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スーザン・ケイ・クアトロッチオ(Susan Kay Quatrocchio)としてミシガン州デトロイトで、バンドリーダーの娘として生まれる。父親アート・クアトロッチオはイタリア系であり、母親のヘレン・レベルはハンガリー系であった。
そして、「キャンザキャン」を買い
1965年、スージー・ソウルの芸名で、姉パティらと女性のみのバンド、ザ・プレジャー・シーカーズ(The Pleasure Seekers)を結成し(後にアーリーン、ナンシーの二人の姉も加わる)、デトロイトを拠点に、MC5やジェファーソン・エアプレインなどとアメリカ各地をツアー。1969年にクレイドル(Cradle)とバンド名を変えベトナムツアーなども行った。1970年6月にデトロイトで歌っている際、ジェフ・ベックのモータウン・スタジオでのレコーディングのために同地に来ていた音楽プロデューサーのミッキー・モストによって高い評価を受け、1971年末、ミッキーを頼って渡英する。
(ファーストアルバムより.)
72年7月、ミッキー自身のレーベルRAKレコードからソロ名義のファースト・シングル「Rolling Stone」を発表。フォークソング調の曲で、ポルトガルではチャート1位となるものも、他国ではさほど売れなかった。
73年に入ってからハードロック路線へのイメージチェンジのためソングライティングチームにニッキー・チンとマイク・チャップマンを迎え、芸名もSuzieQuatroからSuzi Quatroに変わった。セカンドシングルの「キャン・ザ・キャン」はイギリスを含むヨーロッパ及びオーストラリアでナンバーワン・ヒットを記録する。続いてリリースされた、「48クラッシュ」(1973、UKチャート3位)、「デイトナ・デモン」(1973、UKチャート14位)も大ヒットし、この年のイギリスのBest Selling Artist/Female/Singleの第1位となった。
74年にも「悪魔とドライブ」(UKチャート1位)、「トゥ・ビッグ」(UKチャート14位)、「ワイルド・ワン」(UKチャート7位)が英国で大ヒットした。彼女のファースト及びセカンド・アルバムはヨーロッパとオーストラリアで大成功を収めた。日本でも70年代の終わりまで大変な人気があり、74年から78年まで5年連続で来日し、77年には大都市だけではなく中都市も回る大規模な日本ツアーを成功させ、日本でのライブアルバムも発表している。
しかしながら母国のアメリカにおいては、1970年代中頃にアリス・クーパーと共にツアーを行うなどの努力をしたにもかかわらず、それほどヒットしなかった。1975年以降彼女のヘビーで妖しい魅力を伴ったスタイルは受け入れられなくなっていき、人気は1978年まで好転しなかった。78年に「If You Can't Give Me Love(邦題・涙のヤング・ラヴ)」がリリースされると、同作はイギリスとオーストラリアでトップ10ヒットを記録する。アメリカでは引き続いて成功はしなかったが、1979年にスモーキー(en:Smokie (band))のクリス・ノーマンと共に「Stumblin' In(邦題・メロウな二人)」をRSOレコードからリリースすると、同作は4位とアメリカで初の大ヒットを記録することとなる。この成功は短期間のものであった。彼女の最後の(オーストラリアでのみの)ヒットは1981年前半にリリースされた「Rock Hard」であった。
1987年には日本のロックバンドBOØWYのシングル曲「Marionette」のB面曲として「THE WILD ONE」を、BOOWYのボーカリスト氷室京介とデュエットしたバージョンを発表。しかし、同時にレコーディングした訳ではなく、日本で録音したオケをイギリスに送りスージーに歌わせ、その後日本に送り返しミキシングすると言う手法で作られた。
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