さて、戦略的縦深性の視座からみた岩付領の検討はこのくらいでとどめるとしよう。筆者が、戦略的縦深性に言及したのは、北条氏の領国防衛の在り方を、この視座から眺めてみたかったからだ。
結論から述べれば、北条氏領国の戦略的縦深性は、どこから攻めるかにより、大きく異なった。
太田資正が後半生を過ごした常陸国片野から見れば、北条氏領国の戦略的な縦深性は、果てしなく“深い”。本拠小田原まで攻め込んで制圧するには、複数の大きな河川を渡河しなければならない。現在の中川の流路を通った中世利根川、現在の元荒川の流路を通った中世荒川、現在の荒川本流と重なる中世の入間川。まずはこの三つの河川を渡らねば、武蔵野台地の縁にすら辿り着かない。そしてそこまで到達してむきあうのは、武蔵野台地の北端の河越城、東端の江戸城という堅牢さで知られた二城である。
このニ城のいずれかを抜いて武蔵野台地に登ったとしても、その先に多摩川が控え、それを渡っても今度は相模野台地とその縁の城が姿を見せる。そこをさらに抜いても相模川が待っており、小田原まで一気呵成に攻めることはできない。
総括すれば、常陸国南部から眺めた北条氏領国は、
•渡河に労苦を要する大河川五つを越え、
•縁に城砦を構える台地を二つ登る、
という労苦を負わねば、本拠地まで辿り着けなかったことになる。
河川を渡る前も渡った後も、敵は正面だけでなく、側面にも存在し、侵攻を邪魔することになる。
小田原への道は、深く、険しかった。
すなわち北条氏支配域は、利根川以東の敵対勢力が侵攻を企図した際には、戦略的縦深性において圧倒的な“深さ”を発揮できたのである。
このように五本の大河と二つの台地に守られることで、「戦略的縦深性」を有した北条氏領国と本拠小田原であったが、敵方に攻め込まれたことがある。
秀吉の小田原陣がその代表であるが、それ以前にも、北条氏と同格の戦国大名が小田原までの侵攻を果たしている。
言うまでもなく、永禄四年の上杉謙信、そして永禄十二年の武田信玄による小田原攻めである。
戦国期東国を代表する戦国大名である謙信と信玄の小田原攻めは、両雄の軍事面での有能さを裏付ける事績として語られることが多い。本書では、両雄が小田原の持つ戦略的縦深性を、どのように克服したかを考えてみたい。
まず謙信の永禄四年の小田原攻めであるが、これは、謙信陣営が小田原の戦略的縦深性を半減させたことによる成功と言える。具体的には、利根川•荒川の内側にいた北条氏の従属国衆が一斉に離反したことにより、両大河の防衛線が、事実上消滅してしまったのだ。まだ、入間川(現荒川)、多摩川、相模川の防衛線は残されていたが、入間川以北の諸将がことごとく謙信方となってしまえば、衆寡敵せずの状況に陥る。
当初は松山城(荒川防衛線)で、ついで河越城(入間川防衛線)で、謙信を迎撃する方針を配下に伝えていた北条氏康が、一転、小田原籠城策に移行したのは、入間川以南の勢力で同河川の防衛線を守ることが困難なほどに、謙信勢が数を増していたためであろう。
謙信は、北条氏陣営において河川防衛線を守る立場にいた国衆らの離反によって、同氏支配域の戦略的縦深性を克服することができた、と総括することができるであろう。
実際、荒川以南の岩付太田氏が再び北条氏配下に組み込まれた永禄七年以降、謙信が同河川を越えて北条氏勢力圏に攻め込むことは、ほぼなくなる。
さらに、荒川以北且つ利根川以南の国衆らが、永禄九年に北条方に転向すると、利根川を越えて南進する機会も、激減していった。河川防衛線を守る役割を担う国衆らが、北条氏に従う立場に戻ったならば、さしもの謙信も、北条氏領国の戦略的縦深性を前にして、攻め手を失っていったのである。
このように、利根川•荒川以南の国衆を味方につけることで、北条氏領国の戦略的縦深性を減じることに成功したのが、永禄四年の上杉謙信であった。
では、永禄十二年の武田信玄の小田原攻めの場合は、どうだったのか。信玄は、如何にして北条氏の戦略的縦深性を克服したのか。
