本ブログでもギタリストの界隈に影響を与えて来た様々なギターメーカーやブランドについて語って来ましたが、TOKAIほど『ギター社会』において多大なる影響を及ぼしたメーカーはないと思っています。
果たしてその影響、とはどのようなモノなんでしょうか?
それは、
『エレキギターとはこうでなくてはならない』という『こうあるべき論』めいた思い込みを日本人のギタリスト予備軍であった少年たちの脳内に多数刷り込んだことだったりします。
おそらくある一定の世代、
それが主にTOKAI楽器の全盛期。
おそらく当時高校一年生くらいの年代を境とする年齢の、2年ないし3年ほど前後する範囲の世代を過ごされた『ロック』の洗練を受けた方々の脳裏に強烈な印象を与えたであろうと思います。
その世代のエレキギター愛好家の方で、TOKAIのギターのことを悪くいう人はほとんど居ません。
それはあたかも、
ひな鳥が目を開いた瞬間に初めて目にした人間を親鳥であるかのように脳に焼き付けてしまうのと同じで、
後々にどれだけGibsonやFenderに接しても、やはりTOKAIの製品を見た時の印象に心が惹きつけられるような感覚に陥っている。件の御仁たちはかれこれ数十年にも渡る歳月の中そんな刷り込みを受けてしまっているって事になるのかもしれませんね。
しかし、僕はそうではありません。
およそ僕の場合、そうした年代の御仁よりひと回りくらいは若い世代の人間ですから、そうした刷り込みはリアルタイムにおいては一切受けていないわけです。
僕にとってTOKAIというのは単に模造品が主体の商品展開を何十年も続けている会社でしかなく、厳密に『素晴らしい楽器メーカー』だとはどうしても思えない世代の人間なのです。
なかじーの知り合いで、やはりギター愛好家の方がおっしゃるに『TOKAIは塗りがいいんだよなぁ』という感想をお持ちの方が少なからずいます。
また『TOKAIは本家(GibsonやFender)よりも造りがいい』と本気でおっしゃることが多々あります。
そういうご意見の方にとってはラッカー塗装による木材の導管や木目の浮いた様子は『塗りが悪い』って事になるらしく、GibsonやFenderのような仕上げは『造りがわるい』ということになるそうです。
しかしながらエレキギターというのは楽器ですので、それが音楽的な表現に差し障らぬ限りどうだっていい部分の事象であり、そうした感想(塗りや仕上げの精緻さ)を楽器としての善し悪しに直結させる価値観は人それぞれであると一般的には言われることでしょう。個人的にはばかばかしくも滑稽なモノの見方だと思います。
個人的には『最近のGibsonは塗りが悪いけどTOKAIは昔から塗りがいい』なんて真顔で言われたらどうリアクションしていいか迷うほどです。(そもそもギター愛好家界隈ではレリックなどという使い込まれた風に偽った風合いを施したモノを愛好する方すら居るわけです。それなのに仕上げ、特に塗装面の平滑さ云々を気にすること自体がもうナンセンスですよね)
そういうレベルで『楽器』というものの是非を捉えている人がTOKAIという会社やその製品を支えているのだとしたら、それはTOKAI楽器にとっては非常に不幸な事かもしれません。
宝の持ち腐れ、とでも言うべきでしょうか。
先ず、僕自身の個人的な評価としてはTOKAIほど『宝の持ち腐れ』なメーカーも珍しいと感じています。
ではナニが宝で、どう持ち腐れているのか?
