2月25日に投票が行われた宮崎県知事選で現職の河野俊嗣氏が僅差で当選を果たした。河野25万票、対抗馬の東国原英夫23万票という僅差だった。現職の際には95%もの支持率を誇った東国原はなぜ敗北したのだろう。

 

東風が吹かなかった二つの要因

要因の一つは、前回の当選時とは状況が全く異なっていたことにある。2006年、宮崎は政治的腐敗が極みにあった。県知事の官製談合によって逮捕された黒木博知事に続いた次の松形祐堯はシーガイアというとんでもない負の遺産を残して退いた。こうした政治的腐敗を払拭すべく次に知事となった安藤忠恕もまた官製談合によって在任中に逮捕される事態に。そんな中で泡沫候補として登場した東国原(当時、そのまんま東)が「みやざきをどげんかせんといかん!」とのキャッチフレーズで、一切しがらみのない、支持基盤ゼロの選挙戦を繰り広げる。

これに追い風となったのが自民党内の政治的ゴタゴタだった。党本部と県連で意向が決裂、二人の候補者が自民党内から立候補する事態に。県民は「どちらにやらせても、結局、現状は変わらない」とあきれ果て、スーパークリーンでしがらみのない泡沫候補を選択したのだ。つまり「東風」が吹いたのだ。その後、周知のように東国原は宮崎を全国区にすることに成功する。それが金正日、ヒトラーばりの支持率獲得に至ったのだった。

 

だが、今回は事情が違った。東国原周辺には複数のマイナス要因が広がっていたのだ。

一つは河野県政。元はといえば河野は東国原が知事に就任した際に副知事として指名した人物。つまり、東国原県政をバックアップする第一人者で、東国原が一期で知事を退任後、県政を引き継いだ。その後、さしたる問題もなく県政を運営することに成功する。もちろんしがらみや政治的腐敗とは無縁。人柄も温厚で県民の支持も厚い。東国原がある程度の宮崎の経済基盤を立て直した後、人々は県政のクルージングを望むようになる。いわば武断政治から文治政治へのマインドシフトが起きていた。ということは、東国原が2007年に流行語大賞を取ったキャッチフレーズを再びアレンジして持ち出し「シン、どげんかせんといかん!」と訴えたところで「何を?」との反応が返ってくるの関の山。県民は今回の知事選において首長を変更するさしたる理由を見つけることができなかったのだ。

もう一つは「身から出た錆」である、たった一期で知事を辞めてしまったこと。知事時代、僕は宮崎に暮らし、テレビ番組絡みで東国原に何度かインタビューをしたことがある。その中で彼が訴えていたのは「骨を埋める覚悟でやります。宮崎は私のお母さん」とコメントしていたのだが、あっという間に手のひらを返してしまった。今回の選挙戦で、その理由を「口蹄疫の際に宮崎牛が途絶えてしまうことを避けるために、数頭を法律を無視して避難させたのだが、一部の人間から、『次に立候補したら、このことをバラして政治的なスキャンダルにする』と言われ、泣く泣く立候補を諦めた」と説明しているが、これはウソだ。

任期が進むにつれ、東国原は県知事という職務が自分が思ったよりもはるかに限定された活動しかできないと認識するようになる。「県知事じゃ、なんもできん」的な発言を繰り返すようになったのだ。曰く、「ぷらーっとしてた」。そして、かつての情熱は冷め、県庁にもあまり顔を出さないようになった(東国原の活動を逐次チェックしていた僕は、県知事番の記者、番組担当者複数から、この時期の東国原のヤル気なさの報告を受けている)。そして、その思いは国政に向かっていく。当時は自民党も小泉が辞任してゴタゴタ状態。この打開を図るべく自民党は選挙対策委員長・古賀誠が自ら宮崎に赴き、東国原に国政に参加するように要請するほどだった。結局、東は東風を捨て、自ら東へ向かった。そして、その勢いは止むことなく東京都知事選に立候補。落選こそしたが、百万票を獲得する(石原慎太郎が考え直して立候補しなかったら、おそらく当選していただろう。都知事選後、ジャーナリストの田原総一朗は東国原との対談で「これ、あなたの勝ちですよ」とコメントしたほど。つまり「試合に負けて勝負に勝った」。だから、次の都知事選を狙って虎視眈々と準備をしていれば当選は可能だったはずだ。ところが、そうはしなかった。東国原はコメディアンそのまんま東からコメンテーター東国原英夫として再びテレビ画面に露出しはじめた。そう、こちらも早々に活動をやめてしまう。また「ぷらーっ」としはじめたのだ。)

当然、県民は怒った。あれだけわれわれを持ち上げた挙げ句、あっさり捨てたのだから、それは当然の反応だった。

 

 

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東國原知事にインタビューする筆者

 

東風、実は吹いていた?

では、東風は吹かなかったのだろうか?いや、やはり今回も吹いていたと考えるのが妥当と僕は考える。

前回戦った際の投票数を比較してみよう。2007年は27万票、今回は23万票と減少している。ただし、前回二つに分かれた自民党候補者の獲得投票数を合計すると32万票。一方、今回河野俊嗣が獲得した投票数は25万票。獲得投票の占有率は前回(2007)よりもアップしているのだ。しかも、これは自民、公明、立憲民主党が相乗りでバックアップしての数字。東国原は支持基盤なしの「丸腰」。それでもこれだけの票を獲得したのだ。投票率は前回(2018)比22.7%のアップ。このアップ分の多くが東国原に一票を投じたと考えるのが妥当だろう。そう、東国原は変化を望まないと思われ、投票率が右肩下がりだった県民に、政治意識を覚醒させることに成功しているのだ。

 

河野は勝利宣言に際して思わずメガネを外し、流れ出る涙をハンカチで拭き取った。河野自身もこれまでの県知事選とは違い、非常に厳しいものであることを予感していたのだ。もし仮に、支持基盤の一つだけでも東国原に寝返っていたしたら、敗北は免れなかっただろう。勝って兜の緒を締めよ、河野はおそらくそんなふうに思っているのではなかろうか。そう、今回も東風は吹いていたのだ。ただし、都知事選同様「試合に負けて勝負に勝った」のである。

 

東国原のこれから……持続力がポイント

この後、東国原はどうするのだろう?四年後に再び県知事選に出馬するとすれば、また大きなイベントになること、そして東国原が勝機を得られる可能性は十分に考えられる。河野県政を批判するとすれば、それは「多選」あたりがポイントになるのではなかろうか。

ただし、東風を吹かすためにはやはりいくつかのハードルがある。

一つは東国原の年齢だ。四年後の選挙の際には69歳になる。つまり、高齢がネックになるだろう。多選VS高齢の図式が考えられる。

ただし、これはさしたるマイナス要因ではないだろう。いちばんの問題は東国原自身の持久力だ。目標に向かったときのエネルギーは今回も含めてすでに実証済みだが、それを獲得した後の持続性がないと周囲からは認識されている。県知事を一期で辞め、都知事選落選後も次への立候補を考えない。「あの男は飽きっぽい」と思われても仕方がない行動をとり続けているのだから。これをどう払拭するかが、次期県知事選への当落のポイントとなるのではないか。

 

宮崎在住時、何度となく東国原さんとは会話する機会があったのだけれど、とにかく頭のよく回る人、そして宮崎のことをよく勉強しておられるという印象があった。「先生の大学の野球グランドのバックネット。破れて半年以上経ってますけど、あれ、どうにかなりませんかねぇ」と指摘されたときにはかなりビックリした。当の僕が、そんなこと知らなかったからだ。また県知事在任時はオール野党と言われ、自民党から赤子の手のひらをひねるようなものと思われていたが、議会でもメディア上でも、その豊富な知識とキレのよさで、県議会議員を打ち負かすこともしばしば。挙げ句の果て、自民党県連が東国原にひれ伏した的な状況にもなった(だから支持率もアップしたのだけれど)。

 

東国原が知事に返り咲くためのプラン

東国原が四年後に知事に返り咲くために、本人がやるべきこと。それは持続性(サスティナビリティ)を県民に向かって証明することにあると僕は考える。具体的には宮崎に根を下ろし、四年間、宮崎に向けた政治活動を行うことだ。それはボランティアやNPOとしてでもよいし、いったん県議会議員になってもよいだろう。かつて知事時代にやったように、マスメディアを駆使した自らの全国区での活動とこれをリンクさせる。こうした地味な活動を派手なパフォーマンスで展開すること。つまり持続性を証明することではじめて一期での退任批判を覆すことが可能になる。

その根拠は、今回の23万票という結果が示している。そう、繰り返すが依然として東風は吹いているのだ。その風向きをコントロールすること。東国原にはそれが求められている。退任罪、懲役四年と考え、ムショ(宮崎)では模範囚を務めて欲しい。

焼き餃子協会の集計によると2021年、年間餃子購入額と購入頻度において宮崎市が全国第一位になった。

まさに異変。県別餃子消費量ランキングといえばトップの座をめぐって宇都宮と浜松が鎬を削ってきたというのが、これまでの図式。宮崎も上位にはあったが、その存在は全国的に知られはていなかった。インターネットの時代、ご当地名物は全国に誇れる、そして経済を活性化のための重要な資源。それは餃子も例外ではない。宮崎という伏兵の出現、意外や意外という感じで浜松、宇都宮はさぞや驚いたことだろう。そして、宮崎人は大喜びしているだろう。

 

ただし、である。宇都宮と浜松に忠告したい。

 

「慌てることはない」

 

そして宮崎にも忠告しよう。

 

「三日天下かも?」

 

実は宮崎が全国一になった理由は「市民が頑張って食べた」ということの他に、もっと大きな理由がある。それは「コロナのせい」。え?それはどいういうこと?

