不倫は文化だ

いわゆる「文春砲」によって複数の不倫を暴露されてしまったお笑いユニット・アンジャッシュの渡部建。それにしても、なぜここまで渡部はバッシングされなければならないのか。今回はこれをメディア論的視点から考えてみたい。

 

まず、前提を考えてみよう。不倫自体は「文化」である。石田純一が思わず口を滑らした有名なセリフだが、婚姻という制度・文化があるからには必然的に不倫も文化として存在する。それゆえ、あちこちに不倫は発生している。
 

さて、もしあなたが不倫してそれが相手にバレたらどうなるだろうか。不倫するということは、当然伴侶(妻・夫)が存在するわけで、夫婦間には当然大きなトラブルが発生する。しかし問題が波及するのはその周辺までだ。それ以外の人間にとっては「他人事」でしかない。

 

 

スキャンダルとしての不倫

一方、芸能人となる状況は違ってくる。

オーディエンスはメディアに頻繁に露出する人間・とりわけ芸能人をイメージとして捉えらえている。優しい人、賢い人、セクシーな人、面白い人、強面な人……。こうしたイメージをいわば役割として演じているわけだ。これによって芸能人は支持を取り付け、社会的地位や富を獲得する。だが、それは実際の自分とは異なっているということでもある。

 

物語タイプ

かつての俳優パターンで説明してみよう。典型的な人物は田村正和である。田村にはその代表的な役に眠狂四郎や古畑任三郎がある。田村はドラマの中でこれらの役割に集中する。その一方、私生活はまったくといってよいほど明らかにしない。つまり田村は実際の”田村”と俳優=役割としての「田村」を明確に区別している。それゆえ、我々が知りうるのは当然後者、つまりイメージとしての「田村正和」である。

 

このような区分が明確に敷かれている場合、”田村”が私生活においてどのような存在であろうとあまり問題にはならない。たとえば”田村”が不倫しようとも、今回の渡部ほど大騒ぎになることはない。オーディエンスと田村の間にある種のコンプライアンス(正確な定義は「法令遵守」だが、ここでは一般に用いられる「暗黙の約束を守る」という意味でご理解いただきたい)が存在するからだ。つまり、田村は私生活を見せないことで「役者ですので演技をみてください。プライベートは関係ありません」というメッセージを発し、一方オーディエンスの方も「「田村正和」、つまり眠狂四郎や古畑任三郎を演じている田村にのみ関心を持ちます」という”暗黙の了解”が成立している。こうした、「役者としての存在(=イメージ)のみに注目を寄せさせる芸能人」を物語タイプと呼ぶ。このタイプで、一般に役割と本人は別の存在として認識される。

 

パーソナリティタイプ

一方、タレントと呼ばれる芸能人はこれとは異なる。彼らもまたイメージを売り物にしているが、このイメージは本人の人格とリンクしている。仮にこれを田村にあてはめれば「田村正和という人物の人格は眠狂四郎・古畑任三郎」、すなわち”田村”=「田村」ということになる。「田村」というイメージは”田村”という担保によって保証されていることになる(もちろん、実際はそうではない)。この場合、田村は二つの田村を同一のものとすることがオーディエンスに向けてのコンプライアンスの課題となる。こうした「芸能人としての存在(=イメージ)と人格を統合させる芸能人」をパーソナリティタイプと呼ぶことにしよう。

 

 

オーディエンスとのコンプライアンス怠った渡部

渡部は典型的なパーソナリティタイプだ。お笑いユニット・アンジャッシュのメンバーとして芸界にデビューしたものの、ここ数年でのブレイクはむしろバラエティタレントとしての活動による。グルメ、映画、高校野球、料理などの蘊蓄を披露し「賢い、フェミニン(女性と男性性のバランスが取れている)」なイメージを獲得、2017年佐々木希との結婚後には「家庭重視」のイメージもオーディエンスに抱かれるようになった。パーソナリティタイプの芸能人ゆえ、オーディエンスは当然”渡部”=「渡部」と認識していた。

