自分と先生二人の世界になります。
この世界で私と先生が会話をしています。
鼓の音と張扇子の音で。
掛け声と歌声で。
風吹不動天辺月(風吹けども動ぜず、天辺の月)の心境はその一瞬のときだけにありました。
先生は「稽古とは一より習い、十を知り、十よりかえるもとのその一。人間も同じ。」という言葉を教えてくれました。
いま考えれば、それは、私の日本文化との最初の出会いだったのかもしれません。

そしてこのようなお稽古の中で、私は失敗しながらも確実に成長しています。
日本社会への適応も少しずつできるようになりました。
みんな、私の変化に気づいて、喜んでくれました。
「楊さんって、日本人みたいになってきたね」
これは、恐らく、私をほめる言葉だと思いますが、あまりうれしいと思いません。
いくら日本が大好きでも、いくら日本語が上手でも、私は日本人になれません。
今のままの私、外国人の私でいたいです。
しかし、外国人の私でも、日本社会の一員になりたいです。
日本社会が本当の意味での国際社会になるのを期待しています。
国は関係なく、同じ人間です。最近、中国と日本の間にいろいろな問題があります。
私ができることはただひたすら勉強して、早く自分の夢がかなえることができるように努力することです。
そして、私が毎日必ずするお祈りがあります。
「神様、仏様、仏像様、中国と日本の仲が良くなるように、地震や台風が来ないように、最後に、金閣寺がもう二度と火事にならないように。心からお祈りいたします。」

 日本に来て本当に良かったと思います



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とても共感できる文章でした。
彼女の「未来への扉」の鍵が、
"カチリ"と静かな音をたて
まさに開こうとしている瞬間を垣間見たような

そして
彼女の夢見る明日が
澄みきった秋の青空のようで
清々しい気持ちになりました。



■日本に来て10年経つと、日本の食生活から離れられなくなる。
在日中国人の間で語られるこの話は、やはり事実だったのだ。
来日当初は半信半疑だった私だが、いまや私の胃袋がこれを証明してくれている。


<在日中国人のブログ>胃袋は正直に語る…日本食が不可欠な私の食生活

■日本に来て3年経つと、必ず花粉症になる。
日本に来て10年経つと、日本の食生活から離れられなくなる。

この話は来日したばかりのころ、先輩の在日中国人たちによく聞いた。
日本食から離れられなくなるなんて?!と、とても信じられなかった覚えがある。

留学1年目の冬休み、1年ぶりに帰国した。
実家で母が作ってくれた家庭料理を、とんでもない速さで一掃した。
姉はそんな私の様子を心配そうに見て、
「とても先進国から帰ってきたと思えない、まるでアフリカかどこかの貧しい国から帰って来たようね」と言った。
そのとき私はとくに反論もしなかったが、心の中で「中華料理に飽きるわけがないだろう!」と考えていた。
来日当初は間違いなく、食生活にかなり苦労をした。
日本食はいくら食べても、すぐお腹がすいてしまうのだ。

知らず知らずのうち、10年の歳月が流れた。
出張で中国に戻ると、わずか1週間ほどで中華料理に飽きてしまい、日本での食生活が恋しくなる私がいた。
ここで私が言う日本食とは、懐石料理などの類ではなく、ごく庶民的なものだ。

朝飯は駅近くの松屋でソーセージエッグ定食を頼みたい、ミニ豚皿の小鉢を選んで、半熟の目玉焼きと焼きノリを一緒にごはんにかけて、少しショウガをのせて、混ぜて食べたい。昼は会社近くの定食屋で、「私の定番」魚塩焼き定食を注文する。春はサワラ、夏はうなぎ、秋は秋刀魚、冬はサバ…もちろん、大根おろしと味噌汁も欠かせない。こうしてお昼の定食で、四季の変化を素直に味わうことができる。
夜は同僚たちと仕事の話をしながら「とりあえずビール」、そして焼き鳥。
特に少し焦げ目のついた鳥皮、あの香りがたまらない。
帰りに小腹がすいたら満員電車から降りて、帰宅途中にある古いラーメン屋さんで、ネギのたっぷり入った豚骨ラーメンを1杯。
これは1日よく頑張った自分への最高のご褒美だ。

