函館空港とJR新函館北斗駅前の「ほっくる」(北斗市観光交流センター別館)の土産店「高砂屋」を運営していた函館市の老舗印刷業「辻商事」は10日、函館地裁に自己破産を申請した。
帝国データバンクなどによると、負債総額は約7億円。
辻商事は、1912年(大正元年)8月に創業、今年で113年目。
函館本社と札幌工場での印刷業が主力で、新聞社や広告業者のチラシやパンフレットなどの印刷を手掛けていた。
売上高は2006年6月期には17憶9500万円を計上していたが、近年はネット広告の普及や印刷需要の落ち込み、インク代など材料費の値上がりの影響などから、2019年6月期からは赤字を計上。
2024年6月期の売上高は8億7200万円に減少していた。
今月9日に事業を停止。
2024年12月時点の従業員数は48人。
函館市の特別養護老人ホーム「恵楽園」で職員が入所者に対して不適切な身体拘束を行っていた問題で、運営する社会福祉法人恵山恵愛会(同市)に市が改善を求める指導を行っていたことが分かった。
指導は昨年12月3日に文書で行った。恵楽園では入所者に対して職員がベッドの四方を柵で囲い、シーツなどを体に巻き付ける行為があったとして、市が昨年3月から同8月まで高齢者虐待防止法に基づき、施設での現地調査や関係者への聞き取りを実施した。
調査の結果、身体拘束のほか、処方されていない入所者に下剤を投与する行為なども発覚し、計6件が身体的虐待や心理的虐待にあたると認定した。同法人の菅龍彦理事長は5日、北海道新聞の取材に対し「虐待と認定されるようなことがあったのは事実。しっかり反省し改善していかなければならな話した。
市は同法人に対して介護保険法に基づく監査なども並行して行っている。
(2月6日北海道新聞)

恵楽園では昨年3月に同ホームで不適切な身体拘束など入所者への虐待が行われていると市に通報したところ、不当に懲戒解雇されたとして、元職員の女性が地位確認などを求める訴訟を函館地裁に起こしている。
元職員の女性は同施設では入所者に対する身体拘束が日常的に行われていたほか、介護士が暴言を吐いていたと主張。市に通報したところ、自宅待機を命じられ、「繰り返しハラスメント行為を行った」として懲戒解雇とされたという。
提訴後に記者会見した女性は「こういう形で口をふさぐ行為は到底許せない」と訴えた。
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メディカルはこだて発行人・編集人 塚本敦志
あらゆるがんの中でもっとも難しいがんとされる「膠芽腫」(こうがしゅ)は、脳腫瘍の一種で、神経細胞を支えるグリア細胞から発生する悪性の脳腫瘍だ。平均余命は15カ月。MRI(磁気共鳴断層撮影)で膠芽腫を疑う画像は白い環が特徴的なリングエンハンスである。中央の黒い部分は腫瘍によってすでに壊死し、それを取り囲むように腫瘍と思われる部分が写っている。「がん征服」(下山進著)は、この最凶のがんとされる膠芽腫の治療法がテーマで、手術や抗がん剤、放射線といった標準療法のその先にある治療法を取り上げた。その治療法とは原子炉・加速器を使うBNCT(ホウ素中性子捕捉療法)。楽天の三木谷浩史氏がバックアップする「光免疫療法」。それと東大医科学研究所の藤堂具紀氏が開発した遺伝子改変ウイルスのG47Δが承認を得て、メディアが「世界最高のがん治療」と礼賛する「ウイルス療法」だ。


