「光る君へ」 平安時代とは | meaw222のブログ

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今日は、「光る君へ」平安時代とは について書きます。

 

今回の大河ドラマ「光る君へ」は、今までどの映画ドラマで殆ど取り上げられることのない平安時代中期が舞台となっています。

 

確かに、高校の歴史等で勉強をしたと思いますが、この平安時代中期については、大きな戦争もなくあまり覚えていません。

今回、「光る君へ」シリーズを書くに当たり、当初は、資料を調べるのは苦労しないのでは(量が少ないため)と思っていましたが、調べれば調べるほどどんどんと深みにはまっていくような気がします。

 

思った以上に資料が多く、かつ、それぞれが関連しており調べれば調べるほど、どんどんと範囲が広がっていきます。

最終的には、この平安時代の後の鎌倉時代、室町時代そして戦国時代が、この平安時代の出来事に行き着くことに気が付き驚いています。

 

では、こんな平安時代とはどんな時代であったのか?

 

  平安時代とは

平安時代とは、延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(現京都府京都市)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指します。縄文時代や弥生時代を除くと、平安時代のおよそ400年間は日本史で最も長い期間の時代です。

 

以下の通り、平安時代を、大きく分類すると3つの期間に分類されます。

 

 

 

遣隋使、遣唐使による中国の先進的知識の輸入

まず最初に、この平安時代に大きく影響を与えた遣隋使、遣唐使について説明したいと思います。

 

平安時代の律令制度及び仏教は、遣隋使と遣唐使により日本へ輸入されることとなります。

しかしながら、遣隋使の第1回目は、日本にとって屈辱的なものとなります。

その為に、「日本書紀」にはこの時の事が全く記載されていません。

 

「隋書俀国伝」によると、

派遣されてきた使者に対して「隋文帝」は「倭国」の様子を聴きます。
この時使者は「俀王は天を以って兄となし、日を以って弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して座し、日出れば便ち理務を停、いう我が弟に委ねんと」と言っています。これに対し「隋文帝」は「大いに義理なし、改めよ(ふざけるな、思い上がるな)」と言っています。

 

つまり、第1回目の遣隋使は、隋に政治の行い方が分かっていない未開の国と判断されたのか、返されてしまったようです。

 

この遣隋使を送る主導者となったのが当時推古天皇の摂政として蘇我馬子とともに政治の補佐をしていた聖徳太子でした。

 

聖徳太子は、第2回目の遣隋使として小野妹子を遣わし、有名な手紙を「隋文帝」に差し出します。聖徳太子の手紙には『日出づる処の天子、書を日没する天子に致す、恙無(つつがな)しや』(日が昇るところにいる天子が日が沈むところにいる天子に手紙を送ります。お元気ですか)と書かれていました。

 

中国の皇帝のことを示す唯一無二の特権的な称号であったはずの天子の称号を、辺境の一小国にすぎないはずの倭国の王が僭称(せんしょう/身分を超えた称号を勝手に名乗ること)していることを知って激怒したと伝えられています。

 

しかしながら、大使の小野妹子を処刑することはなく、それどころか日本に対して裴世清という使節を遣わします。

これには、その当時の国際情勢が影響したもので、隋は朝鮮の高句麗と戦闘中であり、かなり苦戦を強いられていた為でした。言わば、そうした漁夫の利のような立場から、宗主国と従属国といった冊封体制の軛(くびき)から解き放たれ、独立した国として認められる結果となります。

 

かくして、小野妹子は、各種の律令制の文書と仏教の経典を日本へ持ち帰ります。

この帰国時に、非常に不思議な事件が発生します。

 

なんと小野妹子は、煬帝からの返書を紛失するという大失態を起こしてしまいまいます。

小野妹子は、これにより流罪となりますが、後に政治の中枢で働いていることから、これは、小野妹子が紛失した国書が日本にとって不都合なことが書かれていたから聖徳太子の命令によって捨てられたという説も。国書が見つからないことから全てが闇の中ですが。

 

遣隋使はその後第5回まで送られ律令制度や仏教の国教化に資することとなりますが、その後これも終わりを迎えます。

618年に隋が、当時の新興勢力だった唐に滅ぼされてしまい、日本は外交先を唐へと変更、遣唐使(空海、最澄等僧を含む)を派遣する事で、朝廷は大陸の進んだ技術や知識などを取り入れていきます。


遣唐使は、630年に犬上御田鋤(いぬかみのみたすき)を大使する第一回から、約260年の間に19回続けられ、唐の文化や制度、そして仏教の日本へので伝播に大いに貢献しますが、894年、菅原道真が唐の衰退や渡海の危険性を理由に再考を求め、以後廃止されます。

 

