いつまで経っても小室夫妻(圭さん、眞子さん)に対するバッシングが終わらない。お二人の結婚について、一般はおおむね祝福しているのだろうが、ことSNSへの書き込みについては、必ずしもそうなってはいないのだ。これは「SNSのコメントの多くが批判的なものになる」という一般的な傾向に基づいている(ご存じのように、こうした傾向を鑑み、BLOGOSはコメント欄を廃止し、コメントは実名を旨とするfacebook等に委ねた。残念ながら、こちらでもいまだに批判・中傷的なものが多いが)。そして、これをマスメディアがことさらに取りあげることで、事態がややこしくなってくると言う「いつもの図式」(メディア論では、これを「メディア・イベント」呼ぶ)が繰り広げられている。

 

そこで、このバッシングの構造をメディア論的に考えてみたい。今回は、学術用語ではないが最近バズった「親ガチャ」をキーワードに展開してみたよう。で、前もって結論を言っておけば「お二方は、親ガチャでいろいろと苦しめられた」ということになる。

 

物語の最小単位

まず、小室圭さん、眞子様の物語を、何ら文脈を挟まない、最も単純なかたちで確認してみよう。

 

「大学時代に知りあった二人が愛を育み、そして結婚に至った」

 

これだけだ。まあ、一般的にはこうした状況では周囲は「おめでとう」と祝福する。

 

しかし、小室夫妻の場合は、そうはならなかった。これに様々な尾ヒレ=文脈が加えられたからだ。そして、この尾ヒレは多方面の「親ガチャ」から生まれたものだ。

 

 

「親ガチャ」とは

「親ガチャ」とは、要するに「子は親を選べない」ことを指している。だが、このことばが用いられる際には、常にネガティブな意味合いが加えられる。「現在、自分がのこのような不運な状況にあるのは親ガチャによる」という使われ方がそれで、これは「運の悪い星の下に生まれてしまった」「もっとよい親の下(資産家であるとか、社会的に高いステイタスにあるとか)に生まれていれば、自分はもっと幸せであった」という嘆きでもある。

 

そして夫妻へのバッシングは「自分自身(SNSのカキコ=誹謗中傷者)が親ガチャであることについての妬み」から生じている。

 

圭さん:親ガチャ克服者への妬み

先ず圭さん。母親一人に育てられたということでは親ガチャとして自らを嘆く立ち位置にあるはずだ。ところが圭さんはICUに入学し、眞子様と出会う。婚約の宣言直後、母親のスキャンダルが報道されると法律の勉強のためニューヨークへ。さらに現地の法律事務所に就職、ニューヨーク州弁護士会の論文コンテストでも優勝を果たした。母親のスキャンダルを除けば、まあ順風満帆な人生だ。

 

こうした経歴はステップアップ、いわば「親ガチャを乗り越えた」ことになるのだが、親ガチャルサンチマン派はそのようには捉えない。自分はそのままなのに、圭さんは先に進んでいった。そこで「自分だけ、うまいことやりやがって」と妬みが生じるのだ。努力しない人間がコンプレックスを拭う典型的な方法は、自分より上に行ったものを叩くことだが、そうすることで「オマエも親ガチャだろ、ふざけんな」ということになる。そこで、小室さんを親ガチャ状態に引き戻すために母親の疑惑が次々と批判されることになった。

しかし、民主主義の立場からすればこの誹謗中傷は矛盾している。民主主義は個人主義でもあり、人権尊重は憲法でも明確に謳われている。この視点からすれば母親は母親、子どもは子どもである。親が殺人者であったとしても子どもがバッシングを受ける理由は法律的にも道義的にもどこにもない。ところが「母親の疑惑」という尾ヒレに基づいて、親ガチャルサンチマンたちによる小室さんバッシングが始まるのである。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という状況なわけで、挙げ句の果てには皇室利用疑惑という根拠のないデマまで流れる始末。

 

眞子さん:「逆親ガチャを利用しておいしい汁をすすっているのに、好き勝手なことをやっている」という妬み

眞子様(「様」と「さん」を皇室であるか否かで使い分けています)は皇族としてお生まれになり、御所でお育ちになり、成人後は皇室典範に基づいて精力的に公務をこなされてこられた。皇室なので、当然、一般人とは良きにつけ悪しきにつけ別の扱いを受けてきた。

 

ところが、圭さんと恋仲になり、皇籍離脱ということに。現状では女系天皇が現実的ではないという皇室の慣習(実際には存在するが)なので、皇室の女性は一般人と結婚し、民間人となるケースはごく普通だ。たとえば令和天皇の妹である紀宮様は2003年、都職員の黒田慶樹さんと結婚し、自らも民間人黒田清子となった(挙式し、記者会見も実施。皇室離脱の際に支給される一時金も受け取っている)。ということは眞子様も紀宮様=清子さんと同じ扱いを受けるのが筋である。