 

焼き餃子協会の統計は単純に購入額と購入頻度を計算しただけのもの。どのように餃子が消費されるのかについては踏み込んではいない。で、宮崎の場合、消費の仕方が他とは全く異なっているのだ。

 

宇都宮や浜松の街中を歩いてみれば、餃子専門店を見かけることは珍しいことではない。また街中華の店でもお客の多くがサイドオーダー(あるいはメインオーダー)として餃子を注文する光景も日常的。一方、宮崎の場合、餃子専門店の数は少ない。自分は宮崎に10年居住していたが、餃子専門店の暖簾をくぐることはほとんどなかった。つまり、観光客は「宮崎だから餃子を食べに行こう!」と思ったところで、店を探すのは容易なことではない。むしろ、もも焼き、チキン南蛮、宮崎牛、そして宮崎ラーメンといった名物を扱う店に向かうのが一般的なのだ(というか圧倒的に多い)。

 

では、このからくりは何か。答えは実に簡単で、みやざき人にとって餃子は「持ち帰るもの」とりわけ「冷凍物を大量買いするもの」。だから、こうなったのだ。一例を示そう。宮崎で最も有名な餃子の店は「ぎょうざの丸岡」だ(これ自体は本店が都城にあるのだが)。かつて丸岡は宮崎市内駅北の原ノ前・大島通船沿いに餃子レストランをオープンしたことがある。この辺りは他に有名なラーメン屋や回転寿司、もも焼きの店などがある、ちょっとしたレストラン街。ところが、丸岡は長続きしなかった。言うまでもなく「餃子は店で食べるものではなく、冷凍を購入して、家で焼いて食べる」からだ(現在はもう少し南の柳丸に販売のみの店を構えている)。

 

さて、こうした餃子消費方法の違いを踏まえれば、宮崎が一位になったことは十分に納得がいく。コロナ禍の中で巣ごもり需要が高まった。ならば外食するより家で食べるという普段のスタイルに拍車がかかる。

 

「じゃあ、餃子かな?」

 

それが結果として消費量を押し上げた。

 

一方、宇都宮や浜松はその逆である。持ち帰り文化ももちろんあるが、餃子専門店や街中華での需要も高い。だが、コロナ禍によって後者の需要が激減してしまった。そこで宮崎が浮上した!

 

ということは、ポストコロナ後には、必然的に宇都宮、浜松の逆襲が想定されるだろう。ジモティは再び餃子を食べに外に出かけていく。一方、宮崎の場合、そうした文化はほとんどない、そして巣ごもり需要も減退する。ということで、今回の宮崎の餃子全国第一位。三日天下の可能性が高い。

 

宮崎に長年お世話になった者の一人として、宮崎市民に檄を飛ばしておこう。「勝って兜の緒を締めよ!」。そして、現在の餃子天下は自助努力ではなく、半分はコロナのせいであることをお忘れなく。

 

というわけで、宮崎の皆さん、せっせと餃子を食べてましょう(笑)。また、「冷凍餃子をお家で楽しむ」という「みやざき文化」を全国に広げてください(柚子胡椒、独自のタレ、醤油、七味、しそ、味噌など色々な調味料で味付けして楽しむなんてことをやってます。美味しい)。

 

で、そろそろ大手の冷凍食品会社(味の素とか)が宮崎餃子に手を伸ばそうとしているんじゃないんだろか(宮崎辛麺は明星がすでに本田翼を起用して売ってます)。

10月29日、新庄剛志の日ハム監督就任という仰天ニュースが報道された。「新庄はパフォーマンスに優れるが、反面指導者としての経験はないから、チームを率いていくことなんかできるのだろうか?」「新庄は二面性の持ち主。パフォーマンスもさることながら理論面でも優れているから大丈夫」……こうした賛否両論が同日のうちにに何度となくメディアを駆け巡った(ただし、ほとんど肯定的)。だから、たった1日で聞き飽きた視聴者もいるかもしれない。

 

そこで、パフォーマー、技術者といった側面以外の、そして考えようによってはそれ以上にチーム活性化に重要な新庄の魅力=カリスマ性について、15年前のエピソードをもとにメディア論的に語ってみたい。

 

”その時、摩訶不思議なことが起こっていた!”


 

現実歪曲フィールド

Appleの創業者スティーブ・ジョブズのパーソナリティを表現する際にしばしば用いられる用語の一つに「現実歪曲フィールド」がある。大したことのないプロジェクトや製品であっても、いったんジョブズがプレゼンを始めるとクライエントやオーディエンスはそれがとてつもないような素晴らしいものに思えてしまい、取り憑かれたように契約したり、購入したりしてしまうのだ。新庄もまたこの現実歪曲フィールド能力を備えている。その典型が2006年のペナントレースだった。



 四月早々の引退宣言というスタンド・プレー

日本ハムファイターズの選手だった新庄剛志は2006年4月18日、ペナントレース開始早々、引退を表明してしまう。通常、プロ野球選手の引退表明は、シーズン末、レギュラークラスの選手ともなれば、全スケジュールが終了した後が一般的なのだが、新庄はちょっと考えられないくらい早い時期にこれをやってしまったのだ。しかも34歳、さして体力的衰えがあるようにも思えない。新庄はこれまで突然の引退宣言、大リーグ参戦、オールスター戦でのホーム・スチール、敬遠ボールをサヨナラヒット、かぶり物をかぶって練習など、常にプロ野球界の中で話題を提供し続けた人気者。本人も言うように「イチローは記録、自分は記憶に残る」存在だった。

 

そんな選手がこのタイミングで引退宣言などすれば、最後の勇士見たさに連日ファンが球場へ押し寄せ、残り試合すべてが引退セレモニーとなることは請け合い。事実、この年、ペナントレースは新庄を中心に展開した。


 

並の選手が……新庄劇場というパフォーマンスでチームを日本一に

引退宣言以前から、新庄は自分が打ったホームランにはすべて打法の名前を付けてメディアに紹介していた。引退宣言の際も自らがホームランを打って、それをヒーローインタビューで「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」と命名し引退宣言を行っている。すると、その後、メディアはホームランのたびに命名する打法を紹介(これまで以上に大々的に取り上げるようになった)。新庄もこれに合わせて様々なパフォーマンスを続け、これがメディアによって逐一報道された。阪神時代の63の背番号をつけて試合前に練習したり、阪神戦の練習にタイガースの縦縞のユニフォームを着てみたりと、一連の「自作自演引退セレモニー」を毎試合のように続けていく。その間、新庄が引退を覆す様子を見せることは一切なかった。そして、それが新庄という存在を一層注目させることとなる。

これらの新庄のメディアを巻き込んだパフォーマンスが一連の新庄劇場を形成。札幌ドームへの入場者数は記録破りとなり、不景気どん底であえぐ北海道民の士気を大いに盛り上げていくどころか、新庄劇場は全国的な現象となっていく。そしてこの勢いに乗じて日本ハムはリーグ優勝を遂げ日本シリーズ進出。果ては24年ぶりの日本一を勝ち取ってしまったのだ。


 

敵チームのキャッチャーがバッターに球種を教えた! 

新庄劇場にいかにメディア、そして日本国民が踊らされていたかを象徴するエピソードは日本シリーズ最終戦(第五戦)の出来事だ。場所は札幌ドーム。この時点で日本ハムは三勝一敗。優勝まではあと一勝のところに来ていた。八回裏、2点リードで日ハムの稲葉篤紀がホームランを打ち、日ハムは3-0とダメ押しをする。そして次のバッターが新庄だった。しかし、このまま勝ってしまえば、当然のことながらこの打席は新庄にとって選手としては最後の打席となる。そのことを観客、そして実況も知っており、もはや打席は日本シリーズなどそっちのけ、新庄引退へむけた最終打席という意味合いの方が遙かに勝っていた。これは新庄も承知しており、感極まって涙が止まらずボールが見えない状態に。

その時、対戦相手のキャッチャー、中日の谷繁元信捕手が新庄に思わず一言つぶやいた。

 

  「泣くな、まっすぐでいくから」

 

そして代わったピッチャーの中里篤史はすべて直球を投げ、新庄は三球三振に倒れる。すると、球場は総立ちで新庄にスタンディング・オーべーション。単なる三振が、このシリーズ最大の見所となってしまったのだ。この話は、しばしば感動の場面としてメディアでも取り上げられた。新庄というカリスマに日本中が酔ったのだ。

しかし冷静に考えてみれば、これはとんでもない状況、野球のルールを逸脱した「厳罰もの」である。問題は中日捕手の谷繁である。対戦相手の捕手が敵チームのバッターに球種を教える、しかもすべてというのは、八百長とよばれても仕方がない行為。しかも、得点差は三点。中日ドラゴンズはまだ9回の攻撃を控えており、逆転の可能性も十分考えられる。つまり、この時点でまだ日本シリーズの決着は付いていない。谷繁の行為は、まるでオール・スターやエキシビジョン・ゲーム、消化試合での引退選手の最終打席のような感覚といわねばならない。新庄が三球三振したからよいものの、本来ならばそれでも処罰もの。万が一、ここで新庄がホームランを打っていたら大変なことになったはずだ。


 

日本人全員をペテンにかけた新庄、ただし……

ところが、である。なんとこの谷繁の行為に非難は全く浴びせられなかった。マス・メディアにいたっては美談として紹介しさえした。そして、なぜかプロ野球機構もこのことを咎めたりしなかったし、中日の落合博満監督が谷繁の責任を問うこともしなかった。こう考えると、もしこれで新庄がホームランを打っていたとしても、やはり一切責任問題はなかっただろう。いやむしろ、それは三球三振以上に「すばらしい」こととして国民全体が感動を持って受け入れたに違いない。ある意味、日本国民全員が「空気を読んだ」のである。そう、みんなおかしくなってしまっていたのだ。

もう、このワクワクドキドキのお祭り騒ぎの中、この雰囲気に水を差すようなことなど出来ないし、する者さえいなくなるという状況が作られていた。この時、われわれは新庄のマジックに完全に洗脳されていた。メディアはもちろん、観客も、そして相手チームの頭脳であるキャッチャー谷繁も、さらには監督の落合まで。いや日本国民すべてが。国民全員をペテンにかける暴挙(ただし「ペテンにかけられて、全員が大満足」というそれ)を新庄はたった一人でやって見せたのだ。ここに来て新庄劇場は頂点に達する。

9回表の攻撃は、もはや中日の消化試合と化していた。日本シリーズの雰囲気などなく、「さっさと試合を終えろ!」というムードが球場、中継、そして日本全国に溢れ、もはや中日選手はやることなどなくなっていた。そのことを当の中日選手までが認識している状態。繰り返すが、得点差はまだ三点。逆転の可能性は十分にあるはずなのに。そして九回表は、「お約束通り」三人で攻撃は終了(中日の選手には全く戦意が感じられなかった)。晴れて日本ハムファイターズは日本一となったのだ。

 

優勝の瞬間、真っ先に胴上げされたのは日ハム監督のトレイ・ヒルマンではなく、新庄その人であった。これら新庄劇場、冷静な眼で見ればどうみても常軌を逸している。この試合は「日本一決定戦」ではなく「新庄引退セレモニー」になっていた。にもかかわらず、この時、これら一連の事態が日本人のわれわれにとっては「あたりまえ」に見えてしまったのだ。これぞ、現実歪曲フィールド。新庄剛志の面目躍如たる瞬間だった。 


 

もう始まっている現実歪曲フィールド

それから15年が経過した。そしてまた現実歪曲フィールド=新庄劇場が始まろうとしている?