「がん征服」 下山進著

本書はこの三つの療法の開発史が絡みあうように進んでいく。探索研究、実用化にむけてのスポンサー探し、承認のための治験、規制当局との承認プロセスなど、比較をしながら読み進めていくと、意外な事実が待ち受けていた。それは三つの療法で膠芽腫に対し現在、承認されているのは「ウイルス療法」だけであり、その承認が公正に行われているのだろうかという疑問だ。
「ウイルス療法」は19例のフェーズ2で承認をされた治療法だが、下山さんは日本のテレビ番組や雑誌で「画期的な治療法がついに承認された」ともてはやされているのが、まったくわからなかったという。その素朴な疑問から始まった調査で、2014年の薬事法の改正にいきつき、有効性の証明でも確認でもなく、「推定」で市場にだしてしまうという「再生医療等製品」のトラックができたことを知ったことになる。
「がん」に関するかぎり、ほとんどすべての報道が、専門家の言い分をそのまま報じるというものであり、単行本や新書も研究者自身によるものが多いと下山さんは指摘する。「しかも、そうした報道や本では、治療法の開発に密接にかかわっている政治や経済について
は書いていない。ここに自分がこのテーマをやる意味があるとわかったのは、調査をして半ばをすぎたころのことだった」。261ページの内容は読みごたえがあった。
「養老先生、がんになる」は、養老孟司さんと中川恵一さんの共著。心筋梗塞から奇跡の生還を遂げた養老先生が、がんになった。養老先生は東大医学部卒の解剖学者。『バカの壁』が大ヒットし、450万部超えのベストセラーとなった。中川先生は東大医学部卒後、同大学医学部放射線医学教室入局。現在は東京大学大学院医学系研究科特任教授。
本書は、教え子で自らもがんを体験した中川先生が、養老先生のがんについてくわしく解説。もうすぐ87歳になる養老先生が、がんと闘いながら自らの老いと向き合ったシリーズ最新刊だ。また、担当医である岩崎美香医師のコメントや、娘の養老暁花さんも登場する。


「養老先生、がんになる」 養老孟司・中川恵一著

養老先生の体の異変に最初に気付いたのは娘の暁花さんだった。鍼灸師の暁花さんは実家に帰ったときは、よく両親に施術をしていたが、養老先生は2023年のはじめ頃から、右肩が痛いと訴えていた。養老先生は「五十肩だろう」と言っていたが、暁花さんが整形外科的な徒手検査を行ってみたところ、どれも該当しなかった。暁花さんのマッサージで少しはよくなったが、2023年の秋頃から痛みが肩だけではなく背中全体に広がってきた。
「このような場合、疑われるのは内臓疾患です。痛む部位から考えると、肺が怪しいと思いました。実際に背中を見ると、肩甲骨の間が少し黒ずんでいます。普通の人ならわからないくらいの黒ずみですが、私にははっきりとわかりました。しかも黒ずんだエリアの前後がポコンと陥凹(かんおう)していて、その真ん中が黒く固まっています。触っても何かあるのがわかるので、肺に異変があると考えざるをえないのです」
かたくなに「めんどうくさい」「そんなのは嫌だ」と、検査を嫌がり、どうしても受診してくれない養老先生だったが、暁花さんは本人の了承を得ずに中川先生に直接、電話して、事情を話した。養老先生はしぶしぶ東大病院の呼吸器内科を受診することになった。「検査の結果、背中の痛みは、がんが背中側の肋骨に浸潤していたことによるものでした。それがなければ痛みが出なかったわけで、がんがもっと進行していた可能性もありました。痛みで気付けたのは、不幸中の幸いだったと思います」
2024年5月16日、養老先生の病名はタバコが主な原因である「小細胞肺がん」と診断された。中川先生は「ヘビースモーカーとして知られる養老先生のことですから、当然そのリスクは予想できましたが、4年前の入院時に撮った肺のCT画像には肺がんは認められなかった」という。養老先生は3カ月に1回、東大病院で定期検診を受けていた。「そのときに肺のCT画像を撮っていれば、もっと早く見つかった可能性もありますが、予防的な治療や検査はしない性格なので、それをすすめても、やらなかったはずです」
小細胞肺がんの標準治療は抗がん剤と放射線。「養老先生は、体に負担のかかる治療に対してもやりたがらない性格なので、果たして、抗がん剤治療を受け入れてくれるかどうかも疑問でしたが、今回はつらい検査も抗がん剤もすんなり受け入れてくれたのです」。その理由や1回目の抗がん剤治療を終えて、退院するまでの紆余曲折については本書を読んでください。
がんの治療は時間がかかる。本書は4月末に肺がんが発見されてから、抗がん剤の途中までの約3カ月間について、養老先生と中川先生の二人でどんなことがあったのかをまとめたものだ。中川先生は「興味深いのは、養老先生の病院嫌いに少し変化が現れたことと、文句ばかり言っていた東大病院の評価が変わってきたこと。養老先生の医療に対する考え方の変化も本書の読みどころの一つとなっている」と紹介する。


