これまでの執筆&講演活動をまとめました。

(新聞などメディア情報も追加しました)


■執筆記録


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柴田昌彦(2025)「梶原政景はなぜ父太田資正を裏切ったのか」、ゆうゆうさんらく太田ZLNE茜音号(同人誌)


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柴田昌彦(2025)「岩付城主•渋江氏は古河公方奉公衆であったか 中編」、埼玉史談 第70巻 第1号


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柴田昌彦(2024)「岩付城主•渋江氏は古河公方奉公衆であったか 前編」、埼玉史談 第69巻 第2号


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柴田昌彦(2023)「太田道灌死後の父道真政治的位置 後編」、埼玉史談 第67巻 第3号


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柴田昌彦(2022)「太田道灌死後の父道真政治的位置 前編」、埼玉史談 第67巻 第2号


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柴田昌彦(2021)『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房)


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中世太田領研究会(2019)『太田資正と戦国武州大乱』(まつやま書房)

共著、第二章「太田資正と武州大乱」を担当


■新聞•メディア


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毎日新聞埼玉県版 2022年2月21日

「資正公500年祭に200人」

(登壇者として紹介)


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毎日新聞埼玉県版 2021年10月10日

「太田資正公 実像に迫る」

(学習会講演者として紹介)


■講演記録


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2024年5月19日

埼玉県郷土文化会

第七二九回 定期総会・記念講演

「道灌死後の太田氏分裂に迫るー漢詩「郭公稀」が示唆する後継ぎ争いの痕跡」

@さいたま文学館(桶川市若宮1-5-8)


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2023年10月22日

公益財団法人さいたま市文化振興事業団

「岩槻の歴史を学ぶ講演会」

@市民会館いわつき(さいたま市岩槻区太田3-1-1)

講演レジュメ



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2023年6月11日

NPO法人越谷郷土研究会

戦国武将・太田資正の生涯と中世太田領における越ケ谷

@ 男女共同参画支援センター「ほっと越谷」(越谷市大沢3-6-1)

講演パワポ


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2023年1月25日

道灌びいきの会講演会

「岩付城(岩槻城)太田氏築城説を再考する後編」

@千代田区かがやきプラザ(千代田区九段南1-6-10)


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2022年12月17日

道灌びいきの会講演会

「岩付城(岩槻城)太田氏築城説を再考する中編」

@千代田区かがやきプラザ(千代田区九段南1-6-10)


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2022年11月27日

歴史教養講演会 上杉謙信公越山の集い

今福匡先生講演「越山Etsuzan-上杉謙信襲来と武蔵武士たち」の質問コーナー司会

@さいたま文学館(桶川市若宮1-5-8)


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2022年8月27日

歴史教養講座

「岩付城築城者の謎」

@岩槻水野書店(さいたま市岩槻区本町4-2-10)

 

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2022年6月25日

道灌びいきの会講演会

「岩付城(岩槻城)太田氏築城説を再考する前編」

@千代田区かがやきプラザ(千代田区九段南1-6-10)

講演レジュメ


 

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2022年2月20日

岩付城主太田資正公 生誕500年祭

パネルトーク「太田資正公の魅力」

@市民会館いわつき(さいたま市岩槻区太田3-1-1)

 

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2021年10月3日

岩付太田氏の史跡を歩く

「太田資正と息子・氏資の岩槻」

@岩槻本町公民館(さいたま市岩槻区本町4-2-25)


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2021年7月18日

岩槻城主太田資正公 生誕500年学習会

午前「太田資正公の人物像について」

午後「太田資正とさいたま市の史跡」

@シーノ大宮生涯学習総合センター(さいたま市大宮区桜町1-10-18)

講演パワポ「太田資正とさいたま市の史跡」


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2020年11月15日

岩付城主太田資正公生誕500年祭学習会

戦国時代の関東の名将 太田資正(三楽斎)を知ろう第1回

「岩付城主太田資正と上杉謙信」

@岩槻駅東口コミュニティセンター(さいたま市岩槻区本町3-1-1)

 

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2019年8月3日

いわつきの魅力さがし講座

「太田資正公とその時代へのアプローチ」

@さいたま商工会議所岩槻支所(さいたま市岩槻区本町5-6-44)

 

 