宝の部分とは言うまでもなく、
Martinから受けた楽器の製造技術の供与と、楽器リペアの技術の確かさを認定証としてリペアマンに発行できるだけの技術ノウハウの蓄積を証明せしめる権威の獲得。
様々なメーカーやブランドの製品(主にYAMAHAやAria pro2)を製造委託された折に蓄積した製造ノウハウ、
アルミやカーボンといった新素材の導入に伴うギター製造のノウハウ、
そしてボディ中央部に木口方向の材を用いて振動エネルギーの伝達方向をボディトップからバック、さらにそれをトップ方向に相互に輻射させやすくするSEB構造でしょう。
ギターメーカーとしてボディ部の製造ノウハウをここまで深化させる事に於いて、およそ世界を見渡してもこのTOKAIに勝る所はおそらく無いでしょう。
コレはある意味日本のエレキギター界の宝であるといっていい。
では、持ち腐れの部分とは…
ここまでお付き合いいただいている皆様方はもうお察しかと思いますが、やはりコピー商品、模造品商法に頼り切った体制を延々と続けている事に尽きます。
TOKAIが国産ギター業界で大きく成長したのは紛れもなくGibsonのコピーモデルのコピー精度を飛躍的に進化させたLove Rockシリーズが評価されたからに他なりません。
そしてその評価を得る過程でTOKAIはおよそ現代の水準でもかなりの量にのぼる量の“ウンチク”を80年代のカタログに載せています。
言ってみれば他社のコピー商品よりも自社製品の方が『本家』に忠実であると言う差別化のイメージを刷り込む為の情報拡散だったわけですが、
ネット社会でもない当時の若者の頭にはまるで乾いた砂地に水を注ぐかのように吸収されていった事でしょう。
しかしながら、それらの情報の数々も今となってはかなり間違いと言わねばならぬ事も多い。
当時の若者であった40~50歳代のギター愛好家達が、今なおギターというモノについてオカルティックかつ偏った意見を盲信的に抱いてしまうのはTOKAIのカタログの影響が少なくないと思えます。
そうした誤った情報を拡散してしまった事に対する総括の無いままに、TOKAIは未だにコピー商品を延々と造り、その収益でTalboやSEBをやってるわけですから『職人の誇り』という台詞が聞いて呆れる、というのもやむなしでしょう。
まぁコピー商品、コピー商法というのはマイルドな言い回しであり、実際のところは単純に模造品であり模造品を造り売り捌く商売でしかないというのが無慈悲な事実でしょうし。
だってエレキギターというのは楽器であるべきなんですから。
よくTOKAIの製品を称する文言として頻繁に聞くのは『造りがいい』という賛辞だったりします。
しかしながらそれは概ね『見栄え』のことであり、ギタリストがエレキギターを手にするに際してのサウンドの要になってくるのはギターの見栄えの問題ではありません。
GibsonやFenderを細かく採寸し、それを寸分違わず真似て作って、その仕上げ部分の細かな部分にまで手を掛ければ『造りがいい』になるのか?
違いますよね。
たとえばエレキギターならその外見が全く同じでなくても、ギターを構成する素材、大まかな質量、電気系統のコンフィギュレーションなどに共通点があればほぼ同じ用途に使用出来る楽器は作れます。
アコースティックギターならばその材質は勿論、見えないところに張り巡らされたブレーシングの薄さ0コンマ数mmで音が変わるという世界であるわけですが、それとエレキギターとではわけが違う。
GibsonやFenderの外観とコンマ数ミリ単位で合致する治具を用いて、まるまる外見をトレースされたモノでないと同じようなサウンドや演奏性が得られないというわけでは断じてありません。
つまりエレクトリックギターという楽器の特性を思えばGibson社やFender社の製品と同じに見える製品造りをする正義なんて根本的にありはしないわけです
もっと極論を言えば、
同じギターを同じセッティングで弾いても弾く人が違えば全く違う出音になるのがエレキギターですし、同じ人が弾いてもアンサンブルによって聴こえ方が変わる、楽曲によって聴こえ方が変えられるようでなくてはならないのが楽器としてのエレキギターの役割です。
繰り返しになりますが『他社製品と全く同じ見た目のギター』を造る合理的な理由はTOKAIには何ひとつないんですよ。
仮に日本でGibsonやFenderの製品が流通していない、というなら模造品商法にも一定の役割りはありますが、今のところこの何十年もの間普通にどこの街に行ってもGibsonや Fenderは買えますよね。
つまりこの何十年もの間、模造品が造られ続ける合理的な理由、必然性は日本のマーケットには皆無な事に消費者である皆さんは鈍感過ぎたわけです。
未だに特定のアジア諸国ではRolexやLOUIS VUITTONの模造品、違法コピー品が製造されて流通したりしています。
Gibsonそっくりに造られ、ロゴすらGibsonのロゴをつけられて密かに流通している模造品をアメリカではChibsonと言って笑いものにしています。
どれだけGibsonに似せて造られていてもそこに尊敬の念は集まらない。
仮に、
そうした模造品が本物と同じ品質なのに格段に安いということであったにせよ、
偽物のRolexや LOUIS VUITTONを『本家を超えた』などと得意になって造ったり売ったりしていたらどうでしょう?
それを堂々と胸を張って言っていたなら
『アタマおかしい』
と普通なら思うわけじゃないですか。
それがまかり通るのが、
『今現在の日本のギター社会』
ってことなわけで、そのくらい狂っている感覚ゆの中に皆さんは居るんだよ、という事です。
現在TOKAIのコピー商品は、
米国、独国での販売を規制されていますが、
そうした国々で自社オリジナルを売りたくても売れないのはコピー商法で不当に儲けているメーカーとして尊敬されてないからでしょう。