今日は、「光る君へ」第4話「五節の舞姫」について書きます。
その前に、「セクシー田中さん」を巡る件ですが、少し言葉足らずの内容があったので、追記しておきます。
著作権には、著作者が譲渡又は貸出できる著作財産権と、著作物ではなく著作者に付帯する著作者人格権と言うものがあります。
この「著作者人格権」について争われた代表的な裁判例が、「キャンディキャンディ事件」と呼ばれるものです。
これは、1975年に「なかよし」(講談社)で連載を開始した有名な漫画・アニメ「キャンディ・キャンディ」を巡る裁判です。
このアニメ「キャンディ・キャンディ」は、登場人物等を作り出した原作者・水木杏子氏と作画を担当した、いがらしゆみこ氏との間にキャラクター商品販売について争われた案件です。
水木杏子氏は、「すでに完結した作品」と、リメイクや再ブームビジネスにことごとく反対。
これに対していがらし氏が強引にビジネスを推し進めてしまった結果、最初の訴訟が始まりますが、これが1997年、水木氏による「キャンディグッズ販売の停止訴訟」です。
いがらし氏は、この裁判で「そもそも水木に著作権はない」と主張、原作者としての水木氏の存在を全否定します。
一方、水木氏は、「キャラクターの価値は絵だけでなく人格にある。その人格を担当した原作者にも著作権がある」と反論します。
誰もが口ずさむ「そばかす、だって〜」のアニメソングの作詞は水木杏子氏が担当しており、もとより主人公キャンディのイメージ作りに深く関与しているのは明確です。
裁判所による審議が行われ、裁判所は原作者・水木杏子氏の訴えを認めキャラクターグッズの販売差し止め判決を下します。
いがらし氏は判決直後、自身のホームページで裁判への不満と、相変わらずの原作者否定を行い、「キャンディの権利は自分にある」という主張を崩さず、今後も好き勝手にやると宣言します。
最終的には、水木氏は講談社から「キャンディ・キャンディ」の出版契約を解除、単行本販売を停止し漫画アニメ「キャンディキャンディ」を永遠に封印してしまいます。
原作者・水木杏子氏にとっては、大切な作品ゆえに単に営利目的の使用が許せなかったのでしょう。
ここまで、読んでどの様に感じましたか?
今回のケースに極似していると思いませんか。(原作者の否定、SNSによる意思表明等)
今回も妥協点が見いだせずに平行線を辿り、結局は、なんの反省もなく同様の人権侵害が続くのでしょうか。
この様な紛争に対しては、放送界ではBPO(放送倫理・番組向上機構)というNHKと民放各社が設立した第三者機関が存在します。
この機関は、放送倫理検証委員会、放送と人権等権利に関する委員会(放送人権委員会)、放送と青少年に関する委員会(青少年委員会)と言った3つの部会で構成されています。
今回のケースは、放送と人権等権利に関する委員会(放送人権委員会)が担当となる部署になりますが、このBPOでは係争中の事項を除き、当事者の訴えにより審議が開始されます。
ただし、このBPOの独立性は現状では十分に担保されておらず、放送業界関係者による組織のため「お手盛りである」といった問題点もあります。
しかし、2007年12月4日衆議院総務委員会において、BPOの飽戸弘理事長が「BPOの役割は、番組を監視して罰するところでなく、あくまでも放送事業者自身が自主的にさまざまな問題を解決していく、そのためにBPOは応援していく、視聴者と放送局の仲介をするところであるということを、国民の皆さんにも周知して知っていただくということが必要だと思います」と述べているとおり、今回のケースについて放送局の人権侵害が無かったのかを問ういい機会になるとは思いますが。
先に書いた通り、今回のケースにおいて、このBPOに提訴できるのは、著作権の共同所有者であり、故人の代理人である出版社(小学館)だけであり、小学館が出版社の矜持(契約する作家の育成と保護)を示し、日本テレビと向き合っていけるのか注視したいと思います。
また、今この時だからこそ、BPOの存在理由を知らしめる場ではないかと考えます。BPOが、この問題に深く関わってくれることを切に望みます。
前回に続き、今回もこの話題を書いたことは、くどいと思われる方もいると思いますが、ドラマを愛する者としては、ドラマ制作において今回の様な悲しい結末が無いことを願っており、二度と同じような事が繰り返されないように原因の究明と今後の処置が十分なされることを願って書かせてもらいました。
さて、本題ですが、第4話では、やっとまひろと道長が出会い関係が始まります。
しかし、この時点でも、お互いの本当の姿や状況が判明していません。
そして、第4話の最期のシーンで、まひろは道長の本当の姿とまひろの母を殺した道兼の弟であることに気が付き、あまりの運命のむごさに愕然となります。
この第4話では、まひろと道長の関係と運命、花山天皇、そして題名にもなっている「五節舞」が中心となっています。
まずは、花山天皇から説明していきます。
花山天皇の実像
ドラマでは、花山天皇を本郷奏多さんが、エキセントリックかつ奇人として演じています。
資料でも、この花山天皇の奇行が書かれたものが多数ありますが、果たして、実像はどのような人物であったのか?