太田資正は、山内上杉の当主となった謙信を主人として仰いだ。しかし同時に、太田氏が直接仕えた扇谷上杉氏を再興させている。近年、発給文書が発見され、その実在が確認された「上杉憲勝」の擁立である。
扇谷上杉氏は、山内上杉氏を補佐する立場にあり、資正が山内上杉当主である謙信と、扇谷上杉当主の憲勝の両者に仕えることに、矛盾はなかった。資正の曽祖父にあたる太田道灌も、そのような立場を取っていた。

しかし、謙信その人は、資正が再興した扇谷上杉氏の存在を歓迎していなかったように思える。
根拠は二つ。一つは、謙信の書状に、上杉憲勝が全く登場しないことだ。上杉憲勝が活躍した永禄四年から同六年の間に、謙信は膨大な数の書状を発している。その中には、上杉憲勝が城主として戦ったと伝わる松山城の籠城戦に触れたものも多い。同城の危機を関東国衆に伝えて参陣を促したり、あるいは同城の奮戦を会津の蘆名氏に報じた書状もある。ところが、それらの書状に、上杉憲勝は登場しない。登場するのは、太田資正のみなのだ。

二つ目の理由は、甲陽軍鑑や北条記、そして太田家譜などの二次史料に記載された、謙信の激昂である。謙信は、資正の要請を受け、上杉憲勝が守る松山城救援のための越山を実施したことがあった。しかし、憲勝は謙信到着の数日前に陥落し、謙信は面目を失うことになった。
この時、激昂した謙信が、資正が人質として身柄を押さえていた憲勝の息子二人を斬り捨てた、という逸話が、上掲の各史料に記されているのだ。
敵に降服した者の子息を、見せしめとして斬ることは、当時としては珍しいことではなかったかもしれない。しかし、人質としていた幼子二人を、謙信が無惨に斬り捨てたと各史料に揃って大書され事例は、この件くらいではないだろうか。
甲陽軍鑑、北条記、太田家譜は、憲勝の子息を資正が差し出したと記す点でも一致する。
謙信が、もとより憲勝の存在を苦々しく思っていたからこそ、資正は謙信に憲勝の子息をいそいそと差し出したのであり、謙信も、年来の鬱憤を晴らしたのではないだろうか。

これらはあくまでも仮説である。ここでは一旦この仮説を受け入れた上で、考えてみたい。なぜ謙信は、憲勝を歓迎しなかったのか。

やや大仰に問いを立ててみたが、答えは容易に浮かぶ。謙信にとって、憲勝は邪魔極まりない存在だったのだ。
謙信は上杉一族の人間ではない。永らく越後上杉氏に仕えた家宰•長尾氏の次男である。それが、いつのまにか主家を超える存在となり、遂には上杉の惣領たる山内上杉の当主•憲政の養子となり、家督を受け継ぐことになった。しかし、もとは越後上杉氏の家臣に過ぎない一族の出であった過去は消せない。いまは圧倒的な武力と、憲政や京都の足利将軍の認めによって山内上杉当主の地位を得ているが、いつ状況が変わるか。

そこへ現れたのが、扇谷上杉の血を引く憲勝だ。謙信と違い、傍系とは言え上杉の血を継ぐ人物であり、山内上杉憲勝の養子となった点においては謙信と対等である。何らかの状況の変化により、関東諸将が、どうせ仰ぐならば上杉の血を引く憲勝を、ならないとも限らない。

そうならずとも、山内上杉当主の謙信は、旧例に倣い、扇谷上杉当主の憲勝を弟分として扱うことを求められるかもしれない。
関東管領となり、少なくとも西関東の旧上杉勢力圏では“王”として振る舞えると思っていた謙信にとって、同族の弟分など邪魔でしかない。

こう考えれば、謙信が、資正が新たに擁立した主君であり、謙信の弟分と位置付けられる上杉憲勝の存在を完全に無視して、無きが如くに振る舞ったのも、当然と言える。
資正もまた、そうした謙信の思いを理解しつつも、「関東経営には扇谷上杉の復活が必要」と説いた。

たが、扇谷上杉の本拠として松山城に入った憲勝が、北条氏に降服したことで、その理屈は破綻した。資正は、憲勝の子息を言わば生贄として差し出し、以降は、謙信に直接仕える形を取らざるを得なかったのではないか。


 

 


 

 


 

 