 

いや、実はもう始まっていることにお気づきだろうか。昨年十二月のプロ野球12球団合同トライアウト、そして九月あたりからのインターネットを介した、新庄によるあやしいほのめかし。本人は監督就任とすら言わなかったが、それを臭わす情報を流し、これにメディアが飛びつく。そして、2006年にはまだ未発達だったSNSのユーザーが勝手に情報をバイラルする。知らないうちにわれわれは「時期、日ハム監督は新庄」ということになっていた。そして昨日(29日)の球団による発表。「待ってました!」「キターッ!」と、ここでもワクワクが爆発する。

もうおわかりだろう、ここ数日、新庄が情報を小出しにし、周囲が騒ぎ立てることで現実が歪曲され始めていることを。監督就任発表当日の各局報道は実に興味深いものだった。ワイドショー(『ひるおび』等)に至っては徹底的に新庄の特集を組んでいた(この時点でまだ球団からの発表はない)。そして2時過ぎの発表。各ニュースは一斉にそのことを伝えたのだが、この時のアナウンサーやコメンテーターの態度が、例によってもはや「おかしく」なっていた。ワクワクしてしまっているのだ。「あの人がやってもどうですかねぇ」的なコメントがほとんどない。メディア全体が浮き足立ってしまっている。そして実に楽しそう。そう、今回、われわれは、もうとっくにワクワクの中に巻き込まれてしまっているのだ。明日(10月31日)の朝の報道場組「サンデーモーニング」のスポーツコーナーに是非、注目してほしい。辛口コメント、「渇!」で有名な張本勲がどんなコメントをするかを。張本もまた、ワクワクしているはずだ。

 

新庄劇場、とっくに幕が開いている。

 

 

未来を構築する方法は?

もうひとつ、スティーブ・ジョブズの言葉を取りあげてみたい(こちらはジョブズ本人による発言)。ジョブズはマーケティングが嫌いだった。「マーケティングは過去の情報を統計的に集めるだけで、新しいものを生み出さないから意味がない」というのがその理由だ。だからジョブズが世に問うたMac、iPod、iPhone、iPadはマーケティングの産物ではない。そして現在、われわれはこれを必携のメディアとして利用している。つまり歪曲フィールドが現実化しているのだ。では、どうやって魅力ある商品を世に問うたのか。それが次の言葉だ。

 

「未来を予測することなど、簡単なことさ。自分で作ってしまえばよいのだから!」

 

そして、それを実行した。

 

もうお解りだろう。新庄もこれと同じであることが。新庄は常識などには囚われない(ただし、ジョブズ同様、緻密な計算は怠らないが)。2006年、自ら一般には思いつかないようなビジョンを描き、これを現実歪曲フィールドに乗せることで世界をワクワクさせる、つまり人を巻き込み、結果として日ハム日本一という、あり得ないことを実現した。そして、今回、また同じことを始めている。この三つ目の能力こそが新庄なのだ。これに比べればパフォーマンス能力、技術・理論能力など、大したものではない(繰り返すが、もちろん現実歪曲フィールドはこの二つがあるから可動するものでもある)。

 

さあ、新庄劇場、お祭りの始まりだ。

 

 

該当なし:2006

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いつまで経っても小室夫妻(圭さん、眞子さん)に対するバッシングが終わらない。お二人の結婚について、一般はおおむね祝福しているのだろうが、ことSNSへの書き込みについては、必ずしもそうなってはいないのだ。これは「SNSのコメントの多くが批判的なものになる」という一般的な傾向に基づいている(ご存じのように、こうした傾向を鑑み、BLOGOSはコメント欄を廃止し、コメントは実名を旨とするfacebook等に委ねた。残念ながら、こちらでもいまだに批判・中傷的なものが多いが)。そして、これをマスメディアがことさらに取りあげることで、事態がややこしくなってくると言う「いつもの図式」(メディア論では、これを「メディア・イベント」呼ぶ)が繰り広げられている。

 

そこで、このバッシングの構造をメディア論的に考えてみたい。今回は、学術用語ではないが最近バズった「親ガチャ」をキーワードに展開してみたよう。で、前もって結論を言っておけば「お二方は、親ガチャでいろいろと苦しめられた」ということになる。

 

物語の最小単位

まず、小室圭さん、眞子様の物語を、何ら文脈を挟まない、最も単純なかたちで確認してみよう。

 

「大学時代に知りあった二人が愛を育み、そして結婚に至った」

 

これだけだ。まあ、一般的にはこうした状況では周囲は「おめでとう」と祝福する。

 

しかし、小室夫妻の場合は、そうはならなかった。これに様々な尾ヒレ=文脈が加えられたからだ。そして、この尾ヒレは多方面の「親ガチャ」から生まれたものだ。

 

 

「親ガチャ」とは

「親ガチャ」とは、要するに「子は親を選べない」ことを指している。だが、このことばが用いられる際には、常にネガティブな意味合いが加えられる。「現在、自分がのこのような不運な状況にあるのは親ガチャによる」という使われ方がそれで、これは「運の悪い星の下に生まれてしまった」「もっとよい親の下(資産家であるとか、社会的に高いステイタスにあるとか)に生まれていれば、自分はもっと幸せであった」という嘆きでもある。

 

そして夫妻へのバッシングは「自分自身(SNSのカキコ=誹謗中傷者)が親ガチャであることについての妬み」から生じている。

 

圭さん:親ガチャ克服者への妬み

先ず圭さん。母親一人に育てられたということでは親ガチャとして自らを嘆く立ち位置にあるはずだ。ところが圭さんはICUに入学し、眞子様と出会う。婚約の宣言直後、母親のスキャンダルが報道されると法律の勉強のためニューヨークへ。さらに現地の法律事務所に就職、ニューヨーク州弁護士会の論文コンテストでも優勝を果たした。母親のスキャンダルを除けば、まあ順風満帆な人生だ。

 

こうした経歴はステップアップ、いわば「親ガチャを乗り越えた」ことになるのだが、親ガチャルサンチマン派はそのようには捉えない。自分はそのままなのに、圭さんは先に進んでいった。そこで「自分だけ、うまいことやりやがって」と妬みが生じるのだ。努力しない人間がコンプレックスを拭う典型的な方法は、自分より上に行ったものを叩くことだが、そうすることで「オマエも親ガチャだろ、ふざけんな」ということになる。そこで、小室さんを親ガチャ状態に引き戻すために母親の疑惑が次々と批判されることになった。

しかし、民主主義の立場からすればこの誹謗中傷は矛盾している。民主主義は個人主義でもあり、人権尊重は憲法でも明確に謳われている。この視点からすれば母親は母親、子どもは子どもである。親が殺人者であったとしても子どもがバッシングを受ける理由は法律的にも道義的にもどこにもない。ところが「母親の疑惑」という尾ヒレに基づいて、親ガチャルサンチマンたちによる小室さんバッシングが始まるのである。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という状況なわけで、挙げ句の果てには皇室利用疑惑という根拠のないデマまで流れる始末。

 

眞子さん:「逆親ガチャを利用しておいしい汁をすすっているのに、好き勝手なことをやっている」という妬み

眞子様(「様」と「さん」を皇室であるか否かで使い分けています)は皇族としてお生まれになり、御所でお育ちになり、成人後は皇室典範に基づいて精力的に公務をこなされてこられた。皇室なので、当然、一般人とは良きにつけ悪しきにつけ別の扱いを受けてきた。

 

ところが、圭さんと恋仲になり、皇籍離脱ということに。現状では女系天皇が現実的ではないという皇室の慣習(実際には存在するが)なので、皇室の女性は一般人と結婚し、民間人となるケースはごく普通だ。たとえば令和天皇の妹である紀宮様は2003年、都職員の黒田慶樹さんと結婚し、自らも民間人黒田清子となった(挙式し、記者会見も実施。皇室離脱の際に支給される一時金も受け取っている)。ということは眞子様も紀宮様=清子さんと同じ扱いを受けるのが筋である。

 

ところが、そうはならなかった。その理由は二つ。

一つは、前述したお相手の圭さんの母親疑惑。この尾ヒレで、やはり「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の図式が展開された。「小室母=憎い→小室圭=憎い→眞子様=憎い」というわかりやすい三段式親ガチャルサンチマン図式がそれだ。坊さんが運転するバイクまで憎いといった展開か?(笑)

この尾ヒレにもう一つの親ガチャ理由が加わる。これは、いわば「逆親ガチャ」(こんな言葉はないけれど)だ。

 

「眞子様は皇族。われわれの手の届かないような高尚な地位におられる方。それが、地位を投げ捨てて、勝手なことをやりはじめた。無責任、許せない」

 

こう言ってしまう心性は、この「地位の投げ捨て」が責任放棄であるという解釈に基づいている。つまり「高尚な地位を私的に流用している」との認識だ。そこで「辞めるんなら、税金返せ!」となる。

 

しかしよく考えてみて欲しい。眞子さんの一連の行動は、他の皇籍離脱した人間と全く代わるところはないということを。この批判の図式を是とするならば、これまで離脱した人は清子さんを含めて全員が税金を返納しなければならない。もちろん一時金などを受け取ることももってのほかということになる。挙式も無しである。

 

親ガチャ(逆親ガチャ)を乗り越える

冷静に状況を考慮すれば、一般からは眞子様が「逆親ガチャ」(ものすごくよい星の下に生まれた)に見えたとしても、眞子様当人にとってはむしろ「親ガチャ」(不幸な星の下に生まれた)だったはずだ。つまり皇籍に属しているということが、却って自らの行動範囲を極端に制限することになった。眞子様が名前の由来「自然に飾ることなくありのままに人生を歩む」で生きていこうとするならば、この皇室という親ガチャ(逆親ガチャ)は克服すべきものだったはずだ。(ここからはちょっと憶測になるが)だから眞子様は学習院ではなくICU、そして圭さんを選択した。だから、今回もこうした記者会見をすることで、また一時金も拒否することで決着を図ろうとしたのではないか?(あくまで「憶測」ですが)。

 

