「光る君へ」 安倍晴明 | meaw222のブログ

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今日は立春、昨日は節分ということで、「光る君へ」安倍晴明と題して書きます。

 

何故、立春、節分と安倍晴明が関係してくるのかは後ほど説明します。

 

 立春と追儺

今日は、立春ですが、この立春とは二十四節季の一つであり、立春と立冬の中間に位置します。

立春は、「立」という漢字が中国語で「はじまる」ことを指しますので、立春は「春のはじまり」という意味があります。

 

 

また、あまり知られていませんが、立春には時期があり2024年では今日2月4日から次の雨水の2月19日までの15日間を指します。

 

良くこの立春を、旧正月と混同している人がいますが、これはある意味では、間違いです。

2024年の旧正月は、2月10日となります。

旧暦は、各月の朔日(1日)が、必ず新月の時となりますが、この二十四節季は、この朔に関係なく振り分けられているために、旧正月=立春とはなりません。(雨水が正月となる場合が多い)

確かに、立春の期間中に旧正月が訪れますが、立春の最初の日=旧正月ではないという事です。

 

ただし約30年に1度、立春が朔と重なり、旧暦1月1日になる年があります。これを朔旦立春といいますが、近年は1954年・1992年、次は2038年に旧正月=立春となるそうです。

 

では、次に追儺(ついな)の儀式とは、何か?

この追儺の儀式とは、宮中行事の一つであり、元は中国で宮中で行われる辟邪(へきじゃ/鬼を追い払う事)の行事であり、立春の前日に行われていたました。日本でも大陸文化が採り入れられた過程で宮中で行われるようになり、宮中年中行事として定められています。

 

昔は季節の変わり目には邪気(鬼)が生じ、鬼がさまざまな不幸や災をもたらすと考えられていました。そのため「追儺」には、季節の変わり目である節分に鬼を追い払い、新しい年を病気や災いのない穏やかな年にする願いが込められていたのです。

 

当初、追儺は豆まきで鬼を払う行事ではなく、「方相氏(ほうそうし)」が、桃と葦を使って鬼を払う行事でした。貴族たちは桃の弓や葦の矢で方相氏を応援していましたが、時代とともにこの追儺は、現在の節分のような形へと変化しました。豆まきの風習はいつから始まったのかは定かではありませんが、江戸時代には完全に定着したとされています。

 

 安倍晴明の実像

ドラマでは、ユースケ・サンタマリアさんが、いつも目の下に隈がある、胡散臭い人物として描かれていますが、実はこれが史実的には一番、安倍晴明に実像に近いのではといわれています。

 

この安倍晴明が、資料に現れるのが960年。天皇が暮らす内裏の側に「陰陽寮」という役所の役人・陰陽師として天体観測をして暦や占いを行っていたと言われています。

 

 

護身剣と将軍剣に刻まれた文様

960年、平安京はじまって以来の大火災が都を襲いました。御所は全焼。宝物殿も焼け落ち、天皇家代々の宝はその多くが失われてしまいました。消失した中には朝廷で最も重要な2本の剣、護身剣と将軍剣も含まれていました。国家守護の力を備えるとされた霊剣です。

 

新たに霊剣を作ることとなりますが、二つの剣に彫られていた肝心の文様が、北斗七星や南斗六星といった星の文様であり、ここに星の力が宿るとされていました。

しかし、肝心の文様について誰も分かる者がいませんでした。その時活躍したのが安倍晴明です。

 

安倍家に伝えられた話によれば、安倍晴明は密かに式神を呼び出しました。なんと安倍晴明は式神から霊剣の文様を聞き出したのです。というのは、あくまで安倍晴明伝説の一つです。

実際には、安倍晴明の専門が、天体であり、当然、この北斗七星や南斗六星を知っていたのでしょう。

 

これ以降も、安倍晴明は、これまでにない革新的な考え方で次々と術を繰り出し、後に都随一の陰陽師として名を上げることとなります。

 

その革新的な方法が、禹歩(うふ)と泰山府君祭でした。

 

 

禹歩(うふ)とは

禹歩(うふ)とは、陰陽師が代々受け継ぐ呪術的な歩き方です。

 

天皇が新築の御所に初めて入る時に、天皇が通る道の邪気を払うという儀式が行われおり、普通、式次第は先例にのっとって決められていました。

しかし、御所が新築されたのは、960年の平安京の大火災で焼けたからでした。安倍晴明は、これまで通りのやり方では火災による邪気を払えないと判断。あえて儀式をアレンジし、この禹歩により清めたと言われています。