小田原が、駿河方面からの攻撃に対しては厚い守りを持たないこと。そして、その駿河の主であった徳川家康が、今や秀吉に臣従し、小田原攻めの主力の役割を担うことになったこと。この二つを重ね合わせれば、小田原が早々に秀吉•家康が率いる大軍に包囲されてしまう未来は、確度の高いシナリオとして、当時の武将達にも見えていたのではないだろうか。

家康が、上洛して秀吉に臣従する際、その直前に、家康は三島で北条氏と会談し、もし秀吉方と合戦となれば共に戦うとの話をつけていた。この会談については、太田資正も情報を掴み、秀吉に知らせている。
資正のそうした情報収集と上方への提供は、秀吉に対して、役に立つ関東の情報源としての自身のアピールもあったであろう。秀吉にとって最大の脅威であった家康の動向情報には価値がある。それに加えて、家康の今後の立ち振る舞いが、北条氏の命運を決めるとの理解もあり、資正はこの東海一の弓取りの動きを注視したのではないだろうか。家康が、秀吉につけば、北条氏の逼塞は、ほぼ決するのだから。

小田原を包囲する秀吉に、資正•政景父子が謁見を果たしたことは、一次史料では確認が取れないものの、多くの軍記や、他ならぬ太田氏の系譜史料もそれを記している。また、梶原政景の菩提寺には、秀吉から賜ったとされる陣羽織が伝わる。父子の秀吉謁見は、あったと見てよいだろう。

石垣山の秀吉の御座所から、幾重にも包囲される小田原城を見下ろした時、老将資正は何を思っただろうか。
永年北条氏と戦い、関東における北条氏領国の守りの厚みに苦戦し続けた資正である。しかし同時に、この巨大な敵が、駿河方面からの攻勢には脆いことも、よく知っていたに違いない。先にも述べた通り、資正は、北条氏と家康の同盟の動静を注視していたし、それ以前にも武田勝頼が健在の頃は、東方之衆と勝頼の取次をしたのが資正であった。勝頼が駿東地域で攻勢を仕掛け、北条氏を恐慌させたことを忘れていたはずはない。
更に時を遡れば、資正の岳父難波田善銀が、今川氏に駿東攻めを促した上で、北条氏の河越城を攻撃して、北条氏を苦境に陥れたこともあった。
駿河からの攻勢が、北条氏にとって初手で王手を打たれるような避けたい事態であることは、歴戦の資正にとって常識だっだはずだ。

しかし、秀吉•家康が行った駿河からの小田原は、そうした定石を打つのものでありつつ、同時に規模においては完全に空前のものと言えた。



ここまで北条氏領国、とりわけその本拠たる小田原が有する戦略的縦深性を論じてきた訳であるが、ここである疑問が湧いてくる。
上杉謙信や武田信玄といった名将ですら、いくつかの条件が重なった時にのみ、短期間の実現を叶えるのみに留まった小田原包囲。なぜ、豊臣秀吉は、長期にわたる包囲を実現し、その開城を迫ることができたのか。という問いである。

小田原陣の際の秀吉が、すでに畿内•西国•九州を押さえ、家康にすら臣従の礼を取らせていたことを踏まえれば、この問いは無意味に思えるかもしれない。

謙信や信玄の小田原攻めが、同格の戦国同士の対決であったのに対し、秀吉のそれは天下人による残存抵抗勢力の討伐である。北条氏は、自身の領国以外の日本全国を相手にしたようなものであり、もはや「戦略的縦深性」を論じられるような彼我の力関係ではない、と。

しかし、秀吉率いる上方勢と迎える北条勢の圧倒的な兵力差•物量差を踏まえてなお、この時の小田原が、持ち前の戦略的縦深性を一切発揮していない点は、指摘されるべきだろう。「北条征伐」の際の小田原は、本来己を守るはずの関東の支城群より先に包囲されている。

前線となる関東平野の五つの大河と、河川防衛線を守る支城群が、次々と秀吉勢に攻め落とされて、遂に本拠小田原が包囲されたーという展開が起こらなかったこと。その逆に、本拠小田原が包囲されてから、残る関東の支城が次々と攻略されていった展開こそが、「北条征伐」の大きな特徴である。かつて謙信や信玄を悩ませた戦略的縦深性が、この戦役では、雲散霧消してしまった。これは、単なる兵力差•物量差の問題ではない。兵力と物量の差ならば、先の対戦で日本の指導者達が、南洋の諸島の陥落や沖縄の制圧などで味わった防衛拠点の喪失の恐怖と、来るべき本土に向けて高まる緊迫感。そしてそれが数ヶ月にわたって悪化、激化の一途をたどる、という展開が、起こり得たはずである。

