「光る君へ」 藤原一族の仁義なき戦いと安倍晴明 | meaw222のブログ

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今日は、「光る君へ」 藤原一族の仁義なき戦いと安倍晴明と題して書きたいと思います。

 

  藤原一族の仁義なき戦い

本ドラマでは、天皇家と摂関家を中心に、平安時代の貴族文化が描かれています。

一般的に、平安時代は、大きな戦争がなく平和で、雅(みやび)で華麗で、洗練された時代というイメージですが、政治の世界においては、親子兄弟で骨肉の争いを行っていたドロドロとしたものでした。

 

 

冷泉天皇の即位

冷泉天皇が即位すると、皇嗣(こうし/皇位継承者第1位の皇族)の座をかけて、円融天皇を支援する藤原実頼、藤原師輔が、源高明と争うこととなります。

結局、藤原北家がこの戦いに勝利して、この後、朝廷における藤原北家の権威が確実なモノとなります。

対立はさらに安和の変(安和2年、969年3月)の勃発をもたらし、源高明が失脚。後ろ盾を失った冷泉天皇は、弟の円融天皇に譲位します。

 

円融天皇の即位と藤原家の権力独占

かくして、11歳で円融天皇は、即位します。この時に、円融天皇は、まだ成人でなかったたに、皇嗣になるのを支援してくれた藤原実頼を摂政として迎え入れます。

 

天禄元年(970)、実頼が病没したので、伊尹が摂政の職を引き継ぐことになります。

しかし、天禄3年(972)8月、伊尹も病に罹り、11月に亡くなる事により、弟である兼通と兼家の権力闘争を引き起こすこととなります。

 

兼通と兼家との権力闘争

さらにこの二人の権力闘争を複雑にしたのが、兼通と兼家の官位でした。

天禄3年(972)の時点において、4つ上の兄の兼通は、権中納言だったのに対し、弟の兼家はその上の大納言だったのです。

二人は、同じ母であったのに、兄弟で官位が逆転していたのは非常に異例なことでした。

 

当然、この様な状況では、誰もが兼家が関白になるものと考えられていましたが、蓋を開けてみると兄の兼通が関白に就任します。

これは、平親信の日記『親信卿記』によると、伊尹の遺命であったと言われています。

 

しかし、貞元2年(977)兼通は重病となります。この時に兼家は大きな失敗をしてしまいます。

 

藤原頼忠の関白就任と兼家の降格

『大鏡』によると、兼家は、兼通が死んだと思い、兼通の屋敷を通り過ぎ、内裏に入って円融天皇に自分を関白にするように直訴します。

この兼家の行動は、いささか軽率であったと言えます。これを知った兼通は激怒し、重病を押して最後の除目(官職の任命式)を執り行います。

その結果、兼通は、藤原実頼の子である頼忠を関白に指名します。同時に、兼家の右大将の職を剥奪し、治部卿に降格させます。ほどなく、兼通は薨御します。

 

因みに、除目とは、、京官(中央官職)、外官(地方官職)の諸官を任命することを言いますが、公卿が清涼殿の御前に集まり、任命の審議、評定を行います。任命は位の低い官から始まり日を追って高官に進むのが順序であったと言われています。

この様子は、第1話のまひろの父である藤原為時の職を決めるシーンで登場しています。

 

この除目は、春の除目(正月11日から3日間)と秋の除目(8月)とがあります。

春の除目では、諸国の国司など地方官である外官を任命します。この事から外官の除目とも言われます。

 

一方、秋の除目では、大臣以外の在京諸官庁の大臣を除く官吏を任命するのを主としていましたが、例外的に一部の地方官の任命も行ったと言われています。この為に、外官の除目の対として内官の除目とも呼ばれたそうです。

その他にも、臨時で行われるものとしては、追儺召の除目、女官の除目(後宮十二司等に仕える女性官人の除目。女官除目)などがあります。

 

この除目の様子は、清少納言の「枕草子」の中の「すさまじきもの(興ざめのこと)」の中に生々しく描かれています。

 