三十年間皇室で皇室典範に基づき、自由を拘束される中で公務をこなされてきたわけで(だから、いわば「退職金」として一時金を受け取る正当な理由もある)、ありのままに人生を歩もうとするのならば、彼女の選択は間違っていない。そして眞子様から小室眞子さんになることによって、彼女は皇室典範ではなく日本国憲法によって守られることになる。晴れて民主主義の一構成員となったのだ(名字も、パスポートも、年金手帳も持てるようになった)。眞子さんは親ガチャ(逆親ガチャ)だから、芸能人のように自ら好んで有名人になっているのではない。言い換えれば「おいしい汁」をすすろうとしていたのではない。ここは一般の芸能人とは大きく異なる。そのことについて、十分な配慮が必要だろう。だから、マスメディアは今後、眞子さんに関わってはいけない。黒田清子さんに対する対応の仕方とまったく同じであるべきであるのは、一般市民への配慮として当然の義務だろう。ここは民主主義国家、そして眞子さん(そして圭さんも)一日本国民に過ぎないのだから。

 

もう一つの物語:本来ならばハッピーエンドのストーリー

ちなみに、今回の一連の出来事は文脈を変えれば全く別の解釈も可能になる。王室の中で自由がなく、そこから逃れたいと思っていたときに素敵な恋人が出現し、全てをかなぐり捨てて相手と添い遂げると言った話はハリウッド映画の中の定番としていくらでもあるわけで(「ローマの休日」(かなぐり捨てたわけではないが)「グレース・オブ・モナコ」(これは逆だけど)なんかはその典型だ)。欧米では、今回の件はむしろこちらの文脈で好意的に捉えられることも多いらしい。

 

小室夫妻のように、誹謗中傷者は、先ず自らの親ガチャを克服せよ

いずれにしても、小室夫妻の件は個人の問題ではなく親ガチャ(小室夫妻と誹謗中傷者双方にあった)のせいだったのだ。そして夫妻は親ガチャを克服した。これで、もういいはずだ(もっともニューヨークまでマスメディアが追いかけてきそうだが……)。

 

お二人にはなむけの言葉を贈りたい。

 

民主主義国家の一員として、ご結婚を祝福申し上げます。そして、親ガチャルサンチマン連中から逃れられるニューヨークでの穏やかな生活をお祈りしています。

 

一方、二人を批判する人々には「逆はなむけ」の言葉を贈ろう。

 

「ご夫妻のように、早く親ガチャルサンチマンを克服できるよう、精進してください。みっともないですよ。」

 

 

 

順調に店舗を拡大する中華食堂・日高屋

最近、首都圏でチェーン店の街中華食堂・日高屋をあちこちで見かける。2002年六本木で1号店を開店以来、日高屋は順調に店舗数を拡大してきた。特徴は様々な世代の客層が時刻とともに入れ替わりでやってくるところにある。昼間はお年寄り、夕方はサラリーマン、その後は仲間や家族が。一人でやってくる女性も多い。しかし、なぜ様々な世代の客が訪れるのだろうか。

 

 

「近さ」が作る集客力、そして「短さ」と「安さ」

日高屋の戦略、それは徹底的に「近さ」を追求しているところにある。事実、日高屋は駅近に位置している。店舗数は現在、大都市圏限定(東京とその周辺)で400店舗を突破。それゆえ、必然的に「駅から近い」。だが、それは「家から近い」ということでもある。だから、お昼にはお年寄りがコミュニケーションの場所として、また夕方には一人者のサラリーマンが帰宅途中の夕食会場として、さらに夜には夫婦や仲間がチョイ呑み+食事処として身近に利用するようになる。日高屋は「あなたの街の駅前の、歩いて行ける街中華兼なーんちゃって居酒屋」なのだ。

 

「近さ」は心理的な面にも及んでいる。チェーン店ゆえインテリア、味、メニュー、価格は全て統一。味も同じなので、初めての店でも安心して入れる。価格も安い。ビールや酎ハイに至っては260円と爆安だ。帰りには必ず大盛サービス券が配られるのも店への親近感を感じさせる大きな要因だ。この場合、近さは「身近さ」つまり「心理的近さ=親密さ」ということになる。

こうした近さ、実は「短さ」を加速するのにも一役買っている。メニューを手に取ってみて欲しい。実は、あまり品数がない。定食に至ってはたったの七種類だ。さらによく見ると、メニューは食材を組み合わせた物が多い。酒の肴もメンマやチャーシューだったりする。これら食材はすべて工場で生産、加工され、各店舗へ配送されている。それゆえ、店のシェフは半完成品をちょっと調理する、あるいは組み合わせるだけ。これが技術も必要とせず、手早く、つまり短い時間で均一化されたサービスを提供できる仕組みを可能にしている。工場は埼玉県行田に一つのみ。店舗が首都圏の「近距離圏」にしかないゆえ、どこの店舗も工場から迅速に調達できる。これもまた「近さ=距離、つまり時間の短さ」の強みだ。

 

また、店のテーブルは小さい。カウンター席もある。狭いテーブルは「長居はできない」という生理的な要求を人間に突きつける。だから、顧客の滞在時間も短い。それは結果として顧客の回転の速さに繋がっている。駅前なので安価な労働力(学生バイトや留学生)を雇うのも容易だ。彼らは近所のアパートに住んでいるからだ。ここでは近さが調理、客対応、労働者調達の短さに繋がっている。こうしたからくりによって様々な過程を合理化することで、価格の安さと安定した供給、そして安心に反映されていることは言うまでもないだろう。

 

 

日高屋の前途は洋々か?

コロナ禍で外食産業は経営難にあえいでいる。その典型はメディアでしばしライバル視される幸楽苑だ。立地は郊外、しかも全国展開。駐車場も必要なので比較的広い敷地が必要となる。これらがコロナ禍においては極端なマイナスに作用しているのだ。日高屋は関東圏のみ、そして駅前=駅近なので駐車場も必要なく、さほど敷地も必要としない。それゆれ、ある程度難を逃れているのである。

 

現在、赤字転落の日高屋だが、このやり方を続けていけば、生き残ることは間違いない。そしてコロナ後にはさらに発展していくだろう。もちろん、関東圏からエリアをジワジワと広げる「駅近戦略」で。「あなたの駅の日高屋」、この戦略は強い。

恐れていたことが起こった。

 

オリンピック開会式。あまりに酷いその演出に「これでは閉会式はいったい、どうなるんだろう」と戦々恐々としていたのだが、残念ながらこの懸念は的中してしまった。しかも、開会式を凌ぐ悲惨な展開に。

 

 

「田舎の披露宴」状態

閉会式を見ていて二つのことが思い浮かんだ。

一つは田舎の比較的大きな披露宴。宴の上座では新郎新婦の脇で次から次へと演し物が繰り広げられる。定型のスピーチや演舞であったり、歌の披露であったり。ところがこれを列席者のほとんどは気にかけていない。各テーブルはそれぞれが好き勝手に盛り上がっている。つまり統一感がないバラバラな状態。

 

閉会式はまさにこの状態だった。会場に参列したアスリート達のほとんどは、やはり繰り広げられているパフォーマンスに関心がない。中には寝っ転がっていたり、他の選手と撮影したりする者も。もし、前述の披露宴の様子をテレビ中継で見させられたら、先ずわれわれは見ないだろう。これがテレビ視聴者のメンタルと重ねってくる。実際、僕も途中で眠くなってしまった。

 

 

演出は「やおい」と同じ

もう一つは「やおい」という言葉だ。これはアニメや漫画のキャラクターを拝借し二次創作する作品や、二次創作を実践する人々を指す。言葉の語源は「ヤマなし、オチなし、イミなし」。とりあげられるのはボーイズラブで、ひたすら有名どころのキャラクターの濡れ場が続く。それだけなのでヤマがなく、オチもなく、意味もない。

 

閉会式はまさにこの「やおい」の状態だった(やおい系を擁護するためにお断りしておくが、やおい系の人間の場合、これが確信犯的に実践されているという点で一つの美学を構成している。一方、閉会式の場合は文字通りの「やおい」だった。結果としてそうなっただけ。ベタに何の意味もなかったのだ)。何をやっているのかサッパリわからないのだ。あるいは、あったとしても、こちらには届いていない。そこで「やおい」をキーワードに閉会式のダメさ加減をメディア論的に考えてみたい。

 

 

イベントには「テーマ」と「ストーリー」が必要

こうした歴史的イベントを考案する場合、当たり前の話だが、いくつかのルールが存在する。

テーマとストーリーという構成、これに伝統の尊重と継承、未来へ提言といったところを付随させる。オリンピックの場合、さらに国家を横断した連帯や調和といった理念が加味される。ところが今回の閉会式の場合、これらの基本的要素が曖昧、あるいは上手くかみ合っていない、さらに言えばバラバラかつ箇条書き的に並べられているだけなのだ。

 

先ずテーマ。これはいったいなんだったんだろう?垣間見えるのはノスタルジーだ。57年前に開催された東京オリンピックがそれで、だから選手入場では64年開会式のオリンピックマーチ(作:古関裕而)が、また掲示板には、同様に64年に前国立競技場の閉会式の際、映し出されたのと同じフォント、ドットで「ARIGATO」が出現した。ただし、これだけでは中途半端。そもそも、この二つでさえも、アナウンサーが指摘しなければわからないトリビアルな記号でしかない。そして、それ以外のパフォーマンスについてはノスタルジーとはあまり関連がない。つまり、テーマが統一されていない。ガラクタ箱みたいになっているのだ。当然、パフォーマーも役所が孤立しているゆえ、ガラクタの一つに見える。

 

次にストーリー。前半は街を歩く女性やパフォーマー、後半では大竹しのぶと子どもたちが登場。でも、これって全体とどう関係があるんだろうか?開会式のなだき武や真矢みき同様、大竹しのぶが出演することに何の意味があるのか?これまたお断りしておくがこうしたパフォーマーやタレントが登場すること自体が問題なのではない。全体のテーマ、ストーリーの中でどう位置づけられているのかが問題なのだ。だから問題は出演者ではなく演出する側にある。

 

そして、ストーリーには当たり前の話だが了解可能となる一連の流れ=スキーマと、ヤマとなるシーンが必要だ。さらに、これらはオリンピックというイデオロギーとリンクしていなければならない。それは開催都市・国家の伝統、そしてオリンピックの伝統への尊重と、未来に向けたこの伝統の継承と発展。それが結果として世界を一つに結びつける連帯・調和へと繋がっていくというふうに。加えて、このストーリーは開催国の国民のみならず、世界の人々へ向けても発信されていなければならない。この手の演出が、今回の閉会式(開会式もそうだが)ではほとんど功を奏していないのだ(というか、はじめからなかったのかも?)。

 

 