しかし、小田原は違った。秀吉勢の猛攻を最初に受けた箱根の山中城が陥落すると、そのあとは一直線に小田原包囲への道が開けていったのだ。

その理由は、地形を見れば明らかである。北関東、とりわけ利根川以東からの攻撃に対しては、非常に“深い”戦略的縦深性を誇った北条氏領国、そして本拠小田原であった。しかし、秀吉勢が攻めた駿河からの箱根越えルートに対して小田原は無防備に近かったのだ。
箱根の山は険しく、そこを守る山中城も堅城である。しかしそこを越えれば、もはや小田原まで障害物はない。北関東からの攻めの前に立ちはだかった五本もの大河は、そこには無く、大河と大河に挟まれた扇状の大地に蟠踞する従属国衆らの姿も、箱根から小田原への道筋には無かった。
駿河方面からの攻勢に対して、北条氏領国、そして本拠小田原は、戦略的縦深性をほぼ有していなかったのだ。

考ええみれば、北条氏は今川氏の重臣から始まり、対等となってからも、今川氏との盟約を基本にしていた。

小田原を西から脅かせるのは、箱根の山を越えるだけでよい駿河の統治者であるが、その駿河の統治者は、更に西の遠州までも支配した同盟相手だった。
北条氏としてみれば、駿河•遠海を支配する大大名、今川氏が味方であることによって、本拠小田原は、むしろ西からの攻めに対して、圧倒的な戦略的縦深性を有することができたのだ。
考えてみればわかる。今川氏が強勢を誇った時代であれば、尾張や三河の勢力が、今川領国を踏破して小田原に攻め込むことは容易ではない。

東海道の覇者と結ぶ限り、小田原は、関東に広がる北条領国と東海道に広がる同盟相手の領国の中間に位置することになり、最も安全な地となったのだ。

こう考えてみれば、信長亡き後の世で、秀吉と家康が、小牧•長久手で覇を競った際に、北条氏が徳川方についたのも当然であった。その少し前まで、北条にとっての徳川は、信濃と甲斐を巡って争う敵であったが、仮に味方になる余地があるならば、同氏は北条氏にとって、かつての今川氏の再来となるのである。組むなら、秀吉ではなく、家康。それが、地形が北条氏に促した自然な判断だったのではないだろうか。
その少し前まで、武田勝頼に駿河側から攻め込まれ、当主氏政が滅亡する考えた状況を経験していただけに。

そして、こう考えていくと、家康が秀吉に臣従した時点で、北条氏が軍事的に秀吉に対抗する余地は、消滅していたとすら言えるのではないだろうか。






さて、戦略的縦深性の視座からみた岩付領の検討はこのくらいでとどめるとしよう。筆者が、戦略的縦深性に言及したのは、北条氏の領国防衛の在り方を、この視座から眺めてみたかったからだ。
結論から述べれば、北条氏領国の戦略的縦深性は、どこから攻めるかにより、大きく異なった。
太田資正が後半生を過ごした常陸国片野から見れば、北条氏領国の戦略的な縦深性は、果てしなく“深い”。本拠小田原まで攻め込んで制圧するには、複数の大きな河川を渡河しなければならない。現在の中川の流路を通った中世利根川、現在の元荒川の流路を通った中世荒川、現在の荒川本流と重なる中世の入間川。まずはこの三つの河川を渡らねば、武蔵野台地の縁にすら辿り着かない。そしてそこまで到達してむきあうのは、武蔵野台地の北端の河越城、東端の江戸城という堅牢さで知られた二城である。
このニ城のいずれかを抜いて武蔵野台地に登ったとしても、その先に多摩川が控え、それを渡っても今度は相模野台地とその縁の城が姿を見せる。そこをさらに抜いても相模川が待っており、小田原まで一気呵成に攻めることはできない。


総括すれば、常陸国南部から眺めた北条氏領国は、
•渡河に労苦を要する大河川五つを越え、
•縁に城砦を構える台地を二つ登る、
という労苦を負わねば、本拠地まで辿り着けなかったことになる。