 

兼家の復権と詮子の入台

関白になった藤原頼忠は、親である実頼が天皇の外戚に成れずに主流から外れたことを、鑑みて頼忠の娘の藤原遵子を入台させます。

 

また、頼忠から、天元元年(979年)に右大臣に勧められた兼家は、これにより復権を果たし、かねてからの願いである、自身の娘である詮子を入台させることにも成功していました。

 

「光る君へ」は、この状況からドラマが始まります。

 

 

円融天皇と兼家との確執

貞元3年(978年)。頼忠の娘・遵子が入内。女御になりました。ほぼ同時期の天元元年(978年)8月。兼家の娘・詮子が入内。11月に女御になります。

 

もともと円融天皇は兄・冷泉上皇の子が成長するまでの中継ぎとされており、そのため多くの貴族が円融天皇に娘を入内させるのをためらっていましたが、藤原兼通は姉・安子の皇子・皇女を養育していたこともあり兼通の娘である媓子が入内し、天禄4年(973年)に中宮になっていましたが、天元2年(979年)その中宮媓子が崩御してしまいます。

しかし、円融天皇は、すぐには次の皇后を決めようとはせず、しばらく皇后不在の時期が続きますが、天元5年(982年)。遵子を皇后にします。

 

天元3年(980年)兼家の娘・詮子が懐仁親王(後の一条天皇)を出産していたにも関わらず、遵子を皇后にしたことに腹を立てた兼家は、一か八かの賭けにでます。

 

詮子と懐仁親王を東三条殿(兼家自宅)に連れ帰り、出仕も拒否します。つまり、兼家は自分の要求を押し通すために円融天皇の親王を人質にしてストライキしたのです。

 

これに対して、円融天皇も兼家と対立します。

内裏が2度火事になっても兼家には助けを求めず、関白 頼忠邸や堀河殿(故藤原兼通の屋敷)を里内裏(臨時の内裏)として使用したほどでした。

 

しかし、円融天皇と兼家は、懐仁親王(後の一条天皇)を天皇にしたいという思惑は同じでした。ただし、円融天皇は、懐仁親王を天皇にすることにより自らは上皇となり院政を行うこと。一方、兼家は、天皇の外戚となり権力を維持することが目的だったといわれています。

 

 

藤原実資という人物

 

この円融天皇の時世から道長が権力を握るまでの史実は、非常に詳しく知ることができます。

それは、この円融天皇の蔵人頭(秘書長)であった藤原実資(ふじわら さねすけ/演・秋山竜次さん)が、残した日記『小右記』に中立的な立場で事細かに記載されていたからです。

 

 

実は、道長が残した和歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも 無しと思えば」を後世に伝えたのがこの人の「小右記」です。

 

その逸話は、以下の通りです。

 

時は、1018年、道長の三女・威子(いし)が、後一条天皇の中宮になったお祝いの席でした。

 

当時の天皇は、道長の孫である後一条天皇であり、皇太子はその弟である後朱雀天皇。そして、二人の母である太皇太后が娘の藤原彰子。皇太后が三条天皇の中宮である藤原妍子。さらに、今回の後一条天皇の中宮に威子が立后されたことよにり、皇室の中心メンバーが全て道長の娘と孫で構成されていた状態でした。当に、道長にとっては、この世の春の時代といえます。

 

自邸には多くの貴族が祝いに訪れ、華やかな宴会が催されたと言われています。

この参加者の中に藤原実資がいました。

道長は、ほろ酔い気分でつい本音が出たのかもしれません。

道長は、件(くだん)の和歌を藤原実資に向かって読みます。この場合、藤原実資は、返歌をするのが習わしでしたが、彼は返歌を断り、その代わりに道長の和歌を復唱しようと提案します。

 

これにより、皆でこの和歌が復唱されるわけですが、これは藤原実資が道長に対する皮肉であり、このことにより道長は手痛い思いそして恥ずかしさを感じたのではと思います。

 