 

ところが今回の不倫騒ぎで、この設定が完全に崩壊してしまった。不倫は”渡部”がやったこと。しかし”渡部”=「渡部」とオーディエンスは認識している。ようするに、これは渡部はコンプライアンス違反をしたわけで、オーディエンスからすれば「裏切られた」ということになる。

 

怒りに駆られたオーディエンスは、こうなると新たな”渡部”=不倫する渡部にもとづきながら、別のイメージを反動的に形成するようになる。「渡部は我々をずっと騙し続けていたのだ。奧さんの佐々木希も含めて」。こうした認識に基づくことで、今度は「賢い」は「ずる賢い」、「フェミニン」は「ジェンダー的に中立な立場を装いながら、女性を陵辱し続ける野獣」に変化する(ちなみに、これも新たに形成されたイメージであることをお断りしておく)。とりわけ、これまで獲得していた女性からの支持は完全に失われてしまったわけで、もはや女性を意識した番組に出演することは不可能だろう。ポジティブなイメージがすべてネガティブなイメージによって読み替えられてしまったのだから。つまり、渡部が蘊蓄を語れば「人を騙そうとして企んでいる」、女性にエールを送るような発言をすれば「アンタになんか騙されないよ」というのがオーディエンスの基本的立ち位置となる。

 

 

不倫とイメージ:その3パターン

比較のために同様に不倫スキャンダルでメディアを賑わせた人物を3名ほど上げておこう。それぞれ微妙にイメージの再定義が異なっている。

 

火野正平:自らのパーソナリティを役者のイメージに

古くは70年代の火野正平があげられる。女性タレントをとっかえひっかえし、プレイボーイ、女性を弄ぶ役者としてバッシングを受けたが、本人は意に介さなかった。そこで火野にはチンピラ、遊び人的なイメージが定着。それが却って火野の役者人生を彩ることになった。火野は役者という本来ならば物語タイプである役割をパーソナリティタイプによって翻し、今度は素の”火野”に基づいて、役者「火野」のイメージを打ち立てることに成功したのだ。ちなみに、これは2011年から放送されているNHK BSプレミアムの番組『にっぽん縦断 こころ旅』においても反映され、長寿の人気番組となっている。ここでも、火野が演じている(素?)のは「年老いたチンピラ」である。

 

石田純一:チャラいイメージを不倫騒動によって相対化→物語タイプからパーソナリティタイプへ

二つ目は、ご存じ石田純一である。石田は松原千明が妻であった際にファッションモデルの長谷川理恵と不倫し、その際「不倫は文化」というフレーズによってバッシングを引き起こしたが、その後芸能界での地位復活に成功した。これは石田にプレイボーイ的なチャラいイメージが物語タイプに付着していたことが”逆”担保となったためだろう(主演映画に『愛と平成の色男』(1989)がある)。そして東尾理子との結婚後、「チャラい」というパーソナリティを形成するに至る。結婚時には理子の父親・東尾修に「すいません」と謝罪。新型コロナウイルス肺炎から回復した直後のインタビューに際しても謝罪している。軽率が、いわばキャラとして認知されたのだ。また、肺炎インタビューでは渡部の件でコメントを求められてもいるが、メディアが本件について石田に問い合わせるのは、言い換えれば、かつての石田の不倫がメディアによって相対化されてしまっていることを示唆している。いまや石田純一は役者ではなく「チャラい」という典型的なパーソナリティタイプなのだ。もはや役者のイメージは弱い。

 

東出昌大:物語タイプとパーソナリティタイプの混在によって窮地に

一月に暴露された東出昌大の唐田えりかとの不倫スキャンダルは渡部の例と類似している。東出の妻は杏で佐々木希同様、大物女優(二人とも妻の方が知名度が高い)。だが東出の場合、渡部とはより比較的症状が軽い。

 