河川を渡る前も渡った後も、敵は正面だけでなく、側面にも存在し、侵攻を邪魔することになる。
小田原への道は、深く、険しかった。
すなわち北条氏支配域は、利根川以東の敵対勢力が侵攻を企図した際には、戦略的縦深性において圧倒的な“深さ”を発揮できたのである。

このように五本の大河と二つの台地に守られることで、「戦略的縦深性」を有した北条氏領国と本拠小田原であったが、敵方に攻め込まれたことがある。
秀吉の小田原陣がその代表であるが、それ以前にも、北条氏と同格の戦国大名が小田原までの侵攻を果たしている。

言うまでもなく、永禄四年の上杉謙信、そして永禄十二年の武田信玄による小田原攻めである。
戦国期東国を代表する戦国大名である謙信と信玄の小田原攻めは、両雄の軍事面での有能さを裏付ける事績として語られることが多い。本書では、両雄が小田原の持つ戦略的縦深性を、どのように克服したかを考えてみたい。

まず謙信の永禄四年の小田原攻めであるが、これは、謙信陣営が小田原の戦略的縦深性を半減させたことによる成功と言える。具体的には、利根川•荒川の内側にいた北条氏の従属国衆が一斉に離反したことにより、両大河の防衛線が、事実上消滅してしまったのだ。まだ、入間川(現荒川)、多摩川、相模川の防衛線は残されていたが、入間川以北の諸将がことごとく謙信方となってしまえば、衆寡敵せずの状況に陥る。
当初は松山城(荒川防衛線)で、ついで河越城(入間川防衛線)で、謙信を迎撃する方針を配下に伝えていた北条氏康が、一転、小田原籠城策に移行したのは、入間川以南の勢力で同河川の防衛線を守ることが困難なほどに、謙信勢が数を増していたためであろう。
謙信は、北条氏陣営において河川防衛線を守る立場にいた国衆らの離反によって、同氏支配域の戦略的縦深性を克服することができた、と総括することができるであろう。
実際、荒川以南の岩付太田氏が再び北条氏配下に組み込まれた永禄七年以降、謙信が同河川を越えて北条氏勢力圏に攻め込むことは、ほぼなくなる。

さらに、荒川以北且つ利根川以南の国衆らが、永禄九年に北条方に転向すると、利根川を越えて南進する機会も、激減していった。河川防衛線を守る役割を担う国衆らが、北条氏に従う立場に戻ったならば、さしもの謙信も、北条氏領国の戦略的縦深性を前にして、攻め手を失っていったのである。

このように、利根川•荒川以南の国衆を味方につけることで、北条氏領国の戦略的縦深性を減じることに成功したのが、永禄四年の上杉謙信であった。
では、永禄十二年の武田信玄の小田原攻めの場合は、どうだったのか。信玄は、如何にして北条氏の戦略的縦深性を克服したのか。
これについては、タイミングとルート選定が大きく奏功したとみることができるだろう。信玄は、前年の永禄十一年末から、それまで同盟相手であった今川氏の領国、駿河への侵攻を決行していた。これには、今川氏と長く盟約関係にあり、同氏に、前当主氏康の愛娘を嫁入りさせていた北条氏も素早く反応し、駿東に援軍を差し向けた。駿河が敵方に奪われれば、小田原を守るものは箱根の山々だけとなる。北条氏としては、単に同盟相手の救援だけでなく、自陣営の本拠の安全保障のためにも、駿東防衛が急務と考えたのであろう。
強兵で知られれ武田氏との正面衝突ということで、北条氏は領国各地から兵力を集め、箱根を越えて駿東に送り込んだようだ。
(※史料紹介)
駿河での北条•武田の構想は越年し、終盤では北条氏優勢で進む。信玄は一旦、甲斐に帰国することになった。

