太平洋戦争、日本敗戦及び敗戦処理、そして日本国憲法(その1) | meaw222のブログ

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今日は、太平洋戦争、日本敗戦及び敗戦処理、そして日本国憲法について書きたいと思います。

 

今日の題のように戦争、敗戦そして日本国憲法の成り立ちを述べる場合、右派や左派のどちらかに傾いてしまう傾向にあります。また、これらの事が取り上げられた論説には、殆どが左派や右派の論点から書かれていることが多いのも真実です。

 

しかしながら、今回は、映画やドキュメンタリー動画を挟みつつ、思想的にも中立の立場で書きたいと思います。

 

  太平洋戦争

太平洋戦争(1941年12月8日 - 1945年8月15日/9月2日)は、第二次世界大戦の局面の一つであり、大東亜戦争とも呼ばれています。

アメリカ合衆国やイギリス、オーストラリアなどの連合国においては、主戦場が太平洋地域であったことから「Pacific Theater(太平洋戦域)」が使用され、「the War in the Pacific (Theater)」「WW II-Pacific Theater」「the Pacific Theater in the Second World War」など第二次世界大戦の戦線・戦域名が用いられています。但し、戦時中は「太平洋戦争」という名称が使われたことはなかったそうです。

 

開戦前夜

この太平洋戦争は、、日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明(ハワイ時間12月7日)に、大日本帝国海軍が、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して行った、航空母艦(空母)艦載機および特殊潜航艇による攻撃により始まります。(正確には、時差の差でイギリスに対するマレー作戦が先行していました。)

 

この時の海軍連合艦隊の司令が、有名な山本五十六でした。

 

 

山本五十六は、アメリカの駐在武官も経験した事のある知米家であり、アメリカの国力をその当時の軍部の中では、最も知っている人物でした。

山本は、軍参謀本部に対してあくまで武力ではなく、外交によりアメリカに対抗することを訴え続けますが、海軍省は、戦争反対派の山本を連合艦隊の司令に任命し、中央より追いやります。

 

その後、日本は、三国同盟を締結し、アメリカ、イギリス等の連合国との対決を決意し、これを受けて海軍省は、アメリカ海軍への軍事作戦案を検討します。事ここに至っては、山本も覚悟を決め、アメリカ海軍との決戦を承諾します。

 

海軍軍政・航空畑を歩んできた山本は、対米戦となった場合、開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべきと考えており、1928年(昭和3年)の時点でハワイ攻撃を提唱していました。

山本の構想は、ハワイにいる米国海軍主力の機動部隊を叩くことにより、有利な状況で早期にアメリカと講和することでした。

 

その為に、この時の主攻撃目標は、アメリカ海軍の航空母艦と艦載機、敵航空基地・航空機が副目標となります。工廠(こうしょう)や油槽(石油タンク)などの施設は目標とされませんでした。

 

かくして、第一航空艦隊司令長官である南雲忠一中将指揮下の旗艦赤城および加賀、飛龍、蒼龍、翔鶴、瑞鶴を基幹とする日本海軍空母機動部隊は、最も見つかりにくいアリューシャン列島から南下しハワイ沖200カイリの位置まで移動します。

 

ニイタカヤマノボレ一二〇八

 

12月1日、御前会議において対米宣戦布告が決議され、翌日機動部隊に「ニイタカヤマノボレ一二○八」の暗号電文が「暗号書D」にしたがって5桁数字の符字に置き換えたコード暗号で発信されます。ニイタカヤマ(新高山)というのは当時日本領だった台湾のにあった山の名前です。富士山よりも高い山で、ここでは作戦決行の意味を表しています。そして一二○八(ヒトフタマルハチ)というのは、その日が12月8日であることを意味しています。


日本時間12月8日午前1時30分、機動部隊から第一波攻撃隊として183機、午前2時45分に第二波攻撃隊として171機が発進しました。爆装の艦攻50機が戦艦を、雷装の40機が戦艦および空母を目標とし、艦爆54機は航空基地を、艦戦45機は空中および地上の敵機を目標とします。

 


 

トラトラトラ

7時49分(日本時間3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田が各機に対して「ト」連送「ト・ト・ト」で「全軍突撃」を下命。

7時53分(日本時間3時23分)、淵田は旗艦赤城に対して「トラ」連送「トラ・トラ・トラ」を打電します。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する暗号略号です。この電波は赤城で中継したが、中継を待つまでもなく広島湾にいた戦艦長門(連合艦隊旗艦)でも、東京の大本営でも指揮官機の電波を直接受信します。

 

 

第二波空中攻撃隊として艦戦36機、艦爆80機、艦攻54機、計170機が発進します。54機の艦攻は航空基地を、80機の艦爆は空母および巡洋艦を、36機の艦戦はやはり敵機を目標と定めていました。なお出港中の空母エンタープライズやレキシントンを求めて、付近を索敵するなどの案は排され、真珠湾内にある艦船攻撃に全力が向けられます。