この遣唐使の中止は、その後、国風文化を生み出すこととなります。

 

平安時代初期 天皇中心の時代(皇親政治)

平安時代は、桓武天皇の平安京へ遷都することから始まります。

これは、奈良時代の後半、律令制度のほころびが数多くみられ、改革が必要とされたためです。

 

桓武天皇の改革を引き継いだのが嵯峨天皇であり、藤原冬嗣を重用し、律令制度を更に改革します。

また、遣唐使として中国に渡来した空海や最長が、持ち帰った新しい仏教を広めることとなります。最澄は比叡山延暦寺を、空海は高野山金剛峰寺と京都の教王護国寺(東寺)を与えられ研鑽に励み、仏教の国教化が弾むこととなります。

 

平安時代中期 貴族中心の時代(摂関時代)

しかし、この天皇中心の時代は、あまり長く続くことはありませんでした。

嵯峨天皇の死後、存在感を増したのが、「光る君へ」で中心的な登場人物達となる藤原冬嗣の子孫である藤原北家です。

 

冬嗣の子が、藤原良房は皇族以外で初の摂政に就任し、良房の子の基経は「阿衡の紛議(あこううのふんぎ)」で宇多天皇をねじ伏せ、藤原北家の力を世に示します。

 

藤原基経が亡くなると、宇多天皇は権力を藤原北家より取り戻すために、学者の菅原道真を登用し藤原氏などの力を抑えようとしますが、最終的にはこれに失敗し、更に藤原北家の力が更に高まることとなります。

 

そして、天皇家に娘を嫁がせ、その子の父として政治(外戚政治)を行う摂関政治の仕組みを確立しました。

 

一方、この摂関政治が行われていた中央政治とは別に、地方では新しい勢力が生まれつつありました。

この時期に、地方は国司(官僚)による略奪に苦しみます。この為、地方の豪族は、治安の悪化や国司の横暴に対抗するため武装する者も現れ、これが武士の始まりであると言われています。

 

地方では、武力を有した一部の武士による反乱が多発します。その代表が平将門と藤原純友であり、彼らの反乱は鎮圧されますが、摂関政治期を通じて地方では、この先、武士が成長するようになります。


摂関政治が確立すると、今度は藤原北家内部で権力闘争が始まります。

そして、この戦いに勝利したのが、「光る君へ」の主人公の一人となる藤原道長でした。

道長の子である頼通とともに80年にわたって摂政・関白として国政を動かします。

 

この道長、頼通による権力の集約化により、一時的な平和が訪れることにより、遣唐使が中止されていたこともあり、漢文学よりも仮名文学が流行ることにより、紫式部や清少納言に代表される女流作家が登場することになります。

 

平安時代後期 武士の台頭(院政)

中央では白河上皇が政治の主導権を藤原氏から取り戻し、院で政治を行います。

白河法皇になり院政を行うことになりますが、この時に主に寺の強訴などに対応するために北面の武士が創設されました。

 

北面の武士は、院御所の北面(北側にある部屋)を詰所としていたことから、この様に呼ばれるようになります。

中でも、平正盛をはじめとする伊勢平氏は、この院政と深く結びつき、武士としては異例の昇進をすることとなります。

 

やがて、他の貴族たちも武士の力を積極的に利用するようになりました。そして、京都で政権争いである保元の乱や平治の乱が起きます。

 

この戦いに勝利したのが、平清盛でした。

 

平治の乱に勝利した清盛や彼の一族は、高位高官を独占。平氏政権を打ち立てますが、平氏の専横に反感を持つ人々は、以仁王の令旨をきっかけに各地で挙兵、その上に、平清盛が亡くなることにより、平氏は求心力を失い、体勢を立て直せないまま、源氏に都を追い出されます。

その後、大河ドラマ「鎌倉殿と13人」に描かれている通り、源氏の中でも関東を制圧した源頼朝が同族の源義仲、平氏の残党、奥州藤原氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開き平安時代は終焉することとなります。

 

因みに、伊勢平氏の家紋が、揚羽蝶(あげはちょう)であり、甲冑の上に着る陣羽織の背中にこの家紋を入れていたのが、かの有名な織田信長です。

信長は、この伊勢平氏の子孫を名乗っており、官位を申請する時にも「平 信長」と登録していたほどです。

しかし、残念ながら、織田信長の家系は代々弾正台の官職の家であり、この弾正台は、北家利仁流が独占していた役職であることから、信長は藤原家の子孫であることは間違いないそうです。

 

 

  十二単と舞

 

十二単とは

平安時代といえば、まず最初にイメージされるのが、この十二単(じゅうにひとえ)だと思います。

しかし、この十二単は、実際に12枚の着物を着るわけではなく、たくさん着ているように見える重ね衿(伊達衿)を着用しています。

 