これについては、タイミングとルート選定が大きく奏功したとみることができるだろう。信玄は、前年の永禄十一年末から、それまで同盟相手であった今川氏の領国、駿河への侵攻を決行していた。これには、今川氏と長く盟約関係にあり、同氏に、前当主氏康の愛娘を嫁入りさせていた北条氏も素早く反応し、駿東に援軍を差し向けた。駿河が敵方に奪われれば、小田原を守るものは箱根の山々だけとなる。北条氏としては、単に同盟相手の救援だけでなく、自陣営の本拠の安全保障のためにも、駿東防衛が急務と考えたのであろう。
強兵で知られれ武田氏との正面衝突ということで、北条氏は領国各地から兵力を集め、箱根を越えて駿東に送り込んだようだ。
(※史料紹介)
駿河での北条•武田の構想は越年し、終盤では北条氏優勢で進む。信玄は一旦、甲斐に帰国することになった。
信玄の関東侵攻は、その数ヶ月後に実行に移された。すなわち、北条氏方の兵力が、未だ駿東で信玄の再訪に備えていた隙を狙い、いわば背後からの攻撃を仕掛けたのが、永禄十二年の信玄の関東襲来だったと言える。北関東方面からの攻めにする北条氏側の防衛は、常時より薄かった可能性が高いのだ。
加えて、西上野から関東に入る武田勢は、利根川渡河をしなくてよい点で、謙信より有利な立場にいた。大河利根川は、その始源である上野国を東西に分断していた。越後から上野に到来する謙信は、まず利根川以東•以北にあたる東上野 に到着し、そこから利根川渡河を行う。しかし、信濃から上野に入る武田氏は、利根川以西•以南に位置する西上野に到来することになり、この大河を渡河する労力を払わなくてよいことになる。いわば、北条氏領国の外堀を越えた位置から、信玄勢は進軍を開始できたのだ。
それでも、小田原を目指す武田勢の前にはわ荒川、入間川、多摩川、相模川が前方に控える。これらの渡河には、武田勢もある程度苦労したことであろう。ただし、この時の武田勢の進軍ルートは、秩父や多摩の山々の際に張り付くものであった。いわば、各河川の最上流を越えて進むルートが選ばれていたのであり、水量•川幅が増すより東のエリアからの南下と比べれば、難儀の度合いも低かったはずである。信玄は、北条氏領国の戦略的縦深性が大きく減じる道を選んだのだ。
ただし、このルートの危険性は、他ならぬ北条氏自身が理解していたはずである。
この山際のルートを眺めれば、荒川防衛線を守る位置にある鉢形城に一族の北条氏邦が入り、多摩川防衛線を守る滝山城にやはり一族の北条氏照が入っている。自然地形において最も守りの薄いルートには、信頼できる一門を置き、堅城を守らせていたのだこうした守りがあればこそ、謙信も、永禄四年の越山時以外は、このルートを通っていない。対して、永禄十二年に関東に侵攻した武田勢は、滝山城を落城寸前まで追い詰めて、更に南下していく。これができた理由の一月は、北条陣営の兵力が、駿東に傾斜して配置される状況にあったことに、求められるだろう。
タイミングとルート選定こそが、永禄十二年の武田勢による北条氏領国の戦略的縦深性の克服を実現させる条件となったのだ。
ただし、この時の武田勢が、小田原城を長期にわたって包囲できた訳ではないことは、注目されるべき
だろう。
北条氏領国に深く侵攻することに成功した信玄であるが、それはタイミングとルートを見計らって得ることができた、一時的かつ局所的な成功である。侵攻ルートに面してエリアを面的に支配した上での侵攻ではない以上、長期的な城攻めを可能にする兵站は維持できない。
武田勢が、早々に小田原を後にせざるをえなかったこと、そしてその帰路の三増峠で待ち構えた北条勢との合戦は、結果として大勝したものの、その本質は撤退戦であったことは、この時の関東侵攻の限界も示している。
信玄は、この関東侵攻により北条氏に越相一和を後に破棄されるための伏線となる一撃を与えることに成功したため、作戦目標は達成されたと言える。しかし、同時にそのことは、信玄が北条氏領国の完全制圧など企図していなったことも意味しているだろう。
信玄をしてこのような侵攻方法しか取らせなかったことは、逆説的に、北条氏領国の戦略的縦深性の“深さ”を示していると言えるだろう。