ロサンゼルスオリンピックとロンドンオリンピック閉会式の統一感

これは他の大会の閉会式と比較してみればよくわかる。1984年のロサンゼルスオリンピックでは開会式にロケットマン(グラウンドに空中歩行器で空から人間が降りてきた)が、閉会式には上空にUFOが、ゲートの上にはエイリアンが登場した(エイリアンの登場は「楽しそうだから寄ってみた」という想定)。これはアメリカのテクノロジー、エンターテインメントという文化がオリンピックの精神=インターナショナルと見事に調和した瞬間だった。2012年のロンドンオリンピックも同様で、ヤマ=クライマックスにポールマッカートニーがビートルズソングを熱唱。最後はヘイジュードで会場、スタジアム内、そして視聴者が一体となって唱和し、ビートルズというイギリスの伝統、世界とその未来を結びつけたのだった。そしてこの時、アスリート達は一体となっていた。間違ってもグラウンドで寝っ転がったり、スマホをいじったりしている者などいなかったのだ。

 

 

今回のオリンピックを修正するとすれば

もし、これらの要素を過不足なく詰め込んで、しかも統一性を持たせようとするならば、たとえば次のような展開になるだろう。①まず伝統の継承。これまでのオリンピック、とりわけ1964年の東京オリンピックを回顧する(これは内に向けてはノスタルジーでもある)、②これを踏まえて今回のオリンピックを再定義する、③未来に向けて(そしてより世界が団結、調和するという文脈で)オリンピックの未来、さらには地球の未来を展望する(ここにコロナとの対決図式を入れてもいい)。こんなストーリー展開=スキーマが必要だ。今回の閉会式にこれがないとは言わない。たとえば終盤、大竹しのぶと子どもの登場のところで流されたのは宮澤賢治の「星めぐりの歌」、そしてドビッシーの「月の光」(1972年に冨田勲がシンセサイザーでレコーディングしたもの)だ。地球をはるかにに超えた星に思いを馳せるところに未来、そして大きな宇宙を感じさせようとしたのだろう。ただし、前後関係がよくわからないので何のことやらサッパリわからない。

 

ようするに、前述したように問題は登場人物(タレントやパフォーマー)やそれぞれの演し物それ自体ではなく、これをどう繋いでオリンピック的な世界観とすりあわせ、さらにそこに新しい何かを付け加えるかなのだが、これが残念ながら全くなかった。だからやおい、そしてガラクタ箱になった。

 

 

唯一、閉会式で素晴らしかった演し物は?

いや、閉会式の中で出色のものがひとつだけあった。それは皮肉なことに次回開催都市パリの紹介映像だ。フランス国歌、ラ・マルセイエーズがパリの街の紹介とともに流れるのだが、この映像がパリのランドマークであるエッフェル塔を中心に展開される。演奏者は各パートがパリ市内の有名どころで演奏を繰り広げる(モンマルトルの丘、ルーブル内等)。そして最後には戦闘機が国旗の色であるトリコロールカラーをエッフェル塔の前で描いて見事な統一感を持たせることに成功している。いや、これで終わりかと思ったら、最後は宇宙ステーションからのサキソフォン独奏というオチまでついて。国歌というストーリーと名所の展開、エッフェル塔という主人公の存在、ジェット機のトリコロールというヤマ、宇宙ステーションでのサックス独奏というオチ。これは、リオの閉会式で日本がやったパフォーマンスに匹敵するのでは?

 

いや、そうだろうか?パリは開催国の紹介を至極まっとうにやったに過ぎないのでは?むしろ日本の閉会式があまりに酷かったから、素晴らしく見えただけなのかもしれない。

 

 

誰に向けてパフォーマンスすべきかが見えていない

こうした演出の混乱の主たる原因。それは「誰に向けてメッセージを発信しているかが明確でない」というところにあると僕は考えている。オリンピックの精神に準ずれば、発信先は二つ。一つは世界の人々、もう一つは開催国の人々だ。残念なことに、閉会式はどちらの方向にも十分な発信がなされていない。ストーリーがない、そしてもっぱら身内ネタ的な演出が展開されているので、なにがなんだかわからないのだ。その際たるものが東京音頭で、海外の人々にとっては全くもって意味不明だ(これはロスオリンピックでのライオネル・リッチーによるオールナイトロング、そして前述のポール・マッカートニーによるビートルズ・メドレーと対照をなす)。

ストーリーのなさは、結局日本国民に向けても「これ何なの?」という印象を与えるだけで終わっており、メッセージは伝わっていない(たとえば長野オリンピックの開会式の浅利慶太による演出は完全に日本人に向けられていたもので、これ自体は成功していた。ただし、世界に向けての発信力が極めて弱く(日本人だけがわかる「身内ネタ」)、これまた惨めなというか、見ていて日本人が恥ずかしくなるような演出でもあったのだけれど)。言い換えればこの閉会式は外にも内にもメッセージを発信することが出来ていない。強いて伝えられたメッセージをあげておけば「日本が、JOCがコロナに振り回されて、混乱したことを象徴する」というメタメッセージになる。まあ、これだけは確実に伝わったのだけれど(笑)

 

 

マツケンサンバ待望論

ネット上で開会式、閉会式の演出について、どこともなく不思議なアイデアが提示された。それは「閉会式(あるいは開会式)のトリ=ヤマをマツケンサンバにすべき」というもので、これが瞬く間にネット上にバイラルされたのだけれど、このポピュリズム的なマツケンサンバ待望論は、オリンピックの精神やスタイルをキチッと踏襲したアイデアとしてなかなか説得力がある。これは実際に披露された東京音頭と比較してみても明かだ。

 

そもそもマツケンサンバは80年代後半に放送されていた紳士服のコナカのCMのなかで松平健が披露したあやしいダンスステップやトランペット演奏(実際にはしていない)あたりがヒントになっているという。時代劇の役者がスーツに身を纏い、白人女性をバックにあやしげなステップを踏んだり、ゴージャスな階段から降りてきたりするのだけれど、これがどうにも不気味というか、キモい楽しさで(これ自体は、ある意味完全に「やおい」なのだが、こちらを振り向かさないではいられない魅力を放っていた)、これがそのまま90年代のマツケンサンバへと引き継がれていく。ブレイクするのは2004年のマツケンサンバⅡで、サンバ、キンキラキンの和服(殿様?越後屋?全く不明)、チョンマゲヅラの両脇から出ているキラキラの触角(「しけ」というらしいが昆虫の触角に思える)、これを暴れん坊将軍でまっとうなキャラクターを演じる松平健がマツケンとなってパフォーマンスを繰り広げる。完全なミスマッチも徹底させることで、かえって「キモ気持ちいい」様な状態になって、われわれを魅了した。そして、これは東京音頭のような伝統ではないけれど、日本人国民が馴染んでいる、そして未だにポップで、踊れて、若者でも盛り上がれる曲、言い換えれば「ネオ伝統」になっている。だから、これをトリ=ヤマでやれば視聴者の間で、つまり内=国民に向けて盛り上がることは間違いない。

 

いや、それだけでは終わらないだろう。この妖しさ(怪しさ?)はインターナショナルなものでもあるように僕には思える。というのも、このパフォーマンスとマツケンの身なりはオリエンタリズム、そして現在のテクノ・アニメ大国の日本というステレオタイプとも十分合致するからだ。しかも、これがなぜかブラジルのサンバというかたちで。このパフォーマンスが繰り広げられたら、見た世界の人々が「なんじゃこりゃ?」と注目する可能性は極めて高いのでは。言い換えれば、ここには未来がある。

 

 

ヤマとオチと意味を考えよう!

結局、これはオリンピックのみならず、コロナをめぐる日本の混乱状況を象徴する出来事の一つといっても過言ではないのかもしれない。情報の横溢の中で目的を失い、場当たり的に情報を収集し、それを結果として脈絡なく並べる。それが、こうしたカオスな状況を生み出していく……開会式、閉会式、そしてコロナに対する立ち位置にかかわらず、情報過多な時代の中で僕らに今求められているのは「ヤマは何?オチは何?意味は何?」といったところになるんではなかろうか。開会式、閉会式の混乱。それは、翻って実はあなた自身の混乱、問題、課題であるのかもしれない。

 

 

 

 

物議を醸す白鵬のパフォーマンス

大相撲名古屋場所、全勝同士の白鵬と照ノ富士の優勝決定戦は白鵬が制したが、この取り組みが物議を醸している。問題は、もっぱら白鵬にある。

 

ポイントは

 

・時間いっぱいになったにもかかわらず、なかなか蹲踞の姿勢をとらなかった。

・両者なかなか手をつかず、最終的に照ノ富士が両手をつき、その後、白鵬が右手をつき、さらに左手でチョンと手をつくことで取り組みが開始された。

・立ち会い直後、白鵬は目くらませ的に左手を照ノ富士の顔の前に出し、次いで右腕で豪快にかち上げを行った。

・勝負の後、ガッツポーズを見せた。

 

伝統か?ルールか?

これら白鵬の一連のパフォーマンスについての批判は、専ら「横綱としての品位に欠ける」という点に集中している。最高位としての横綱の伝統的なあるべきかたちは、こうしたスタンドプレーはやらず、むしろ「受けて立つ」という姿勢にある。それこそが相撲という文化であり、横綱の役目であり、美学である。とりわけ、カチ上げについては「あれじゃプロレス、エルボーだ」と非難された(取り組み中継の中で花田虎上(元若乃花)は「いただけない」と批判している)。つまり白鵬のパフォーマンスは伝統に反している。まあ、こんなところだろう。

 

一方、白鵬を擁護する立場もある。「そもそもカチ上げは違反ではない。だから、どこがいけない?本人は膝を庇いながら死に物狂いで頑張っているだけだ」というわけだ。脳科学者の茂木健一郎は白鵬を擁護し、そのパフォーマンスを「バリエーションの問題にすぎない」と一蹴した。茂木は、これも相撲というジャンルの多様性の一つであり、それゆえ伝統に対立するものではないと、主張する。要するに茂木は、こうしたバリエーションが伝統を継続させていく、言い換えれば新しい伝統を作っていくと言いたいのだろう。

 

「伝統かルールか?」、この辺に対立の焦点が当てられているというのが実際のところだろう(ただし、茂木の議論は、これに「文化=伝統とは何か」についての言及が加えられている)。

 

横綱はカチ上げをしてはいけない?