2001年、若い女性の生きづらさを描いた「プラナリア」で直木賞を受賞した山本文緒さん(1962年生まれ)。「恋愛中毒」や「自転しながら公転する」などの作品は読者から高い支持を得てきた。
2021年4月、山本さんは突然膵臓がんと診断され、そのとき既にステージ4bだった。がんは切除不能で、放射線治療はできず、抗がん剤も進行を遅らせるだけ。「そんなことを急に言われても、というのが正直な気持ちでした。煙草とお酒は13年前にやめて一度も飲んでいないし、食生活だってそう無茶をしたものだとは思いません」。告知を受けた日、山本さんと夫は本当にどうしたらいいのかふたりで途方に暮れた。

 
「無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記」 山本文緒著

抗がん剤をやるなら一日でも早いほうがいいだろうということになり、告知から2日後には第1回目の抗がん剤に勇んで挑んだが、はけちょんけちょんにやられました。もう二度と体に抗がん剤を入れないと決意を固めただけの辛い一週間でした」。山本さんは医師やカウンセラー、そして夫と話し合い、進行を遅らせる抗がん剤をやめて、緩和ケアに進むことを決めた。
「無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記」は、58歳で急逝した山本さんの最後のメッセージだ。まるで夫とふたりで無人島に流されてしまったかのようなコロナ禍での闘病の日々を、日記として書き残した。がんの痛みや発熱の苦しみ、これまでの人生、夫への感謝と心配、「書きたい」という尽きせぬ思いが滲み出ている。本書は5月24日から亡くなる9日前の10月4日までの日記だ。
山本さんは2006年12月軽井沢のマンションを仕事場として購入。2020年4月には軽井沢で夫と初めての同居生活を開始した。 5月26日は地元で緩和ケアをやっているクリニックの初診日だ。「クリニックを訪ねてみると、そこはまったく病院らしさがない、別荘のような建物だった。壁は白くて、大きな窓の外は新緑がきれいで、裏の林に置いた椅子でスタッフが打ち合わせをしているのが見えた。私と夫は庭に面した部屋に通されて、女性スタッフと向き合った」
「私の長い話をクリニックの先生は遮らずに聞いて下さった。家族以外とこんなに病気のことをフラットに話せたのは初めてだった。よかった。本当によかった。私、うまく死ねそうです」
8月2日、「今、私は痛み止めを飲み、吐き気止めを飲み、ステロイドを飲み、たまに抗生剤を点滴されたり、大きい病院で検査を受け、訪問診療の医師に泣き言を言ったり、冗談を言ったり、夫に生活の世話をほとんどしてもらったり、ぐちを聞いてもらったり、涙を受け止めてもらったりして、病から逃げている。逃げても逃げても、やがて追いつかれることを知ってはいるけれど、自分から病の中に入っていこうとは決して思わない」
9月3日、クリニックの先生から「病気はここのところ急激に進んでいる様子だ。そろそろ週単位で時間を見て、会いたい人に会っておいたり、やり残したことをした方がいいかもしれない。そう言われて、お腹が楽になったと喜んでいた私と夫は固まった」
「ふたりで暮らしていた無人島だが、あと数週間で夫は本島に帰り、私は無人島に残る時がもうすぐ来るらしい」
「無人島のふたり」は異色の闘病記で、それは読者が不愉快になったり、苦しい気持ちにならないように気遣っているからだ。ユーモアを失わず、「つらい話をここまで読んで下さり、ありがとうございました」と書くことは誰でもできることではないだろう。角田光代さんは、闘病記はたいていの場合、読み手が寄り添うが、「無人島のふたり」ではそれが反転すると言う。