十二単は、平安時代後期に成立した公家女子の正装であり、十二単という名称は、文献上女房装束(にょうぼうしょうぞく)、裳唐衣(もからぎぬ)等と呼ばれていた装束の後世の俗称です。

 

また、五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)とも呼ばれています。

これは、この装束が「袴・単・五衣・打衣・表着・唐衣・裳」から構成されていることに由来している。


十二単の構成は、上衣から次の通りです。

裳(も)    :表衣の上から腰の後ろ半身のみを覆う。平安時代前期までは巻きスカートの 

         ように着用されたが、重ね着によりこのような着用方法が不可能となったた

         め、現在の形となった。

唐衣(からぎぬ):裳と共に装束の最上層。背子の変化したもので、短い袖がある。皇后の唐衣

         が白系統となるのは後世からのことである。

表衣(うわぎ) :裳の内側の最上層。
打衣(うちぎぬ):砧(きぬた)で打って艶出しをすることからこの名がある。表衣の下に着る
袿(うちき)  :打衣の下に数枚重ねる。最盛期には十数枚重ね着されたが、平安時代末期か

         ら5枚に落ち着いた。
長袴(ながばかま):裳の退化による前の開きを覆うために登場した。着用者の年齢によって色

          を異にする。
単衣(ひとえ):装束の肌着にあたる。

 

詳しくは、下の動画を見ると詳しく知ることができます。

この動画は、12分と長いのですが、非常に分かりやすい動画となっています。

 

 

上の動画を見て、分かると思いますが、この十二単は、袖口が段々と短くなっており、それぞれの衣装の色が重ねられており、また、前合わせの色合わせが、この衣装の命となっており、その色使いがそれを身に付ける人のセンスが現れます。

 

十二単は、非常に艶やかで、よく知られていますが、意外とその構成を知っている人は少ないのではと思います。ましてや、この十二単を着たことがある人はごく僅かではと思います。

 

 

平安時代の舞

そして、この十二単を着て舞われるのが、「五節舞」と呼ばれるものです。

日本の雅楽では唯一、女性が演じる舞で大嘗祭(天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀)や新嘗祭(収穫を神に感謝する宮中祭)に、この舞が行われます。

 

通常、この「五節舞」は、大歌所の人が歌う大歌に合わせて、4 - 5人の舞姫によって舞われます(大嘗祭では5人)

 

舞姫は、公卿の娘2人、受領・殿上人の娘2人が選ばれるか、または、女御が舞姫を出すこともあったそうです。

 

大嘗祭では公卿の娘が3人になります。古くは実際に貴族の子女が奉仕し、大嘗祭の時には叙位にも与かり(あずかり)。清和天皇皇后の藤原高子も后妃になる前に清和天皇の大嘗祭で舞姫を奉仕したと言われています。

 

もっとも貴族女性が姿を見せないのをよしとするようになった平安中期以降、公卿は実際に娘を奉仕させず、配下の中級貴族の娘を出したそうで、「源氏物語」少女巻には、光源氏が乳母子の惟光の娘(のちの藤典侍)を奉仕させたと描かれており、これを反映したものであると思われます。

 

明治天皇の大嘗祭では五節舞は行われず、大正の大礼で復興されます。この時、新たに振り付けが定められ、また舞姫装束は近世のものに平安朝の記録の様式を折衷したものが定められたそうです。

舞姫は華族令嬢6人が選ばれるが、1人をスペアとし、5人で舞われました。

ただし例年の新嘗祭では行われず、大嘗祭後の「大饗」で行われるのみです。昭和大礼時にも舞および装束が改定されています。平成の即位の礼では可能な限り昭和大礼を踏襲したと言われています。

 

 

また、同じように十二単を着て舞う「舞楽」に「萬代舞」(よろずよまい)と言うものがありますが、これは伊勢神宮独自の「舞楽」ですが、「令和」改元となった5月1日、三種の神器の鏡が納められている伊勢神宮神苑の特設舞台で新天皇のご即位を祝う為に、この「萬代舞」も奉納されています。

 

この様に、平安時代の舞は、現在でも脈々と受け継がれています。

 

さて、「光る君へ」の全体の予告編で、吉高由里子さんが演じるまひろが、雅楽を舞う様子が一瞬映し出されていますが、このシーンは、第4話辺りに登場するものであり、ここで舞われる雅楽は、「五節舞」か「萬代舞」か?

 

5人で舞っていたなら「五節舞」であり、4人なら「萬代舞」。そして、袴の色が赤ならば「萬代舞」。赤以外であれば「五節舞」であると思います。

または、これらの折衷案となるのか? 楽しみです。