この対立図式、僕にとってはあまり興味深いものではない。「伝統か?ルールか?」という対立では視点がほとんどかみ合っていないからだ。そこで、もう一つ別の視点から(言い換えれば、二つを接合する視点から)白鵬のパフォーマンスについて考察してみたい。誤解を避けるために議論のポイントを一つに絞る。それは「横綱(この場合、白鵬)がカチ上げをする」ことの是非である。

 

僕の結論は「現状では横綱がカチ上げをやるべきではない」これである(ただし条件付でOK。理由は後述)。では、なぜ?それは白鵬が「横綱はカチ上げしてはいけない」とみなしている文化と同じ土俵を利用して、これを行っているからだ。そして、これは結果として取り組み自体をフェアなものではなくしている。つまり「暗黙のルール」に違反している。もっと言うと、このパフォーマンスは自己欺瞞・自己矛盾とすら言える。

 

誰が白鵬にカチ上げをした?

違反=自己欺瞞のメカニズムはシンプルだ。ポイントはたったひとつ「白鵬にカチ上げをやった力士がいない」点だ。相撲という伝統=文化では、前述したように「横綱は横綱らしくしなければならない」という黙契=暗黙のルールが存在する。それを守ることで伝統が維持されるとみなされている。ところが白鵬は「ルール違反でない」という別の論理でこの伝統を破っている(ご存じのように、カチ上げはもはや白鵬にとっては“得意技”のレベルにある)。その一方、対戦相手が白鵬にカチ上げをやるというシーンは、僕の記憶するところではお目にかかったことはない(あったとしても白鵬の方が圧倒的に数が多いので、気がつかないだけなのかもしれないが)。

 

白鵬のカチ上げは相撲の伝統=文化を利用することで成立している

なぜ、他の力士は白鵬にカチ上げをしないのだろう?それは白鵬が格上、しかも最高位の横綱であるからだ。つまり格下力士は「横綱に対してカチ上げをするべきではない」という認識を暗黙裡に前提している。そして、この認識は相撲という文化=伝統に基づいいる。

 

となると、次の図式が成り立つ。白鵬のカチ上げは「下位の者は横綱に対してカチ上げをやるべきでない」という伝統=文化を利用しつつ、白鵬自身は「横綱はカチ上げをやらない」という伝統=文化を破ることで成立している。こうなると、必然的にアドバンテージは白鵬に与えられる。対戦相手が伝統=文化に基づいてカチ上げをしてこないので、結果として白鵬がやりたい放題という「ハンデ戦」になってしまうからだ。こうした制度的側面を踏まえれば、白鵬のカチ上げがフェアではないことがわかる(社会学では、このような行為を「抜け駆け的逸脱」と呼ぶ。つまり”理屈には叶っているが、道理には叶っていない”)。それゆえ、多くの人々が不快を覚えるというわけだ。自らには明示化されたルール(「カチ上げは反則ではない」)を支持して暗黙のルール(「横綱はカチ上げをするような品位のないパフォーマンスをしてはいけない)を否定し、その一方で相手には暗黙のルール(「横綱にカチ上げをしてはいけない」)を適用させる。結果として白鵬は相撲の文化=伝統を利用することでカチ上げという有利な技を手中に収めているのだ。

 

白鵬のカチ上げを正当化するためには

では、白鵬のカチ上げを正当化するためにはどうすべきなのか。それは対戦相手が上下関係にかかわらずフェアな状態を創り出すこと、つまり「カチ上げ」という技による白鵬のアドバンテージをなくすことだ。やり方は二つある。

 

一つは「カチ上げのルール違反化」、つまり禁じ手にすること。これは極めて保守的なやり方ともいえる。

 

もう一つは、その反対で「カチ上げの全面解禁化」だ。つまり、地位の上下にかかわらずカチ上げをやってもいいと明言してしまうこと(暗黙のルールを否定してしまうこと)。これができれば白鵬にカチ上げで挑む下位力士も登場することができる。これは要するに茂木の主張するバリエーションの問題として片付けることができる。つまり、力士全員が手軽にカチ上げするということで相撲のスタイルが変容していく、それが新しい文化=伝統を作り上げていく。「やられたらやり返す、しかも倍返しだ!」的なバトルが繰り広げられることになるわけで、面白いかもしれない。照ノ富士も来場所、白鵬にカチ上げをやってみてはいかがだろうか?

 

さあ、みんなで白鵬にカチ上げしよう!って、収拾がつかなくなるかも?(笑)なんのことはない、これは相撲のプロレス化ということになるんだろう。まあ、それも新しい文化ということになるのだろうが。もっとも相撲はプロレスと違ってガチンコなので、ケガ人が絶えないという結果を生むことも容易に予想は可能だが……

 

というわけで、白鵬のカチ上げ、現状ではアウトなのだ!

一部に引き続き「半沢直樹」第二部が好調だ。もっとも今回は、その仕立てが一部とは少々異なっている。しかも、この違いは一部を踏まえており(設定や主要配役のキャラクターが視聴者に認知されていることが前提にドラマが展開している)、それが人気に繋がっている。そこで、今回は第二部の魅力についてメディア論的に分析してみよう。キーワードは「悪役」と「歌舞伎」だ。

 

 

「世界」と「趣向」

 

歌舞伎では作品の構成は「世界」と「趣向」に分類される。「世界」は作品の型=設定・世界観やストーリー、言い換えれば作品が何を伝えようとしているか、つまりWhatに焦点を当てるマクロな側面。一方、「趣向」はその世界=設定の中で、作品がどのようにアレンジされるのか、役者がどのように演じるか、つまりHowに焦点を当てるミクロな側面だ。「半沢」第二部においては後者=趣向(とりわけ役者の側面)が突出しており(第一部には「大和田への復讐」というマクロなテーマが設定されていた)、それが視聴者に見ずにはいられなくさせることに成功している(逆に「世界」の側面については第一部よりも固定化されている)。

 

「半沢直樹」のストーリーは実に荒唐無稽という表現がしっくりくる。実際の銀行業務においては、あのような状況が発生することはない。つまり、プロパーの側からすれば「ありえない世界」。だが、ファンタジーと考えれば「面白ければナンデモアリ」なので、何ら問題はない。言い換えれば「法律的に見れば半沢の行為はダメである」というような批判こそ、逆に「荒唐無稽な物言い」となる。そして、ポイントは、当然ながらこの荒唐無稽な世界にどのような趣向が凝らされるかにある。

 

それでは第二部での「趣向」の醍醐味を他の作品群=ジャンルとの比較によって段階的に考えてみよう。

 

 

 

「水戸黄門」における世界と趣向

 

先ずはじめに「半沢」同様、荒唐無稽な世界=設定が明確に設定されていて、それでいて「半沢」より劣る、いわば「否定すべき作品=悪役」として「水戸黄門」を取り上げてみよう。ご存じのように、この作品は黄門様一行が各地を漫遊し、その都度、訪れた場所で発生した事件を解決してみせるという展開。悪役は代官や悪徳商人(その典型は越後屋)で、被害者は庶民。この一連の事件が40分ほどの放送時間内で解決する。ストーリーはワンパターンで、世界=設定は固定されている。つまり善と悪が明確に区別され、両者の間に黄門様一行が介入していくのだが、この時、趣向、つまり水戸黄門世界を魅力的に見せる役割はもっぱら黄門様一行に委ねられている。言い換えれば悪役と庶民はワンパターンで個性がなく、こうした安定した世界=設定の中で一行が様々な展開を見せる点=趣向に魅力がある。

 

こうした、安定した「世界」は、テレビ番組に対するメディア・リテラシーがまだ低かった時代には視聴者のニーズに十分耐えうるものだった。だが、TV以外の娯楽メディア、とりわけインターネットが視聴者の思考様式を多様化・相対化して視聴者のコンテンツに対するメディア・リテラシーを引き上げた結果、こうした展開=趣向は次第に「単なるワンパターン」にしか思えなくなっていく。そして、それが「水戸黄門」の失墜をもたらすこととなった。

 

 

ディズニーにおけるヴィランズ(=悪役)の個性化

 

こうした世界=設定を維持しながらも趣向を一歩前進させているのがディズニー作品群、とりわけプリンセス物だ。「水戸黄門」同様、その世界は荒唐無稽だ。基本パターンはプリンセスがヴィランズ(ディズニーでは悪役はヴィランズと呼ばれる)によって苦境に追い込まれるが、最終的にはプリンスがやって来てヴィランズを滅ぼし一件落着となる。その基本解決方法は「真実のキス」に基づいている(ただし現在、世界=設定にはジェンダーやレイシズム問題を踏まえてアレンジが施されるようになっている)。

 

要は「水戸黄門」の悪役=ディズニーのヴィランズという図式になるのだが、事情は少々異なっている。視聴者の誰もが、これが悪役=ヴィランズであると容易に判るのは水戸黄門と同様だが、ディズニー作品の場合、ヴィランズに個性が付与されるのだ。これはわれわれが水戸黄門の作品群を思い浮かべる際、似通っているために、個々の悪役を思い返すことが難しいことを踏まえるとコントラストが明瞭になる(言い換えれば、悪役は「悪代官」と「悪徳商人」という普通名詞に集約されてしまう)。一方、ディズニーの場合、女王、マレフィセント、アースラ、ガストン、ジャファー、スカー、フロロー、ゴーデルといったヴィランを思い浮かべることは容易だ。悪役にもスターとしてのキャラクターが付与されているのだ(事実、ヴィランズはディズニーランドの人気者でもある)。だから、オーディエンスとしては「今度はどんなヴィランが登場し、どんな悪行を展開するのか?」に関心が向かう。

 

 

歌舞伎における役者の個性化=趣向を楽しむ

 

歌舞伎の場合、さらに「この役柄を誰がどのように演じるのか」に観客の関心が加わっていく。言い換えれば世界=演目の物語に対して趣向=役に対する役者のパフォーマンスという区分がある。そして観客は、実は物語のことなどとっくに熟知しているので、関心はむしろ趣向に向かうのだ。だから称賛として「成田屋!」「音羽屋!」という役者の屋号が観客席から投げかけられる。もちろん、これは役者個人のパフォーマンスに向けられたものだ。

 

 

趣向重視が功を奏した「半沢」第二部

 

「半沢直樹」第二部も、視聴者の関心はもっぱら悪役にある。しかも、水戸黄門ではなくディズニーのヴィランズ的な個性あるキャラクターにその焦点が向けられる。どれだけ悪行の限りを繰り返し、そして、最後にはどうやって半沢に叩き潰されるのか。だから、実は「やられたらやり返す、しかも倍返しだ!」という半沢のセリフは、実は倍返しではなく、ただの仕返しにすぎない。「倍返し」に思えるのは、悪役が思いっきり悪行の限りを尽くし、半沢に向かって悪態をつきまくるからだ。いわば「悪ければ悪いほど、この悪役が倒されたときには究極の仕返し=倍返し」に見えるという趣向なのだ。個性ある悪役に視聴者はネガティブな意味での感情移入(つまり「憎たらしいヤツ」)を行う。だからこれが、いわば「成敗」された瞬間、カタルシスを覚えないではいられない。憎たらしければ憎たらしいほど悪役=ヴィランとしての魅力は高まる。