「書き手が読み手に寄り添うのだ、がんばれと言う。生きろと言う。笑ってと言う。だいじょうぶだと言う」
最後の日記は10月4日になった。「・・・今日はここまでとさせてください。明日また書けましたら、明日」
国立病院機構函館医療センター(函館市川原町)の新院長として、2024年4月1日に就任したのが椎谷紀彦医師だ。前職は浜松医科大学外科学第一講座教授で、専門分野は成人の心臓血管外科、なかでも大動脈や弁膜症の外科手術になる。
函館生まれの椎谷院長は北海道大学医学部へ進学。 卒業後は外科医としてスタートした。「当時、外科は治療学で、内科は診断学でした。全身を診ることのできる医師になりたいという思いから、できるだけ幅広い領域を対象とする外科を選びました」。道内の関連病院で消化器はもちろんのこと肺や食道、乳腺などの多くの外科手術を学んできたが、転機が訪れたのは1989年パリ12大学アンリ・モンドール病院心臓外科への留学だった。これを契機に心臓血管外科を専門とした。「アンリ・モンドール病院はフランスでも症例数の多い医療機関で、外国人レジデントというスタイルに近かったと思いますが、2年間心臓手術の経験を積んできました」
帰国後は北海道大学病院に勤務。2008年同病院循環器外科准教授・診療教授となり、翌2009年には浜松医科大学の外科学第一講座教授に就任した。「第一講座には、心臓血管外科、呼吸器外科、乳腺外科、一般内視鏡外科、小児外科の5つの診療科があって、ほぼ全ての外科領域をカバーしていました。診療は、それぞれの領域の診療責任者のもとで独立して行っていて、私は第一講座の方向性を定めることと、各診療責任者のやりたいことを後押しすることを役割としてきました」。心臓外科医としては退官するまで手術を行ってきた。「心臓血管外科は外科のサブスペシャルティの一つですが、サブスペシャルティの中でも心臓血管外科や胸部外科の教授というのはほとんどが定年になっても手術するような人が多いです。 いわゆる職人なのですよ」
(第90号記事より一部を抜粋)


国立病院機構函館医療センターの椎谷紀彦院長
がん医療は、地方の病院でもがんの標準的な専門医療を受けられるように医療技術等の格差の是正を図る「均てん化」が進められている一方で、治療内容の高度化・多様化に伴う「集約化」も求められている。
近年、胃がんの治療法の進歩は目覚ましいが、日本胃癌学会では今後も質の高い胃がん治療を広く社会に提供していくために、2023年4月より「施設認定制度」を設けた。認定施設は、認定施設(A)と認定施設(B)の2種類で、今回認定された全国の施設は、認定施設(A)が127施設、認定施設(B)は179施設だった。道南地区からは函館五稜郭病院と国立病院機構函館医療センターの2病院が「認定施設B」に認定された。そのうちの一つ、函館五稜郭病院外科の千葉丈広主任医長に胃がん診療について話を聞いた。
函館出身の千葉医師は2003年、岩手医科大学を卒業後、同大学病院や関連病院で経験を重ねてきた。2010年には、がん研有明病院(東京都)消化器センター・胃外科での研修を経て、2011年からレジデントとして2年間勤務した。がん研有明病院には、2010年の10〜12月の3カ月のみ岩手県対がん協会の推薦で出向し、2011年からの2年間は、自主的に診断技術の習得を目的として専門病院で豊富な症例に触れながら最新の技術の獲得を目指した。「レジデントは手術の助手はもちろんのこと、実際に手術を担当することもありました。同病院は日本最大のがん専門病院の一つで、手術研修も非常に多く、短期間で多くの手術を経験できることが魅力です」。大学に戻り、2019年4月に函館五稜郭病院に着任する。
(第90号記事より一部を抜粋)


