改憲派は明確だ

保守本流と中道右派、極右に別れるにしても、
攘夷、専守防衛、交戦権にしろ、どのみち明確だ

護憲派は、というと
積極的護憲という主張は殆んど存在しない

概ねは"平和憲法の遵守"となるが
では、それを継承した(交戦権の放棄)憲法ならば、と言えば"改憲可"となる発言は少なくない

要は現行の憲法は色々な意味で問題を内包している事は理解しているが、
ナショナリズムの高まりによる改憲には反対だ、となっているようだ

その他の護憲派と言えば
実は護憲ではない

何故ならば、
その多くが"天皇制"に反対、批判しているのだから

天皇を国民統合の象徴と明記されている現行法には反対なのだから
護憲派のはずがないのだ


要は
(自分達の都合のいいようには)改憲したいのだが

憲法改正となれば全国民を巻き込んだ大論争となり注目度が高まるので

現在の様に
投票率が低い状態に於いては
組合、団体、宗教などの一部の組織票が効力を発揮しているが、

投票率が高まれば
自らの存在が、絶体多数の民意を反映していないと言う現実を暗に認めなければならない事態になってしまうので
改憲はしたいが護憲、という矛盾を生んでしまう

要は彼等の存在事態が矛盾の極みなのだから
物事が大きく動けば
自然淘汰される脆弱な空論集団に過ぎないことを自覚しているのだ。

彼等は人生を賭けて
言葉遊びをしているに過ぎないのだが
その"遊び"に本気にならざるを得ないのは

本気にならないと
"遊んでないで、勤勉に働け"と言われてしまうから
本気で遊ぶしかないのだ

本気で欲しがらないと
"欲しがらないで、慎ましく生きろ"と言われてしまうから
本気で欲しがるしかない


勤勉さがない、
生産性がない、
能力がない、
だけど、だから文句だけはいいたい
文句だけだと、馬鹿にされるから
思想といい変えないといけない
思想ばかり語っても食べていけないから
少しばかり知的ではない人々から
お金を集めなければならない
自主発行した新聞や機関誌を沢山買って貰わなければならない


自己満足の為のお遊びに付き合わされて、食い物にされているのに気付かれないように
激しく主張しなければならない
自分達のお遊びを
あなた達の問題なのだと思い込まさなければならない

近所のお付き合いで払った新聞、機関誌、講演代金だったけど
少ない家計から捻出させたものだ
だから、元を取りたい気持ちから参加する
参加しているうちに
"なんとなく自分の存在価値を感じる"

はい、彼等の作戦通りです。


確かに
マイノリティの方々の声にも
耳を傾けなければならない
少数民族、在日外国人、精神疾患や障害をお持ちの方々、
高齢者や若者、

社会的弱者と言われる方々をないがしろにすれば
それは近代国家にとっての大きな欠落
制度的失敗と非難されるべきだ

しかしながら、
現在の日本では
逆差別と言える事が
静かに広く浸透してきている

長い経済の低迷期にあっても、なお安定的な社会生活を送っている我が国であるからこそ
重大な事態を招く恐れがある個別問題に有権者の関心が高まらない

多くの問題が
大手マスコミによって
風味と肌触りを変えられて
事実や現実を無視した切り口で語られ
国民の印象操作が行われ続ける

保守の主張は大幅にカットされ、
側面的な言葉だけをクローズ・アップし
真意を隠す


皆が「おかしい」と感じながらも
具体的な定義や理論が提示されないから
民衆は声に出せない

かたや
左翼は理想論や空論を語ればよいのだから
弱者を手なずけるのは簡単なようだ


保守よ、
保守本流を語る政治家よ

何が足りないのか分かるだろう

国民が欲しているのは
"言葉"なのだ

専門的な経済用語や
理念、思想を表す啓示などではなく

現実社会、国家、国民、民族、文化を統合する
"コトバ"が必要なのだ

稲田朋美氏などは
どうであろうか

自由民主党、衆院議員
元・弁護士
福井から選出された
保守政治の旗手

稲田氏には
"コトバ"があると思う

多くの方が彼女を
サッチャーやジャンヌダルクに喩え

女性初の内閣総理大臣との呼び声も高い


彼女の言葉は政治家の売り言葉ではない
心の中から自然発生的に涌き出る想いだ


彼女の言葉は
何かを変える力
推進力、貫通力、突破力を感じる

私は彼女を支持する。
彼女の言葉を支持する。


メモCarpeDiem



いつの時代もいる
「文句を言いたい奴」

これが左(ヒダリ:サヨク:リベラル)などと称される人間の本質だ

生き物の営みは「実務」である
時代をさかのぼれば
狩猟、採集であり
農耕であり
労働である

生きるために必要な行動

その「実務」が苦手な人間

額に汗水たらして
生きる糧を得る
それが苦手

そして「実務」をしっかりと勤めている人間に対しての
妬み、嫉み(ネタミ、ソネミ)