 

その後、米太平洋艦隊の戦力低下に効果があったと認定され、第三次攻撃は行われず、日本機動部隊は、日本へ引き上げます。

 

真珠湾攻撃の明暗

真珠湾攻撃の成功によりアメリカ太平洋艦隊の戦力低下させ、これにより日本軍は西太平洋海域の制海権を確保、その結果として南方作戦を成功裏に終えます。

 

しかし、この作戦により、その後の太平洋戦争の様相を一変させます。

まず、この作戦が、宣戦布告が為される前に行われたため、ルーズベルトが汚名演説で、日本の行為を「恥知らずな蛮行」や「背信行為」と激しく非難するなど、アメリカ政府が真珠湾攻撃を「だまし討ち」と喧伝することによってアメリカ国民の愛国心はさらに高まることとなり、「REMEMBER PEARL HARBOR!」というフレーズはたちまちアメリカ全土を席巻する国民的スローガンとなり、アメリカが本格的に太平洋戦争に兵力を投入するキッカケとなります。

 

更に、アメリカ軍の受けた被害は戦艦などの艦船と飛行場などに集中し、その被害の大きさに比べて、艦船乗組員の多くは上陸していたため人的被害は大きくなかったこと。追加的な攻撃もなされなかったため、乾ドックなど港湾施設の損害も少なかったために、沈んだ戦艦の再生など被害からの復旧の助けとなり、結局、真珠湾攻撃の戦果は、戦艦2隻の沈没だけであり、主目標であった米空母は、全く被害が無く温存されます。

 

当初からアメリカとの国力差から、日本軍は短期決戦を想定していましたが、攻撃目標に含まれていた主力空母2隻を撃沈できなかったことは緒戦でアメリカ軍が持ちこたえる原動力となり、日本軍の短期決戦戦略が頓挫する一因となります。

 

また、米海軍は、この真珠湾攻撃により空母及び航空機の有用性を認識し、主力を戦艦から航空母艦へシフトしていきます。

また、空母エンタープライズ・レキシントンによる、日本本土への空爆や一撃離脱を行うアメリカ海軍機動部隊は、日本軍にとって悩ましい存在であり、これを一挙に撃滅すべく山本長官と連合艦隊司令部はミッドウェー作戦を発動することになります。

 

ミッドウェイ海戦

かくして、米海軍の太平洋での戦力を低下及び、米海軍機動隊の西進を阻止するために、MI作戦(ミッドウェイ作戦)を実行します。

 

ただし、この時点でも海軍の中でも、このMI作戦が、「ミッドウェイ島の占領」なのか「アメリカ海軍空母の撃滅」なのか、その目的がハッキリと統一されずに作戦が決行されることになります。ミッドウェイ海戦の敗戦は、この企図の統一が為されていなかったことが、大きく影響しています。

 

更に悪いことに、日本海軍の暗号Dが大まかに解読されており、米軍の偽の情報により、日本の機動部隊の目標が、ミッドウェイ島であることが明らかとなります。

 

5月27日、「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」4隻の空母を主力とする艦隊がミッドウェー島へ向かって出港します。

一方、ミッドウェイ島が攻撃目標であると知ったアメリカ軍は、海兵隊や航空機を増員してミッドウェー島の守備力を高めるとともに「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」の3隻の空母を中心とする艦隊を派遣します。

 

6月5日、4隻の空母から第一次攻撃隊が発進、ミッドウェー島へ空襲を開始します。

しかし、同時に、4隻の空母は、アメリカ軍の航空攻撃を受けます。被害を最小限にしたものの、基地への第二次攻撃の必要性が迫られていました。

 

基地への第2次攻撃の必要性から艦船攻撃用の装備を解き、基地攻撃用の爆弾に変更しなければいけなくなりました。まさにその時に、敵艦隊の発見の報が届きます。

そこでまた艦船攻撃用の装備に戻すことになります。そうこうしているうちに、ミッドウェー島を攻撃してきた第1次攻撃隊も帰ってきました。

 

司令部は攻撃隊の収容を優先。収容も終わり、まさに艦隊攻撃のために部隊が発進しようとしたとき、アメリカ海軍の空母艦載機が攻撃をしてきたのでした。

 

 

この攻撃により、ほんのわずかな時間で「赤城」「加賀」「蒼龍」の3隻は戦闘不能に陥ります。その後「加賀」「蒼龍」は沈没。「赤城」は味方駆逐艦によって雷撃処分されました。
残った「飛龍」は反撃を試み「ヨークタウン」を大破させますが、アメリカ艦隊の攻撃を受け炎上。「飛龍」も最後は味方駆逐艦による処分で沈みます。

