“パクられた”と言い始めたとき、創作は止まる | 色とコトバでつづるスケッチ

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色とコトバを通して、人生をスケッチするように綴っていきます。

前に「ステイトメントをぱくられた」というスレッズが流れてきたことがあった。
その人は、くしくも私のことばと「似ているな」と感じていた表現をしていたアーティストでもあった。

 

そのとき、改めて思ったんだよね…

完全にゼロから生まれた表現なんて、ほとんど存在しないって。

人は必ず、何かを見て、触れて、影響を受けて、その上で自分の形をつくっていく。

 

 

だから、「パクった」「パクられた」という感覚には、どこか違和感がある。
まるでそこに“所有権”があるかのように扱うことに、少し無理がある気がする。

 

もちろん、あまりにも露骨な模倣は別の話だけれど、多くの場合は、似てしまうことよりも、そのあとどう「更新」していくかの方が、ずっと重要なんじゃないかと思う。

 

 

そして思うのは、「パクられた」と言い始めた瞬間に、人は自分の表現を“過去のもの”として固定してしまうということだ。

 

本来、表現は更新され続けるものなのに、そこに境界線を引いてしまった途端、それ以上先に進めなくなる。

むしろ、「自分の表現が奪われた」と感じ続けることのほうが、創作にとっては危うい。


なぜなら、そこがその人の限界点になってしまうからだ。
そこに意識が向き続ける限り、表現は過去に縛られていく。

 

誰かに似ているかどうかではなく、
どこまで自分の深さに潜れているか。
どこまで自分の言葉で語れているか。

たぶん、本当に問われているのはそこなんだと思う。

 

 

そしてもうひとつ大事なのは、自分の環境を自分で選ぶことだ。
ノイズになるものから距離をとるのは、逃げではなく、創作を守るための選択でもある。
SNSにとどまり続ける必要もないし、必要であれば距離をとる。
ときにはブロックという手段で、自分の視界をコントロールすることも、その一部だと思っている。

 

自分の表現の深度をいかに更新できるか、そこがクリエーションでおもしろいところなんだと思う。