 

禹歩は全部で9歩。重要なのはステップの運び方です。そして、同時に唱える「天逢 天内 天衝」という言葉です。これは北斗七星を含む9つの星の名前です。足跡を線で結ぶと北斗七星の形に似ています。禹歩を行うことにより天の星の力で大地の邪気を鎮めようとしたのでした、天皇も貴族たちも、この安倍晴明の行動に納得し、一層安心して新しい御所に入ったそうです。

 

 

泰山府君祭(たいざんふくんさい)

また、989年、幼い一条天皇が重い病にかかってしまいます。通常こう言う場合、僧侶が尊勝御修法(そんしょうみしほ)で仏の力を使って祈祷をし、病を退散させるのが当時の代表的な儀式でした。

 

しかし、安倍晴明がおこなったのは、「泰山府君祭(たいざんふくんさい)」とう方法でした。泰山府君とは、閻魔大王に並ぶ地獄の10人の王の一人であり、人間すべての寿命を記した帳簿を持ち、生死をつかさどるとされています。そして、その帳簿を書き換えることにより、長生きさせるという方法です。

 

晴明が行ったその「泰山府君祭」は、前日まで予定されていた密教修法の「尊勝御修法(そんしょうみしほ)」に代わるものとして執行されます。つまり、「泰山府君祭」が密教との競合・吸収のなかから晴明自身によって開発された儀礼であり、本来僧侶が行う儀式を晴明が行う事となったようです。

 

幼い一条天皇は、この儀式の後に健康を回復します。すると、その後、平安貴族の間では泰山府君が大流行り。長く生きたいという誰もが抱く願いが後押しをして、安倍晴明の名は、大いに高まることとなります。

 

 

平安京に鳴り響く追儺の声

そして、阿部晴明の名を貴族の身ならず、平安京に轟かせたのが、前に書いた追儺の儀式でした。

 

今の様に科学が発達していなかった平安時代では、天変地異や疫病などは全て鬼の仕業と信じていました。災いを避けるためには何より鬼を追い払う必要があります。平安京の人々にとって追儺(ついな)は、きたる年の平穏を祈る大事な行事でした。

 

しかし、1002年の大晦日(節分の日)、朝廷は追儺をとりやめると決定しました。1週間程前に天皇の母が亡くなったばかりで、朝廷は賑やかな行事を控えて喪に服することになったのです。

 

この年は、運悪く疫病や飢饉、洪水などが相次いてでおり、平安京の人々は、例年以上にこの追儺に期待していました。

そこで安倍晴明が立ち上がりました。朝廷がやらないのならばと、安倍晴明は自分の屋敷で追儺を執り行ったのです。すると、京のいたるところから人々が続々と安倍晴明の屋敷に集まってきました。

そして、安倍晴明の私邸では、集まった人々が「鬼やろう」と口々に叫び、その声は平安京全体に広がったと記録されています。

 

安倍晴明の神格化

貴族から民衆まで、陰陽師の術で心の平安を守った安倍晴明。この後、平安京の闇を払うヒーローとして語り継がれるまでになっていき、その死後は、屋敷跡に晴明神社が建てられて神格化され、数々の伝説が生み出されるようになります。

 

しかし、安倍晴明のユニーク所は、この時すでに陰陽寮の役人ではなくフリーの祈禱きとう師、占術師として活動しており、陰陽寮という役所とは無関係に、自らの術や技でのみ活動しうる、「呪術使い」というのが安倍晴明の真実の姿であると言えます。

 

安倍晴明は、これらの功績を藤原実資さねすけにわざわざ報告したりするように、晴明自身が自らの陰陽師としての功績を宣伝してまわっていたという、したたかな一面も見うけられます。

 

このように貴族社会に広がっていく安倍晴明の「名声」が、後の伝説化のベースになったことは、充分考えられます。

また、時の権力者である藤原道長の専属の占い師ともなっており、朝廷内で勝ち組となっていたことも、後の伝説に大いに影響しています。

 

陰陽師としての安倍晴明は、彼の個人的な技能や呪力で貴族たちとの私的な関係を結び、その救済を担い、まさにひとりの「宗教者」として生きていたのです。ここにこそ安倍晴明の実像を見ることができます。