 

日米の好守逆転

かくして、虎の子である空母4隻を僅かな間に失ってしまいます。日本帝国海軍の残りの空母は、2隻のみとなります。

一方、アメリカ海軍は、残る空母のサラトガ・ワスプ・レンジャーを太平洋に投入し、更に新造の空母及び艦上機を大量生産して投入し、完全に太平洋の制海及び制空権を取ることとなります。

 

このミッドウェイ海戦を境に、日米の好守が逆転し、国力の差もあり、徐々に日本は、戦域が縮小し、非戦闘員(沖縄の民間人)を巻き込み日米合計20万人が死亡し、民間人の集団自決など絶望的であらゆる地獄を集めたと言われた沖縄島の戦いにも敗れ、日本本土での決戦か降伏かの二者択一する必要にせばまれます。

 

 

 

この間にも、空爆や広島、長崎への原爆投下が行われ、日本は、1941年8月15日に「日本の一番長い日」を迎えます。

 

 

 

日本の一番長い日

通説では、沖縄が占領され、その後に2発の原爆によりポツダム宣言(降伏宣言)を受理したと言われていますが、実は、日本がポツダム宣言を受け入れたのは、8月9日未明のソ連対日参戦でした。

日ソ中立条約を結んでいたソ連からの突然の宣戦布告と満洲国への侵攻により、大日本帝国には実質上「ポツダム宣言」の無条件受諾による降伏しか選択肢がなくなります。

 

何故なら、日本は、日ソ中立条約が翌年4月には期限が切れても、それまでは有効なはずであったことから、ソビエト社会主義共和国連邦を仲介役として和平交渉を行おうとしていたからです。日本にとって、ソ連は交渉の最期の望みだったからです。

 

8月10日、

午前0時3分から行われた御前会議での議論では、外相の東郷茂徳らが、天皇の地位の保障のみを条件とするポツダム宣言受諾を主張、それに対し陸相の阿南惟幾、陸軍参謀総長の梅津美治郎、海軍令部総長の豊田副武は「ポツダム宣言の受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張し会議は紛糾しますが、最終的に、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより御前会議での議論は降伏へと収束し、10日の午前3時から行われた閣議で日本のポツダム宣言受託が承認されます。

 

日本政府は、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する用意がある事実を、10日の午前8時に海外向けのラジオの国営放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送し、また同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われます。

 

8月12日、
12日午前0時過ぎに連合国は、日本のポツダム宣言受託の承認を受けて、連合国を代表するものとしてアメリカのジェームズ・F・バーンズ国務長官による日本のポツダム宣言受託への正式な返答、いわゆる「バーンズ回答」を行います。

 

この回答の意図は、「天皇の権力は最高司令官に従属するものであると規定することによって、間接的に天皇の地位を認めたもの」でした。つまり、アメリカは、この回答により国体の維持(天皇の存続)を認めたことになります。

 

8月13日

この日の閣議は2回行われ、午前9時から行われた日本政府と軍の最高戦争指導会議では、「国体護持について再照会の返答」をめぐり再度議論が紛糾しますが、これに先立つ午前2時に駐スウェーデン公使岡本季正から「バーンズ回答は日本側の申し入れを受け入れたものである」という報告が到着し、2回目にはポツダム宣言の即時受諾が優勢となります。

 

しかし、連合国とアメリカから「バーンズ回答」に対する正式な回答が、日本よりなされないこと、そして、日本政府はポツダム宣言受諾の意思を日本国民および前線に伝えなかったために、日本政府と軍の態度を懐疑的に見たイギリス軍やアメリカ軍、ソ連軍との戦闘や爆撃は継続され休戦とは言えない状態でした。

 

8月14日

これに答えるために、午前11時から御前会議が開催されますが、依然として阿南陸相や梅津陸軍参謀総長らが戦争継続を主張します。これは、阿南陸相や梅津陸軍参謀総長が敗戦を受け入れれば、一部の過激な兵士によるクーデターが起こることを知っていたからだと言われています。

 

昭和天皇が「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と訴えたことで、阿南陸相も了承し、鈴木首相は至急詔書勅案奉仕の旨を拝承します。

 

これを受けて夕方には閣僚による終戦の詔勅への署名、深夜には昭和天皇による玉音放送が皇居内で録音され、録音されたレコードが放送局に搬出されます。

 

 

なお、昭和天皇によるラジオ放送の予告は、午後9時の全国および外地、占領地などのラジオ放送のニュースで初めて行われます。昭和天皇がラジオで国民に向けて話すのはこれが初めてのことでした。内容として「このたび詔書が渙発される」、「15日正午に天皇自らの放送がある」、「国民は1人残らず玉音を拝するように」、「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」などが報じられたが、どのような内容の放送が行われるかは秘されたままでした。

 