信玄の関東侵攻は、その数ヶ月後に実行に移された。すなわち、北条氏方の兵力が、未だ駿東で信玄の再訪に備えていた隙を狙い、いわば背後からの攻撃を仕掛けたのが、永禄十二年の信玄の関東襲来だったと言える。北関東方面からの攻めにする北条氏側の防衛は、常時より薄かった可能性が高いのだ。
加えて、西上野から関東に入る武田勢は、利根川渡河をしなくてよい点で、謙信より有利な立場にいた。大河利根川は、その始源である上野国を東西に分断していた。越後から上野に到来する謙信は、まず利根川以東•以北にあたる東上野 に到着し、そこから利根川渡河を行う。しかし、信濃から上野に入る武田氏は、利根川以西•以南に位置する西上野に到来することになり、この大河を渡河する労力を払わなくてよいことになる。いわば、北条氏領国の外堀を越えた位置から、信玄勢は進軍を開始できたのだ。

それでも、小田原を目指す武田勢の前にはわ荒川、入間川、多摩川、相模川が前方に控える。これらの渡河には、武田勢もある程度苦労したことであろう。ただし、この時の武田勢の進軍ルートは、秩父や多摩の山々の際に張り付くものであった。いわば、各河川の最上流を越えて進むルートが選ばれていたのであり、水量•川幅が増すより東のエリアからの南下と比べれば、難儀の度合いも低かったはずである。信玄は、北条氏領国の戦略的縦深性が大きく減じる道を選んだのだ。

ただし、このルートの危険性は、他ならぬ北条氏自身が理解していたはずである。
この山際のルートを眺めれば、荒川防衛線を守る位置にある鉢形城に一族の北条氏邦が入り、多摩川防衛線を守る滝山城にやはり一族の北条氏照が入っている。自然地形において最も守りの薄いルートには、信頼できる一門を置き、堅城を守らせていたのだこうした守りがあればこそ、謙信も、永禄四年の越山時以外は、このルートを通っていない。対して、永禄十二年に関東に侵攻した武田勢は、滝山城を落城寸前まで追い詰めて、更に南下していく。これができた理由の一月は、北条陣営の兵力が、駿東に傾斜して配置される状況にあったことに、求められるだろう。
タイミングとルート選定こそが、永禄十二年の武田勢による北条氏領国の戦略的縦深性の克服を実現させる条件となったのだ。

ただし、この時の武田勢が、小田原城を長期にわたって包囲できた訳ではないことは、注目されるべき
だろう。
北条氏領国に深く侵攻することに成功した信玄であるが、それはタイミングとルートを見計らって得ることができた、一時的かつ局所的な成功である。侵攻ルートに面してエリアを面的に支配した上での侵攻ではない以上、長期的な城攻めを可能にする兵站は維持できない。
武田勢が、早々に小田原を後にせざるをえなかったこと、そしてその帰路の三増峠で待ち構えた北条勢との合戦は、結果として大勝したものの、その本質は撤退戦であったことは、この時の関東侵攻の限界も示している。

信玄は、この関東侵攻により北条氏に越相一和を後に破棄されるための伏線となる一撃を与えることに成功したため、作戦目標は達成されたと言える。しかし、同時にそのことは、信玄が北条氏領国の完全制圧など企図していなったことも意味しているだろう。

信玄をしてこのような侵攻方法しか取らせなかったことは、逆説的に、北条氏領国の戦略的縦深性の“深さ”を示していると言えるだろう。


戦略的縦深性(strategic depth)という概念がある。国家などの防衛において、敵の攻撃を受けた際の防御や反撃を行うための空間的・時間的余裕の程度を示す概念であり、例えば、ナポレオンやヒトラーが連勝を続けても制圧できなかったロシア/ソ連が、戦略的縦深性の深さを発揮したと言われることが多い。

この概念で、戦国期の関東を眺めてみたい。

岩付時代の太田資正の支配域は、戦略的縦深性の“浅さ”において際立つ。それは、北条氏の武蔵国拠点である江戸、河越を、まるで鶴翼の陣でも敷くかのように覆う形勢にあったが、奥行きの深さは乏しい。北条氏に対する地勢的な障壁としては、中世入間川(下流は現在の荒川本流)が存在したが、ここを越えられてしまえば、その後は大河も連山もない。

岩付領の中核となったのは、大宮台地であり、同台地は複数の支台が扇状に広がる形状をしていた。支台の間には湿地が広がっていたため、通行には一定の困難が伴ったが、北西に進めば全ての支台が繋がっている。天然の障壁として果たした役割は、大河や連山のそれとは比すべくもなかったことだろう。