マルクス・レーニン以降は
それを「文句」に使うようになっただけ

実際は「資本論」も読んだ事のないような奴らが
再分配や搾取と言う言葉だけを使い
いつの時代も存在する
ネタミ、ソネミと文句を昇華させているに過ぎない

単純労働者が
付加価値の高い働きをしている人間の分まで
「自分達が生産したものだ」と言って
労働に見合う対価以上のものを欲しがり、要求する

旧ソ連や北朝鮮、改革解放する前の中国を見ながらも、
それが何を産み出したかも無視しながら
理想の社会を訴え
いつも"それ以上"のものを要求しつづける

格差、不平等、権力、権威、貧困、腐敗などは
それを否定した共産主義を標榜する社会主義国家が作り出していたのだ

その明確な事実を一切無視しながら
自由主義、資本主義を批判しながら
永遠になし得る事の不可能な、社会システムを訴える

歴史にifはないが
もし、あの終戦を
米国より先に旧・ソ連が南下していたら
我が国は社会主義国家になっていたかもしれない、と考えた場合に

"彼等"は後に
民主化運動をし
自由を訴えるだろう

要は"彼等"は
ただ単に「文句」を言いたいだけの連中なのだ
それが彼等の正体なのだ
そこには理念も思想も存在しない


だから
実務から離れ
勤勉を恥じ
人のものを欲しがるだけなのだ


共産党、社民党、民主党の半数、そして日教組にマスコミ、公務員は

実務が苦手な人間

生き物の営みが
苦手な人間たちなのだ



世界を見渡せば、現在でも最も貧困が少なく、格差の少ない日本にあっても
なお、手に入らない"何か"を欲しがり


実務や生産が苦手であるならば
慎ましく生きる
と言う絶対的真理を拒否して

欲しがる
うらやむ
と言う恥ずべき精神を
知りもしない思想、空論におき変えて
さも、正当な要求をしているかのように振る舞い

生き物であるかぎり
自然発生的に構築される社会システムや民族や文化を否定、批判し

自らの"社会性のなさ"や"生産性のなさ"を
現行システムを批判する事で正当化する

その"文句"でもって
架空の自らの存在意義を訴えかけるしかないのだ

"彼等"は
如何なる社会システムの中にあっても満足を得る事は出来ない

何故ならば
この地球には、空論、妄想、理想で成り立つ現実は存在しないし
空腹も満たせない

人間社会はいつしか
弱肉強食の自然の営みから抜け出そうと試みた

しかし
"生きる"と言う営みは
如何なる行為や行動も
自然原理からは脱却出来得ない事を教えている


人間がもし
他の動物と違いがあるならば
それは欲望が無限であるという事だろう
(決して知性ではない)

西洋では
欲は善であり
進歩の源だと理解されてきたが
今や人類は
その"欲"の抑制を求められている

地球に生きる、と言う事実を知り始めた
気付き始めたのだ

それは、
人間と他の種族との違いを明確にしているが
そもそも動物は人間ほど欲たかりではない

生きる為に食べ
生きる為に守り
生きる為に繁殖しているだけだ

未来の人類が如何なる哲学を持っているか
知るすべはないが

生きる、と言う事実だけは変わらない


現実に直面すれば

もし多くの国や民族が豊かに暮らしたならば、地球にある食べ物は
野の物も、海の物も
劇的に不足するだろう

それが何をもたらすかは未来の子孫が直面する現実だが

理想論では解決出来ない事は知るべきだ。


一部のヒダリは
少子高齢化にともない
解決策は移民を受け入れる事だ、などと妄言をいうが

その移民を法制化した豪州や欧州では
その"移民"の問題が深刻化している

生産性が高い時代ばかりではないから
それが低下すれば、民族対立に直結するのだ

人間すべてが、無条件の博愛を持つことは
動物である以上、不可能に近い

民族や文化は
本能として守るべきものなのだろう

それぞれが
それぞれの場所で生きるのが良いと思う

他者のものを欲しがらなければ
それは可能だ。


メモCarpeDiem

◎よくブログやYouTubeなんかで

米国の(主に若者?)人たちが
「ポッキー!ポッキー!」と
はしゃいでるのを見かけますが
何でだろ?

ボクはアニメやマンガは
ほとんど見ないんだけど
何かの主人公かキャラクターの「大好物」的なものなの?

ポッキー食べたい!
ラムネ飲みた~い!
みたいにハイテンションになってる米国人を見かける度に
不思議に思ってたんだけど…

理由知ってる方がいらっしゃったら
教えてくらはいニコニコパー