阿南陸相は、14日の御前会議の直後の午後1時に井田正孝中佐ら陸軍のクーデター首謀者と会い、御前会議での昭和天皇の言葉を伝え「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」と切々と説いて聞かせた。

 

これに異を唱える士官の前で、阿南陸相は、最後には「君等が反抗したいなら先ず阿南を斬ってからやれ、俺の目の黒い間は、一切の妄動は許さん」と大喝しています。

 

8月15日

そして、日本の一番長い日が始まります。

8月15日未明には、「聖断」をも無視する椎崎二郎中佐や井田正孝中佐などの狂信的な陸軍将校らにより、玉音放送の録音音源の強奪とクーデター未遂事件が皇居を舞台に発生し、森赳近衛師団長が殺害されます。

 

午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べています。また、このクーデターのさなか、陸軍の暴走を抑えることができなかったことに責任を感じ、阿南惟幾陸相は15日早朝に自決します。

 

師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠しますが、陸軍首脳部・東部軍管区の説得に失敗した彼らは日本降伏阻止を断念し、一部は自殺もしくは逮捕されます。

午前8時前には近衛歩兵第二連隊の兵士が宮城から撤収し、宮内省内の地下室に隠れていた石渡宮相と木戸幸一内府はここを出て御文庫へと向かい、2枚の録音盤は1回目に録音された録音盤を「副盤」、2回目に録音された録音盤を「正盤」として皇后宮職事務室から運び出され、正盤は放送会館へ副盤は第一生命館に設けられていた予備スタジオへと無事に運搬されます。

 

前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突如1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止のためにスタジオに乱入しようとしますが、すぐに取り押さえられ憲兵に連行されます。

そして正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が無事行われます。

 

 

玉音放送終了後、直ちに終戦に伴う臨時閣議が開催され、阿南陸軍大臣の自決の報告があり、阿南の遺書と辞世の句も披露されます。閣僚たちは、1つだけ空いた陸軍大臣の席を見ながら、予想していたこととはいえ大きな衝撃を受けたと言われています。

 

また午後に大本営は大陸命第1381号と大海令第47号にて大日本帝国陸軍と海軍に対して「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令し、積極進攻作戦の中止を命令。8月22日大陸命1388号により外地の陸軍は、支那派遣軍の局地的自衛の措置を除き8月25日0時以降一切の武力行使が停止とされます。

 

無条件降伏と占領

しかし、日本の存続の危機は、ここから更に深まっていきます。

ドイツとは違い、日本は、無条件降伏を承認しましたが、陸軍及び海軍については、一定の数が未だその戦力を維持しており、また、日本の中央政府は機能している状態のために、占領そのものは慎重に行われることとなります。

 

大まかには、米軍とイギリス軍が日本を占領することが取り決められますが、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたヨシフ・スターリンは、北海道の北半分のソ連軍による分割占領をアメリカ政府に提案。この申し出は、ヤルタ会談での合意内容を超えることから米英により拒否され、駐在武官のみを送るにとどめます。

 

しかしスターリンの命令と日本軍のソ連軍進駐拒否により、南樺太・千島へのソ連軍の攻撃は15日の玉音放送以降も継続し、22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生します。

 

北方領土の択捉島は8月28日、国後島は9月2日、歯舞諸島への上陸は9月3日になって行われ現在も占領され続けています。なお、中華民国も軍事占領を検討しますが、イギリス軍とアメリカ軍から正式に拒否されます。

 

17日に鈴木貫太郎内閣は総辞職し、皇族である東久邇宮稔彦王が首相を継ぎ、外地の日本人の引き揚げと武装解除を進めることとなります。

 

また、日本軍の武装解除後に一部の兵士は引き揚げを受け入れず「欧米諸国からのアジアの解放」という、大東亜戦争の理念を信じて、自発的に現地の独立軍と共同して、欧米等に占領されていたアジアの国の解放が為されるようになります。

 

ようやく停戦から2週間後の28日に連合国軍による日本占領部隊の第一弾として、チャールズ・テンチ大佐率いる45機のカーチスC-47からなるアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。同基地を占領した。なお、全面戦争において首都の陥落がないままで、また停戦から首都占領まで2週間も時間がかかったのは、近代戦争のみならず史上でも初めてのことでした。

 

30日午前、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の総司令官として、連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も、専用機「バターン号」でフィリピンから厚木基地に到着。これ以降、日本は、実質このGHQの支配下となります。

 

降伏文書調印式は9月2日に、東京湾(内の瀬水道中央部千葉県寄りの海域)に停泊中のアメリカ海軍戦艦「ミズーリ」艦上で、日本側全権代表団と連合国代表が出席して行われ、これにより日本のポツダム宣言が公式に調印されることとなります。

 

 

次回は、敗戦処理と日本国憲法成立について書きたいと思います。