父親の冷泉天皇と同様に花山天皇も、『大鏡』『古事談』に花山天皇が行った奇行が多数書かれています。
例えば、ドラマでも登場しますが、天皇に即位する前、高御座に美しい女官を引き入れ、性行為に及んだという話、出家後も好色の趣味を止めることなく女性と関係を持ち、「長徳の変」と呼ばれる事件を引き起こした等、また、同時期に母娘の双方を妾とし、同時期に双方に男子を成しており、その2人の子を世の人は「母腹宮」(おやばらのみや)、「女腹宮」(むすめばらのみや)と呼んだなどの逸話が存在します。
しかし、この「大鏡」は、30年後、「古事談」に至っては160年も後に書かれたもので、かつ、作者と言われているのが、「大鏡」では源顕房、「古事談」では村上源氏出身の刑部卿源顕兼(源顕房の5代目の子孫)と言われており、何方も藤原道長の息のかかった人物であることから、その信ぴょう性にはかなり疑問のある資料です。
但し、藤原実資の日記で中立的な立場から書かれたと言われている「小右記」には、即位式において王冠が重いとしてこれを脱ぎ捨てたと記されており、他の天皇とは違い自由な人物であることがうかがえます。
また、道長が、朝廷を独占するキッカケとなった「長徳の変」の顛末から、女性関係ではかなりルーズであったことは確かなようです。
その一方で、絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造は芸術性の高いものであったと言われています。
また、政治面では、外叔父藤原義懐と乳母子藤原惟成の支えの元に、荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化、武装禁止令、物価統制令、地方の行政改革など革新的な政治を行っており、全体としては善政を行っています。
総じて、花山天皇は、政治基盤が弱かったために、この様ないい面は伏せられ、奇行のみが逸話として残されるようになります。
五節の舞
ドラマでは、この五節の舞を4名で行われています。
非常に絵が美しく、かつ、上からのシーンもあり、かなり雅な雰囲気が楽しめました。
選ばれた舞姫は練習に明け暮れ、新嘗祭の前々日である丑の日の夜に宮中へ参上し、「帳台試(ちょうだいのこころみ)」と称して常寧殿にて天皇に練習を披露し、前日の寅の日に「御前試(おんまえのこころみ)」と称して清涼殿にて天皇に練習を披露するなど、かなり厳しい練習が行われたと言われています。
この練習の厳しさは、ドラマでも描かれています。
この「五節舞」は、天武天皇の時代、吉野に天女が現れて袖を五度振って舞ったのが由来と言われています。
この5度袖を振るのは呪術的要素が含まれており、この五節舞は、神儀の一つとして舞われたものです。また、この5度袖を振るために「五節」+「舞」と呼ばれるようになったそうです。
大嘗祭では午の日に行われる公式の晩餐会で行われ、舞姫はここで舞を披露します。元来は庭上の舞台で行っていましたが、平安中期以降、雨儀( 雨天の際に、朝廷の儀式を略式にすること)に準じて内裏の宮殿内で舞ったと言われています。
平安時代の衣食住
最後に、ドラマを見るうえで、より楽しめるように平安時代の衣食住について軽く触れてみたいと思います。
平安時代の衣装
まず、衣装ですが、男性の場合は、束帯(そくたい)、衣冠(いかん)、直衣(のうし)、狩衣(かりぎぬ)の4種類あります。
束帯、衣冠は、正装であり、特に束帯は、男子が参内する際に着用した正式の服装です。
天皇は即位以外の晴れの儀式に用いる。臣下は参朝の時を始め、大小の公事には必ずこの服装をすると決められています。衣冠は束帯を略式にしたもので、はじめは宿直装束(とのいそうぞく/泊まりの仕事)として用いられたが、参朝などの時にも着用されるようになります。
一方、直衣、狩衣は、外見上は衣冠とほとんど同じですが、「直(ただ)の衣」の意味より平常服とされ、色目・紋様も自由とされています。
頭に載せる冠(かんむり)と烏帽子(えぼうし)で正装か普段着か見分けることが出来ます。
女性の場合には、十二単のみですが、十二単は重ね着されており重量が重く動きずらいために、通常は、普段は宮中の女性や公家の女性は、単衣と袴と袿(うちかけ)の3枚だけだと言われています。
この袿(うちかけ)は、室町時代の武家では婚姻時に、婚礼衣装が白打掛(袿)に小袖を着用する様式が確立され、この婚礼衣装は後世の白無垢姿の原型になっています。
この十二単と袿の違いは、ドラマでも確認できると思いますが、十二単は、一番外に着る衣服が唐衣と呼ばれる丈の短い上衣(腰の高さ)と背後にレース条の裳(も)が付いています。
この正装の状況は、天皇の即位の礼で見ることができます。
平安時代の食事と建物については、長くなりましたので次回書きたいと思います。