東出はファッションモデル・俳優である。イケメン男優として、与えられた役割もスティディで誠実なタイプのそれだった。だが不倫はこのイメージを覆す。”東出”≠「東出」という認識がなされてしまったからだ。それゆえ、今後はこの手のタイプの役割を振られることはないだろう。東出はドラマ以外にドキュメンタリーやバラエティなどにも出演するようになっており、こちらでは自らのパーソナリティを露出しているが、メインはあくまで役者で、こちらはサブ。そして、こちらに関してはさほど露出しているわけではないのでパーソナリティタイプの一般的認知度は低い。あくまで物語タイプの範疇に収まる。ただし田村と違い”東出”を完全には隠蔽してはいない。そのことが結果としてイメージの失墜に繋がった。ということは、結果として東出は、今後自らが役者として演ずる役割を変更していくことで芸能人生命をつなぎ止める可能性が高い。

 

 

渡部に、未来はない

さて、再び渡部の話に戻ろう。渡部の場合、芸能人としてやってしまったことは極めて致命的であると言わざるを得ない。前述したようにコンプライアンス違反を犯し、オーディエンスを完全に裏切るかたちで不倫が一般に認識されてしまったからだ。行為がよりキャッチーでスキャンダラスであったこと(六本木ヒルズの多目的トイレでの行為云々)、佐々木希が多くの女性から支持を受けていることも(女性からすれば、自分たちと、自分たちの支持する佐々木双方を裏切ったことになる)火に油の状況を生んでしまっている。

 

渡部はなぜこんな状況に陥ったのか?メディア論的に渡部の心理を分析すれば次のようになる。パーソナリティタイプ、つまり渡部は”渡部”=「渡部」という役割を演じることでブレイクに成功した。しかし、この“渡部”は実は真の渡部でなく,これもまた作り上げられた偽物の”渡部”(=「素」というイメージの”渡部”)で、これをイメージとしての「渡部」とイコールと見せかけること,言い換えれば二つのイメージを重ね合わせることによって成功を獲得した。だがそのことに自らは気づいていなかった。やがて渡部(真の渡部)は“渡部”=「渡部」が獲得した権力に振り回されるようになる。「オレはエラい。何をやっても大丈夫だ」。”内なる権力構造=渡部<“渡部”=「渡部」”に基づいて、渡部は自らの欲望を解放し始めるのだ。「芸能界などチョロいもんだ」と認識したのである(相方の児島が渡部を「天狗だった」と指摘している)。それが複数の不倫、そして女性を女性とも思わないような扱いを結果した。だが、渡部は“渡部”=「渡部」によって自らが乗っ取られているため、これに気づかない。自覚するのは、文春砲によってこれら詐術が一般に知れ渡ることが判明した時で、その頭の回転の速さゆえ早々に活動自粛を申し出た。しかし残念ながら”時すでに遅し”。オーディエンスは怒り心頭に発した。そして自滅の途へ。それは、さながら『笑うせえるすまん』の犠牲者のようにすら思える。まあ、自業自得なんだが。

 

渡部には申し訳ないが、これは典型的な詐欺の手口だ。詐欺師=渡部、引っかかった人=オーディエンスという図式だ。自らを「良い人」に見せかけてオーディエンスから人気というカネをむしり取ったのだ。そして渡部は詐欺師の中でも最も有能な詐欺師の一人だったとも言える……

 

「最も有能な詐欺師は誰を騙すのが上手いのか?」

「それは……自分である。有能な詐欺師は自らが詐欺を犯していることに気づいていない。」

“敵を欺くには、先ず自分から”なのである。

 

 

”芸能人はイメージが命”(一般人は、関係ありません)

渡部建。芸能界での彼の未来は、多分、ないかな。強いてあるとすれば、実写版の『笑うせえるすまん』が作られ、酷い目に合うキャラクターあたりを演じた時だろう。その際には本当の渡部と新しい役割としての「渡部」(この場合は欲望に翻弄される被害者役というイメージ)がパーソナリティタイプとして統合されるだろう。

(ちなみに、僕本人は渡部というタレントに感情的な思い入れは一切ありません。)