こうした岩付領の特徴は、氷川女體神社の大般若経に記された識語からもうかがわれる。この識語は、資正が北条氏との抗争の勝利を祈念して行わせた真読(経文全文を省略せず読むこと)の際に記されたものであり、戦闘や放火がなされた土地が記録されているのだ。

これによれば、資正と北条氏の抗争地の多くが、北条氏側からが入間川を渡ってたどり付く場所、すなわち大宮台地南西部の“縁”に分布しているのだ。
抗争地は、その後、大宮台地の“内部”に移ったはずであるが、識語にはその記録はない。このことは、北条氏が“縁”を越えてしまえば、もはや寺社に大般若経の真読を執り行わせる余裕が、資正になかったことを示している。入間川を渡り、大宮台地の縁を越えられてしまえば、岩付領の防衛線は崩壊したも同然だったのだろう。

太田資正の岩付領には、十分な戦略的縦深性は無かったのだ。




繰り返しとなるが、駿河方面からの侵攻により、小田原の北条氏を震撼させた事例としては、天文十四年の今川氏、永禄十一年から元亀二年の武田信玄、そして天正七年から同九年の武田勝頼による攻勢があった。

これらは確かに、北条氏の心胆を寒からしめた。しかし、そのいずれもが、小田原の裏庭たる駿東(勝頼の時は伊豆も)を手に入れることが、軍事行動の目標とされたものであった。箱根の向こうの小田原の攻略までは、やがては検討の俎上にあがるのだとしても、少なくとも当該の軍事行動のゴールとしては設定されていなかった。
こうした過去の事例においての北条氏は、駿東と伊豆を失った先に訪れる未来を思って震えたのだ。

だが、天正十八年の秀吉は違った。上方•東海道勢は、小田原を落とすことを目標として、駿東に進軍し、伊豆を押さえ、そして山中城を落としたのだった。
三河•尾張への拡大を図った今川氏は、それを望まなかった。西上作戦を考えていた信玄も、北条氏を再度組み伏せて背後を安泰にすれば良かった。武田勝頼は、近い未来に小田原の攻略を見据えていたかもしれないが、西の織田政権の動向が、それを許さなかった。
今川氏も、武田二代も、征服対象としての、あるいは自身を脅かす存在としての西の勢力があったからこそ、小田原の攻略までは考えなかった。あるいは考えられなかったのだ。

この点において、秀吉は根本から違っていた。西は、東海道のみならず、畿内、瀬戸内、九州に至るまで、全て秀吉の影響下にあった。
駿東に押し寄せた上方•東海道勢にとって、西には本国と味方しかいない。征服すべき対象は、山の向こうの小田原のみ。
そんな軍勢が駿東に押し寄せた時点で、“詰み”なのだ。

石垣山から包囲される小田原を見下ろした時の老資正もそんなことを思っただろうか。

それにしても皮肉である。
関東の武士達にとってあれほどの難攻不落を誇った小田原城が、西からの攻めには弱く、西に不安のない軍勢が押し寄せれば、意図も容易く包囲されてしまうのだ。

生涯の敵が追い詰められた様子を見下ろす老将の心に去来したのは、歓喜か、空しさか。

資正その人の思いを知ることは、本人以外にはできないが、筆者は、軍記や家伝史料が描く小田原陣の資正が、いずれも秀吉を批判するか、己の知恵を見せつける逸話に彩られていることが、気になっている。
小田原城の堅牢を訴えて秀吉の力攻めを批判する軍記物の資正が、もし真実の片鱗を伝えているのであれば。その場合、この老将は、自分達を苦しめたこの堅城が、眼前で力無く包囲される様子に何か苛立ちを覚え、小田原城の堅さはこんなものではないのだと、訴えたかったのかもしれない。

秀吉に、自身の知恵を見せる逸話が、やはり事実の一端を伝えているのであれば。資正は、今は力無く包囲されるがままの北条氏と戦った自分達が、弱く愚かな存在だったわけでは無かったことを、訴えたかったのではないだろうか。

むろん、真相はわからない。単に、小田原攻めにおいて何らかの功績を認めて欲しいごゆえに、声高に発言し、その結果として悪目立ちをしただけなのかもしれない。

だが、生涯を賭けて戦った強敵の、あまりにも呆気ない最期に遭遇した時、資正の心に去来したのが、勝利を喜ぶだけの単純な想いだけであったとは、筆者には思えない。