 

ただし「半沢」はディズニーよりも、もう一歩先を行く。それが歌舞伎役者に期待される「役割に対する役者の趣向=パフォーマンス」に他ならない。水戸黄門の悪代官・越後屋的な定型に、ディズニーヴィランズ的キャラクターを配置した役割を割り振られた役者たちが、これをどう演じるのか。最終的に、最も関心が向かうのはここになる。とりわけ第二部がそうだ。だから、二部の主役は半沢というよりも、むしろ悪役なのだ(二部の半沢=堺雅人の役割は刑事コロンボや古畑任三郎に近く、悪役を引き立てる役所になっている。半沢が悪役をもり立てる決め顔は、言うまでもなく、追い詰められたときの「苦虫を噛みつぶしたような表情」だ)。だから、ここで視聴者は悪役たちが見事に「悪」を決めて見せたとき、思わず「成田屋!」「音羽屋!」的な声を心の中でかけたくなるのだ(そしてこれはSNS上で実際に繰り広げられている)。

 

ネット上で話題になっている台詞を取り上げてみると、これはよくわかる。大和田暁役=香川照之の「お・し・ま・いdeath」「施されたら施し返す、恩返しです」(「やられたらやり返す、しかも倍返しだ」と対)「詫びろ、詫びろ、詫びろ」「銀行沈没」、伊佐山泰二役=市川猿之助の「土下座野郎」「オマエの、負けぇーっ!」、黒崎駿一役=片岡愛之助の「あ~ら直樹、お久しぶりね。ここでも随分と『おいた』しているんじゃないの?」(オネエ言葉)と、盛り上がっているのはもっぱら悪役たちの台詞なのだ。しかも、ものすごいイントネーション、形相、つまり極端な「わざとらしい」演技で。そして、ここには役者たちのアドリブもふんだんに盛り込まれている。ということは……これって歌舞伎のそれ以外の何物でもない(実際、歌舞伎役者が登場するのは「何をか言わんや」でもある)。その他、悪役を演じた南野陽子や江口のりこの憎たらしい演技もやはり話題となった。

 

 

やりたい放題をはじめた悪役たちの痛快さを楽しむ

 

これがまだ視聴者のメディア・リテラシーが未熟なかつてであったならば役割=役者本人の性格とみなされるのがもっぱらだったので、こんな酷い悪役を任されたらイメージが固定してしまい、仕事がもう来ない恐れもあった。だが、今や時代が違う。現代の視聴者は「役割」と演じる「役者の人格」を明確に区別している。だから視聴者は、役者の趣向に注目する。それゆえ、こうした悪役を役者たちは快く引き受けているのだ。「どれだけ憎らしい、どれだけ倒してやりたい、つまり、どれだけ倍返しにみせるように演技するか?」、役者たちはここに演技を集中する。とりわけ香川照之などは完全に「やりたい放題」の状態。第一部で視聴者は大和田=香川のキャラクターを熟知しているので、よい意味で香川はそれを十分知りつつ、さらにこれをデフォルメしていく。その奔放さに視聴者は憎らしさを爆発させるとともに狂喜する。しかもこれを「香川照之」という役者が嬉々として演じていることも十分承知していて、だから憎らしいと思うと同時に「今度は、香川=大和田はどんなふうに悪態をついてくれるだろうか?」とワクワクしながら次の台詞と演技を待ちわびるのだ(ちなみに、これと同様の図式が黒崎=片岡愛之助にも該当する。片岡は第一部で注目を浴びその後TVやCMに引っ張りだことなったが、今や視聴者は片岡が半沢の中で「オネエ」を演じていることを熟知している。だから「今度の片岡=黒崎オネエはどんなふうに半沢に『逆おいた』をするのかな?」となる)。そして、演技はますます極端で仰々しくなっていくのだが……これは要するにデフォルメと省略を基調とする歌舞伎のスタイルにどんどんと近づいていくことに他ならない。

 

実際、ソーシャルメディアをチェックしてみると「半沢直樹」に関する話題は、もっぱら悪役たちの演技に向けられている。言い換えると(繰り返しになるが)半沢は悪役たちを引き出すメディア的な役割に今回は引き下がっているようにも見える。さながら「ドラえもん」という作品の主人公が、実は野比のび太であるように。そう、今回の「半沢直樹」、その主人公は悪役たちなのだ(ということは、ここで悪役を演じた役者たちは、その評価によって第一部の片岡愛之助同様、仕事のオファーがどっとやってくることになるだろう。さしあたり江口のりこあたりが起用される可能性大と見た)。

 

 

半沢直樹は現代版の歌舞伎

 

第二部はある意味で一話完結的な側面が強い。第四回以降、毎回悪役が殲滅されている。この辺は水戸黄門的な展開で、視聴者としても単純で判りやすい。ただし、制作側はこれだけでは飽き足らず、今回はこれに変奏を加えている。しかも、その典型例が、これまた大和田=香川の役回りだ。大和田は半沢の天敵だが伊佐山打倒の際に二人は共闘している。しかも、互いの憎しみはそのままに。また第七回の際も大和田は江口のりこ演じる白井政務次官打倒にも加担している。そう、大和田は敵なのか味方なのか判らない。これは段田安則演じる紀本平八も同様だ。こうした狂言交わし的でミステリアスな存在が、ややもすると一本調子に陥る恐れのある世界=設定=物語にスパイスを加え、第一部からの半沢ファンを混乱に陥れることで、却って魅力を牽引することに一役買っている。

 

こうなると、もはや「半沢直樹」は完全に歌舞伎と言っても過言ではないだろう。もちろん現代版のそれとして。いっそのこと、これを歌舞伎にしてみたらどうだろう?大ウケまちがいなしだと思うのだけれど(笑)

 

さて、今週もこの「究極荒唐無稽歌舞伎悪役ドラマ」を楽しむこととしよう。

 

 

 

 

不倫は文化だ

いわゆる「文春砲」によって複数の不倫を暴露されてしまったお笑いユニット・アンジャッシュの渡部建。それにしても、なぜここまで渡部はバッシングされなければならないのか。今回はこれをメディア論的視点から考えてみたい。

 

まず、前提を考えてみよう。不倫自体は「文化」である。石田純一が思わず口を滑らした有名なセリフだが、婚姻という制度・文化があるからには必然的に不倫も文化として存在する。それゆえ、あちこちに不倫は発生している。
 

さて、もしあなたが不倫してそれが相手にバレたらどうなるだろうか。不倫するということは、当然伴侶(妻・夫)が存在するわけで、夫婦間には当然大きなトラブルが発生する。しかし問題が波及するのはその周辺までだ。それ以外の人間にとっては「他人事」でしかない。

 

 

スキャンダルとしての不倫

一方、芸能人となる状況は違ってくる。

オーディエンスはメディアに頻繁に露出する人間・とりわけ芸能人をイメージとして捉えらえている。優しい人、賢い人、セクシーな人、面白い人、強面な人……。こうしたイメージをいわば役割として演じているわけだ。これによって芸能人は支持を取り付け、社会的地位や富を獲得する。だが、それは実際の自分とは異なっているということでもある。

 

物語タイプ

かつての俳優パターンで説明してみよう。典型的な人物は田村正和である。田村にはその代表的な役に眠狂四郎や古畑任三郎がある。田村はドラマの中でこれらの役割に集中する。その一方、私生活はまったくといってよいほど明らかにしない。つまり田村は実際の”田村”と俳優=役割としての「田村」を明確に区別している。それゆえ、我々が知りうるのは当然後者、つまりイメージとしての「田村正和」である。

 

このような区分が明確に敷かれている場合、”田村”が私生活においてどのような存在であろうとあまり問題にはならない。たとえば”田村”が不倫しようとも、今回の渡部ほど大騒ぎになることはない。オーディエンスと田村の間にある種のコンプライアンス(正確な定義は「法令遵守」だが、ここでは一般に用いられる「暗黙の約束を守る」という意味でご理解いただきたい)が存在するからだ。つまり、田村は私生活を見せないことで「役者ですので演技をみてください。プライベートは関係ありません」というメッセージを発し、一方オーディエンスの方も「「田村正和」、つまり眠狂四郎や古畑任三郎を演じている田村にのみ関心を持ちます」という”暗黙の了解”が成立している。こうした、「役者としての存在(=イメージ)のみに注目を寄せさせる芸能人」を物語タイプと呼ぶ。このタイプで、一般に役割と本人は別の存在として認識される。

 

パーソナリティタイプ

一方、タレントと呼ばれる芸能人はこれとは異なる。彼らもまたイメージを売り物にしているが、このイメージは本人の人格とリンクしている。仮にこれを田村にあてはめれば「田村正和という人物の人格は眠狂四郎・古畑任三郎」、すなわち”田村”=「田村」ということになる。「田村」というイメージは”田村”という担保によって保証されていることになる(もちろん、実際はそうではない)。この場合、田村は二つの田村を同一のものとすることがオーディエンスに向けてのコンプライアンスの課題となる。こうした「芸能人としての存在(=イメージ)と人格を統合させる芸能人」をパーソナリティタイプと呼ぶことにしよう。

 

 

オーディエンスとのコンプライアンス怠った渡部

渡部は典型的なパーソナリティタイプだ。お笑いユニット・アンジャッシュのメンバーとして芸界にデビューしたものの、ここ数年でのブレイクはむしろバラエティタレントとしての活動による。グルメ、映画、高校野球、料理などの蘊蓄を披露し「賢い、フェミニン(女性と男性性のバランスが取れている)」なイメージを獲得、2017年佐々木希との結婚後には「家庭重視」のイメージもオーディエンスに抱かれるようになった。パーソナリティタイプの芸能人ゆえ、オーディエンスは当然”渡部”=「渡部」と認識していた。

 

ところが今回の不倫騒ぎで、この設定が完全に崩壊してしまった。不倫は”渡部”がやったこと。しかし”渡部”=「渡部」とオーディエンスは認識している。ようするに、これは渡部はコンプライアンス違反をしたわけで、オーディエンスからすれば「裏切られた」ということになる。

 

