昨年の12月4ヶ月に渡って書かせて頂いた、石巻かほくさんのコラム「つつじ野」
今回は第六回目
「先生と呼ばれて」
立場的に先生と呼ばれる事があります。
それは音楽の楽しさ、楽器の面白さ、それに伴う知識や技術を伝える時です。
正直、先生と呼ばれる事はいまだ恐縮でもあり、小恥ずかしい気もします。
学校の先生方に比べたら、ほんのわずかな部分しか私は伝えられていないと思うからです。
音楽は読み書き計算の様に、人生の中で必ず必要な勉強ではないかもしれません。
でも、それ以外の気持ちのゆとりや感性の教養としては一つの手段だと思います。
少し歴史の話になりますが、日本では大まかに江戸時代の前に大陸からの文化が、明治以降には西洋の文化が急速に入ってきました。
そこには音楽も当然含まれ、特に明治にはようやく管弦楽団などが日本にも誕生し、国としても音楽教育を盛り上げる機関ができました。
当時は音楽に限らず教育の基本を作り上げて行く時期でしたが、その中で人の教養の一つとして音楽が存在したのです。
さて、私の場合は年齢問わず様々な方が習いにきてくれますが、先生と言う立場で時々思う事があります。
音楽(レッスン)がなければ、この子と出会う事はなかったんだろうなとか、中には大学の先生だったり、役職についてる様なご年配の方だったり、そう言った人達にも教えて、そして先生と呼んで頂く訳です。
これを特権と言ったらちょっと違いますが、なんとも不思議な立場だなと思う時があるのです。
教えを請う相手、それは親かもしれないですし、近所の人だったり、みんなそれぞれが人生の先生なのだと思います。
そしてその道を先に進んで極めている、それで生きている人を先生と呼ぶのでしょうけど、私はまだまだだなと思います。
音楽が人を豊かにする事を信じて。
2020年1月11日(土)
石巻かほく「つつじ野」掲載より