以上の逸話が示すとおり、藤原実資は、気難しい性格でありながら、権力に媚びない正義感溢れる人物であると推測されます。

また、道長に比べて家格が上にもかかわらず、威張るわけでもなく、道長に嫉妬するわけでもなく、批判すべき事は批判していたと言われており、道長にとっては煙たい存在でありましたが、同時、最も頼りとする人物でもあったのではないでしょうか。

 

第2話の予告編では、この藤原実資が登場していますが、この後もこの藤原実資の口を通して、史実が語られていくのではと思われます。

 

 

  安倍晴明

安倍晴明と言えば、夢枕獏さんの「陰陽師」の主人公として、映画ドラマでは、この安倍晴明を狂言師かつ俳優として有名な野村萬斎さんが、演じており、有名な陰陽師です。

この安倍晴明のイメージ的には、式神を自在に操り不思議な霊力を持った人物ですが、実際はどのような人物であったのか。

 

ハッキリとした資料はありませんが、延喜21年(921年)に生まれたとされています。

幼少の頃に、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたといわれています。

 

この天文道とは占星術の一種であり、安倍晴明は、この分野のスペシャリストであり、村上天皇に直接占いを命ぜられるなど、出世は遅れていましたが占いの才能は既に貴族社会で認められていたそうです。

 

更に、天徳4年に発生した内裏火災で焼損した霊剣鋳造の功労によって翌応和元年(961年)6月以降に陰陽師(官職)に任じられ、貞元2年(977年)、保憲が没した頃から陰陽道内で頭角を現します。陰陽寮を束ねる陰陽頭に就任することは無かったのですが、位階はその頭よりも上位にあったと言われています。

 

天元2年(979年)、59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行ったりするなど、その後の一条天皇や道長によって重用されるようになります。

 

先述の『小右記』によると、正暦4年(993年)2月、一条天皇が急な病に伏せった折、晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち病は回復したため正五位上に叙されます。また、『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004年)7月には深刻な干魃が続いたため晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り、一条天皇は晴明の力によるものと認め被物(かずけもの)を与えたことなどが記されています。

 

そもそも日本の陰陽道とは、陰陽道と同時に伝わってきた道教に由来する方違、物忌、反閇(呪術的な足づかい、歩き方)などの呪術、風水、医術の一種であった呪禁道なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げたものです。更に、8世紀に入るとこれに密教なども加味されることとなります。

 

平安時代では、病気や疫病、地震、火災、天災といった災い事は神の祟りなどが起こすものと考えられ、祟りを起こす神の存在を怨霊(御霊信仰)に例えたり、疫神として恐れており、神祇官の担当外である、これら怨霊や疫病を払う呪術を行う技術者として陰陽師が、朝廷で重視されるようになります。

 

特に、安倍晴明は藤原兼家や道長など当時の権力者とかなり密接に関与していたと言われており、権力闘争の影の立役者として活躍していたと思われます。

 

「光る君へ」では、この安倍晴明を胡散臭いイメージの強いユースケサンタマリアさんが、演じており、夢枕獏さんの小説「陰陽師」や野村萬斎さんが作り上げた不思議な霊力を持つ貴族然としたクールな安倍晴明ではなく、権力闘争の影で蠢く存在であり史実により近いものとなっています。

 

さて、第1話の視聴率が、12.7%と大河ドラマ史で最低の数字となりましたが、これは本来正月に放送される民放番組が、震災により延期となり被ったためでもあります。

 

しかし、第1話の最後5分の衝撃により、ドラマ自体の関心度は高まっており、初回の視聴率がその大河ドラマの最高視聴率であるという過去のデータを覆し、主演の𠮷高由里子さんが言うように、2話以降の視聴率が上がると言った下剋上のドラマとなる可能性も十分に備えていると思います。

 

また、「光る君へ」シリーズでは、「どうする家康」シリーズよりブログの反応が高いことから、多くの人が今関心のあるドラマとなっていると実感します。

 

さて、2話のストーリーは勿論の事、視聴率数も非常に楽しみです。