 

ところが、そうはならなかった。その理由は二つ。

一つは、前述したお相手の圭さんの母親疑惑。この尾ヒレで、やはり「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の図式が展開された。「小室母=憎い→小室圭=憎い→眞子様=憎い」というわかりやすい三段式親ガチャルサンチマン図式がそれだ。坊さんが運転するバイクまで憎いといった展開か?(笑)

この尾ヒレにもう一つの親ガチャ理由が加わる。これは、いわば「逆親ガチャ」(こんな言葉はないけれど)だ。

 

「眞子様は皇族。われわれの手の届かないような高尚な地位におられる方。それが、地位を投げ捨てて、勝手なことをやりはじめた。無責任、許せない」

 

こう言ってしまう心性は、この「地位の投げ捨て」が責任放棄であるという解釈に基づいている。つまり「高尚な地位を私的に流用している」との認識だ。そこで「辞めるんなら、税金返せ!」となる。

 

しかしよく考えてみて欲しい。眞子さんの一連の行動は、他の皇籍離脱した人間と全く代わるところはないということを。この批判の図式を是とするならば、これまで離脱した人は清子さんを含めて全員が税金を返納しなければならない。もちろん一時金などを受け取ることももってのほかということになる。挙式も無しである。

 

親ガチャ(逆親ガチャ)を乗り越える

冷静に状況を考慮すれば、一般からは眞子様が「逆親ガチャ」(ものすごくよい星の下に生まれた)に見えたとしても、眞子様当人にとってはむしろ「親ガチャ」(不幸な星の下に生まれた)だったはずだ。つまり皇籍に属しているということが、却って自らの行動範囲を極端に制限することになった。眞子様が名前の由来「自然に飾ることなくありのままに人生を歩む」で生きていこうとするならば、この皇室という親ガチャ(逆親ガチャ)は克服すべきものだったはずだ。(ここからはちょっと憶測になるが)だから眞子様は学習院ではなくICU、そして圭さんを選択した。だから、今回もこうした記者会見をすることで、また一時金も拒否することで決着を図ろうとしたのではないか?(あくまで「憶測」ですが)。

 

三十年間皇室で皇室典範に基づき、自由を拘束される中で公務をこなされてきたわけで(だから、いわば「退職金」として一時金を受け取る正当な理由もある)、ありのままに人生を歩もうとするのならば、彼女の選択は間違っていない。そして眞子様から小室眞子さんになることによって、彼女は皇室典範ではなく日本国憲法によって守られることになる。晴れて民主主義の一構成員となったのだ(名字も、パスポートも、年金手帳も持てるようになった)。眞子さんは親ガチャ(逆親ガチャ)だから、芸能人のように自ら好んで有名人になっているのではない。言い換えれば「おいしい汁」をすすろうとしていたのではない。ここは一般の芸能人とは大きく異なる。そのことについて、十分な配慮が必要だろう。だから、マスメディアは今後、眞子さんに関わってはいけない。黒田清子さんに対する対応の仕方とまったく同じであるべきであるのは、一般市民への配慮として当然の義務だろう。ここは民主主義国家、そして眞子さん(そして圭さんも)一日本国民に過ぎないのだから。

 

もう一つの物語:本来ならばハッピーエンドのストーリー

ちなみに、今回の一連の出来事は文脈を変えれば全く別の解釈も可能になる。王室の中で自由がなく、そこから逃れたいと思っていたときに素敵な恋人が出現し、全てをかなぐり捨てて相手と添い遂げると言った話はハリウッド映画の中の定番としていくらでもあるわけで(「ローマの休日」(かなぐり捨てたわけではないが)「グレース・オブ・モナコ」(これは逆だけど)なんかはその典型だ)。欧米では、今回の件はむしろこちらの文脈で好意的に捉えられることも多いらしい。

 

小室夫妻のように、誹謗中傷者は、先ず自らの親ガチャを克服せよ

いずれにしても、小室夫妻の件は個人の問題ではなく親ガチャ(小室夫妻と誹謗中傷者双方にあった)のせいだったのだ。そして夫妻は親ガチャを克服した。これで、もういいはずだ(もっともニューヨークまでマスメディアが追いかけてきそうだが……)。

 

お二人にはなむけの言葉を贈りたい。

 

民主主義国家の一員として、ご結婚を祝福申し上げます。そして、親ガチャルサンチマン連中から逃れられるニューヨークでの穏やかな生活をお祈りしています。

 

一方、二人を批判する人々には「逆はなむけ」の言葉を贈ろう。

 

「ご夫妻のように、早く親ガチャルサンチマンを克服できるよう、精進してください。みっともないですよ。」