怒りに駆られたオーディエンスは、こうなると新たな”渡部”=不倫する渡部にもとづきながら、別のイメージを反動的に形成するようになる。「渡部は我々をずっと騙し続けていたのだ。奧さんの佐々木希も含めて」。こうした認識に基づくことで、今度は「賢い」は「ずる賢い」、「フェミニン」は「ジェンダー的に中立な立場を装いながら、女性を陵辱し続ける野獣」に変化する(ちなみに、これも新たに形成されたイメージであることをお断りしておく)。とりわけ、これまで獲得していた女性からの支持は完全に失われてしまったわけで、もはや女性を意識した番組に出演することは不可能だろう。ポジティブなイメージがすべてネガティブなイメージによって読み替えられてしまったのだから。つまり、渡部が蘊蓄を語れば「人を騙そうとして企んでいる」、女性にエールを送るような発言をすれば「アンタになんか騙されないよ」というのがオーディエンスの基本的立ち位置となる。

 

 

不倫とイメージ:その3パターン

比較のために同様に不倫スキャンダルでメディアを賑わせた人物を3名ほど上げておこう。それぞれ微妙にイメージの再定義が異なっている。

 

火野正平:自らのパーソナリティを役者のイメージに

古くは70年代の火野正平があげられる。女性タレントをとっかえひっかえし、プレイボーイ、女性を弄ぶ役者としてバッシングを受けたが、本人は意に介さなかった。そこで火野にはチンピラ、遊び人的なイメージが定着。それが却って火野の役者人生を彩ることになった。火野は役者という本来ならば物語タイプである役割をパーソナリティタイプによって翻し、今度は素の”火野”に基づいて、役者「火野」のイメージを打ち立てることに成功したのだ。ちなみに、これは2011年から放送されているNHK BSプレミアムの番組『にっぽん縦断 こころ旅』においても反映され、長寿の人気番組となっている。ここでも、火野が演じている(素?)のは「年老いたチンピラ」である。

 

石田純一:チャラいイメージを不倫騒動によって相対化→物語タイプからパーソナリティタイプへ

二つ目は、ご存じ石田純一である。石田は松原千明が妻であった際にファッションモデルの長谷川理恵と不倫し、その際「不倫は文化」というフレーズによってバッシングを引き起こしたが、その後芸能界での地位復活に成功した。これは石田にプレイボーイ的なチャラいイメージが物語タイプに付着していたことが”逆”担保となったためだろう(主演映画に『愛と平成の色男』(1989)がある)。そして東尾理子との結婚後、「チャラい」というパーソナリティを形成するに至る。結婚時には理子の父親・東尾修に「すいません」と謝罪。新型コロナウイルス肺炎から回復した直後のインタビューに際しても謝罪している。軽率が、いわばキャラとして認知されたのだ。また、肺炎インタビューでは渡部の件でコメントを求められてもいるが、メディアが本件について石田に問い合わせるのは、言い換えれば、かつての石田の不倫がメディアによって相対化されてしまっていることを示唆している。いまや石田純一は役者ではなく「チャラい」という典型的なパーソナリティタイプなのだ。もはや役者のイメージは弱い。

 

東出昌大:物語タイプとパーソナリティタイプの混在によって窮地に

一月に暴露された東出昌大の唐田えりかとの不倫スキャンダルは渡部の例と類似している。東出の妻は杏で佐々木希同様、大物女優(二人とも妻の方が知名度が高い)。だが東出の場合、渡部とはより比較的症状が軽い。

 

東出はファッションモデル・俳優である。イケメン男優として、与えられた役割もスティディで誠実なタイプのそれだった。だが不倫はこのイメージを覆す。”東出”≠「東出」という認識がなされてしまったからだ。それゆえ、今後はこの手のタイプの役割を振られることはないだろう。東出はドラマ以外にドキュメンタリーやバラエティなどにも出演するようになっており、こちらでは自らのパーソナリティを露出しているが、メインはあくまで役者で、こちらはサブ。そして、こちらに関してはさほど露出しているわけではないのでパーソナリティタイプの一般的認知度は低い。あくまで物語タイプの範疇に収まる。ただし田村と違い”東出”を完全には隠蔽してはいない。そのことが結果としてイメージの失墜に繋がった。ということは、結果として東出は、今後自らが役者として演ずる役割を変更していくことで芸能人生命をつなぎ止める可能性が高い。

 

 

渡部に、未来はない

さて、再び渡部の話に戻ろう。渡部の場合、芸能人としてやってしまったことは極めて致命的であると言わざるを得ない。前述したようにコンプライアンス違反を犯し、オーディエンスを完全に裏切るかたちで不倫が一般に認識されてしまったからだ。行為がよりキャッチーでスキャンダラスであったこと(六本木ヒルズの多目的トイレでの行為云々)、佐々木希が多くの女性から支持を受けていることも(女性からすれば、自分たちと、自分たちの支持する佐々木双方を裏切ったことになる)火に油の状況を生んでしまっている。

 

渡部はなぜこんな状況に陥ったのか?メディア論的に渡部の心理を分析すれば次のようになる。パーソナリティタイプ、つまり渡部は”渡部”=「渡部」という役割を演じることでブレイクに成功した。しかし、この“渡部”は実は真の渡部でなく,これもまた作り上げられた偽物の”渡部”(=「素」というイメージの”渡部”)で、これをイメージとしての「渡部」とイコールと見せかけること,言い換えれば二つのイメージを重ね合わせることによって成功を獲得した。だがそのことに自らは気づいていなかった。やがて渡部(真の渡部)は“渡部”=「渡部」が獲得した権力に振り回されるようになる。「オレはエラい。何をやっても大丈夫だ」。”内なる権力構造=渡部<“渡部”=「渡部」”に基づいて、渡部は自らの欲望を解放し始めるのだ。「芸能界などチョロいもんだ」と認識したのである(相方の児島が渡部を「天狗だった」と指摘している)。それが複数の不倫、そして女性を女性とも思わないような扱いを結果した。だが、渡部は“渡部”=「渡部」によって自らが乗っ取られているため、これに気づかない。自覚するのは、文春砲によってこれら詐術が一般に知れ渡ることが判明した時で、その頭の回転の速さゆえ早々に活動自粛を申し出た。しかし残念ながら”時すでに遅し”。オーディエンスは怒り心頭に発した。そして自滅の途へ。それは、さながら『笑うせえるすまん』の犠牲者のようにすら思える。まあ、自業自得なんだが。

 

渡部には申し訳ないが、これは典型的な詐欺の手口だ。詐欺師=渡部、引っかかった人=オーディエンスという図式だ。自らを「良い人」に見せかけてオーディエンスから人気というカネをむしり取ったのだ。そして渡部は詐欺師の中でも最も有能な詐欺師の一人だったとも言える……

 

「最も有能な詐欺師は誰を騙すのが上手いのか?」

「それは……自分である。有能な詐欺師は自らが詐欺を犯していることに気づいていない。」

“敵を欺くには、先ず自分から”なのである。

 

 

”芸能人はイメージが命”(一般人は、関係ありません)

渡部建。芸能界での彼の未来は、多分、ないかな。強いてあるとすれば、実写版の『笑うせえるすまん』が作られ、酷い目に合うキャラクターあたりを演じた時だろう。その際には本当の渡部と新しい役割としての「渡部」(この場合は欲望に翻弄される被害者役というイメージ)がパーソナリティタイプとして統合されるだろう。

(ちなみに、僕本人は渡部というタレントに感情的な思い入れは一切ありません。)

新型コロナウイルス蔓延という危機的な状況の中、街中でマスクを着用する人の割合が極端に増えてきた。外に出ることはめったにないが(大学のキャンパス=仕事場へ行く場合、自家用車を利用している)、買い物に出かけた時に、この変化に気づかされた。マスク着用率が増えたこと自体は危機意識が高まったことを傍証するといえるだろう。

 

マスクについては自らに対する直接的な恩恵は、どうやらほとんどないらしい。つまりマスクを装着しようがしまいが、感染するときは感染するという。

 

しかし、それでもやはりマスクの効用はある。「自らのコロナウイルスを他者にうつすことを予防する」点だ。マスクをしても自分自身には恩恵が無い。ただし、マスク着用は、社会に対しては大いに効用ありと言えるのだ。しかも、この効用が大きい。

 

ご存じのように新型コロナウイルスは、いわば「ステルスウイルス」だ。罹っていても症状のない人間が大多数。しかも、そのまま終わってしまうケースが大半。しかし、こうした人間は、結局、自分自身は大事に至らなくても、周囲に伝染しまくっている、しかも本人も自覚がないうちにということになる。だからStay homeで、外出の必要のある際にはマスクをしようというわけだ。

 

くりかえそう。マスクとは「人から菌をもらう」のではなく「人に菌を振りまかないようにする」もの。「情けは人のためならず」ならぬ「マスクは自分のためならず」なのだ。でも、これは結局、「情けは~」のことわざと同様の教訓を与えてくれる。つまりマスクは自分の防護には役に立たないが、自分が積極的に付けることによって、それが最終的に多くの人への感染を防ぐ予防措置となる。全員がマスクをすれば、感染率はグッと下がる。言い換えれば「自分がマスクをすることは、巡り巡って自分への伝染を防ぐ、さらにはウイルスを退散させることになる」。よって、マスクをすることは極めて正しい。

 

ところがで、ある。

 

僕のマンションからは近くに公園が見える(部屋が14階にあるので、見下ろせる)。で、公園を眺めてみると……結構な数の子どもたちが遊んでいるのだ。しかもマスクなしで。スーパーでもこれは同様だ。家族でやって来て(そもそも家族でやって来ること自体が間違いなのだが)、親はマスクをしているが子どもはマスクをしていないというケースが大半なのだ。「子どもは感染しても大事に至ることがほぼ無いから大丈夫」ということなんだろうか?

 

しかし、子どもこそ最も危険な感染源になってしまう可能性があることを肝に銘じておいた方がいい。子どもは体力的に強いから症状が出にくい。伝染していても元気に歩き回る。そして活動が活発ゆえ、歩き回る範囲は大人よりもはるかに広い。しかも社会性がまだ未発達なので空気を読めない。大人の迷惑顧みず、あっちこっちを歩き回る。これがマスクをしないで徘徊するということは……病原菌をばらまく元凶の一つとみなされても仕方がないのでは?

 

しかし、これは子どもの責任ではない。子どもは、散らかしたり、遊んだりするのが仕事なのだから。責任はむしろ、大人にある。だから、ここは是非とも親に言っておきたい。あなたの命のために、そして皆さんの未来のために、子どもにもマスクをさせてください、と。