そんなことを妄想しているうちに、中国出張に同行している日本人の同僚は、マーボー豆腐をご飯にかけ、おいしそうに食べている。
「本場のマーボー豆腐は日本の味と全然違うね!スパイスが効いていて日本人にはちょっと辛いけど、たまらないな!」と言う。

さて、日本人が中国で10年生活するなら、中国の食生活から離れられなくなるのだろうか?
彼のような人に聞いてみたい。
それよりも何よりも、帰国したら成田空港でまっ先にザルそばを食べよう、私はそう心に決めた。
(36歳男性/在日11年/技術者)

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◎ほほえましい、と言うか
笑ってしまったので、載せました。

僕も(今は昔)東京へ行って
ひどい「花粉症」になったので、若きし頃を思い出した
その頃は「花粉症」という病名が一般的ではなかったので
毎日、水のように出てくる鼻水にビックリしたのだけど、
だから個人的には「満員電車アレルギー」だと思っていた(笑)


中国は非識字者ゼロの日本に学ぶべき


■香港誌「アジアウィークリー」2009年第2号に、「中国は日本に何を学ぶべきか」というテーマで文書が掲載された。

同文書で、中国は、非識字者ゼロの国家である日本を見習うべきで、まず基礎教育から取り組む必要があると指摘されている。

掲載文書の抜粋は以下の通り。

中国は日本から何を学ぶべきか?
魯迅から郁達夫までが、日本の土壌に
「インスピレーションの源」を発見している。

日本はこの百年間、中国の現代化プロセスにおいて無くてはならない鏡となり、
その鏡には己の痛みが絶えず映し出されてきた。

実際、日本を訪れた留学生全てが日本社会の特色を目にしてきた。
それは、日本国民全体が学習を重視し、基礎教育を重視する姿だった。

1868年の明治維新では、莫大な資金を投じて非識字者を一掃し、識字率の全面的向上が実現した。
その際にまず対象となったのは子供だった。

日本の基礎教育の特色は、「平等教育」だ。
どんなに貧しい地区においても、豊かで繁栄している地域と同じ教育資源が行きわたるよう力が尽くされた。
日本政府はこの面を極めて重視し、
家が貧しいという理由で学齢期に達した児童が勉学の機会を逸するということは絶対無いよう徹底した。

北海道から沖縄まで、どんな僻地にも、標準語を話す小学校教師が配置され、生徒の「国語」のレベルが保証された。


文革が終わった2年目の1977年、
中国では教育改革が大歓迎を受け、大学入試が復活した。
「4人組」追放後、教育に政治化の影が現れたが、
徐々に市場化の波に洗われ、とりわけ「金次第」という風潮が強まった。

貧困地区の学生は勉学の機会を失い、一部地域では義務教育の実施が困難になり、中国国民は、泣き所が痛む状況に陥った。

また、賑やかな都市に住む約2億人の農民工(出稼ぎ農民)は、都市戸籍を持っていないため、子供が現地の学校に入学することが許されない。
子供達は、勉学の機会を失うか、仕方なくお粗末な民工子弟学校に通っている。

中国の外貨準備高はここ数年で世界のトップに躍進し、
世界に対する中国の影響力はますます大きくなった。
しかし、2008年の時点で、中国中央の財政支出全体に占める教育費の割合は、僅か4.4%に過ぎない。
一方、日本の教育費は、ここ10年間ずっと8%以上を占めている。
この格差を目にして、中国人が警戒心を抱かないはずがない。

実際、現在の中国の教育費は、日本の1925年当時の教育費に相当する。
中国政府の予算全体に占める教育費の割合は、世界151カ国中ほぼ最低ランクだ。
資本主義の先進国より遅れているだけではなく、キューバや朝鮮など社会主義の発展途上国より下、さらには多くのアフリカ貧困諸国にも遅れを取っている。

どんなに貧しくとも子供まで貧しくさせてはいけない。
しかし中国は貧困だった30年前ばかりか、
かなり豊かになった今日でさえも、子供は貧しいままだ。
最も救いの手を得ることが出来ず、最も自らの権益を得ることが出来ない人々に対する差別はまだ無くなっていない。


日本は非識字者ゼロの国家だ。
中国は日本に学び、まず基礎教育から取り組む必要がある。(編集KM)

「人民網日本語版」