函館五稜郭病院外科の千葉丈広主任医長
高橋病院は2023年6月に着工した市内時任町への移転新築工事が完了、2024年10月1日から新病院での診療を開始した。明治27年高橋米治医院の開院が出発点の同病院は、建物の老朽化などが移転の理由だった。「地域住民に愛される信頼される病院」を理念に掲げ、地域全体でリハビリテーションを中心とした医療福祉ネットワーク事業を展開。法人施設内外の継ぎ目のないネットワーク構築や、患者サービス向上の手段としてIT活用を積極的に進めており、 平成20・21年度には2年連続で経済産業省「IT経営実践認定組織」に選ばれている。
新病院は鉄筋コンクリート4階建て、延べ床面積は旧病院の約1・5倍の1万670平方メートル。病床数は旧病院と同じ119床。回復期リハビリテーション病棟を60床から80床に20床の増床、地域包括ケア病棟は59床から20床減らして39床とした。介護医療院の60床はそのまま。標榜する診療科目は従来の内科、循環器内科、糖尿病・代謝内科、呼吸器内科、消化器内科、内視鏡内科、整形外科、リハビリテーション科のほか、新たに泌尿器科が加わり、9科目となった。
 新病院の1階は、外来や検査室、訪問診療室、総合支援センター、コミュニティスペースなど。2階は回復期リハビリテーション病棟が2病棟とリハビリテーション室。3階は地域包括ケア病棟と介護医療院。4階は医局や会議室、事務室、職員専用ラウンジなどが設けられている。建物の特徴的な外観はクラスター型と呼ばれる独特な形だ。同病院の高橋肇理事長は「クラスターというのは複数の原子、分子が集まって構成される集合体を意味します。病棟の中央にスタッフステーションを配置、その周囲に病床群を配置する構造となっていますが、クラスター型は各病室への導線を最も短くする構造で、特に感染が発生した際に集中管理しやすくなります」と話す。
(第90号記事より一部を抜粋)


高橋病院の高橋肇理事長(病院4階の理事長室にて)
看護師が自宅を訪れて、療養生活を送っている患者の生活を支える訪問看護は在宅医療の柱の一つだ。患者や家族の意向に沿った在宅療養生活の実現に向けて専門性を発揮し、健康の維持や回復、QOLの向上を図り、安らかな終末期を過ごすことができるようにも支援する。
 2024年5月七飯町に新しい訪問看護ステーション「猫まる」が開設された。同ステーションの社長兼管理者である長原悠太さんは、猫まるの名前の由来を「私は人よりフォルムが丸く、看護師として初めて受け持った患者さんから『まるちゃん』と呼ばれたこと。初心を忘れないという思いや猫好きからこの名前に決めました」
 函館生まれの長原さんは七飯町に移り住み、地元の小中学校に通った。函館稜北高校ではラグビー部で活躍、卒業後は市立函館病院高等看護学校に進学する。看護師を目指したのは中学生の時。「祖母は手術もできない進行がんでした。自宅で療養を続けていましたが、訪問診療という制度もない時代に、近所の診療所の主治医が自宅まで定期的に診察に通ってくれました。自宅で最期まで過ごすことができましたが、このときの経験が看護師を目指すきっかけとなりました」
(第90号記事より一部を抜粋)


写真右から、訪問看護ステーション猫まるスタッフの棟方哲志さん、長原悠太さん、長原真理子さん