「光る君へ」 プロローグ | meaw222のブログ

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映画・ドラマの部屋

 

今日は、「光る君へ」プロローグと題して書きたいと思います。

 

「光る君へ」は、昨年の「どうする家康」の後に始まる第63作目の大河ドラマであり、「源氏物語」の作者である紫式部の生涯を描いたドラマとなります。

 

本作は、大河ドラマの中でも平将門を描いた「風と雲と虹と」に次ぐ描かれる時代が古いドラマとなっています。

 

大河ドラマでは、ある歴史上の人物の一生を一年かけて描くのが定番となっています。

今までに描かれてきたものの中で、最も登場したのが戦国時代、江戸時代、幕末時代、鎌倉・室町時代の乱世の時代となっています。

 

特に、戦いが中心となって描かれることが多かったのですが、今作では珍らしくこの戦いが殆ど登場しないであろうと予測されています。

 

過去には、平安時代のドラマも存在しますが、多くは平清盛、源義経など男性が主軸となり、戦いのシーンが多く登場するものとなっています。

「光る君へ」の様な、戦いのシーンが全くない平和な時代と言われた平安後期を描いている大河ドラマは過去に例がありません。

 

また、制作統括者が、内田ゆきさん。チーフ演出者が、中島由貴さん。脚本が、大石静さんと主要の制作者が、全て女性であり、彼女たちが、世界最古の女流作家である紫式部の一代記を一年かけて描くなど、火曜ドラマ「大奥」以来の女性目線で描かれるドラマともなります。

 

  「光の君へ」の時代背景

上にも書いていますが、大河ドラマでは、歴史上の有名な人物を一年をかけて描かれますが、

時代劇とは言え、現在の状況と全く違った状況を描いてしまえば、視聴者はドラマの主人公たちに感情移入がし辛く、結果、ドラマは見向きもされなくなります。

 

したがって、歴史上の人物を描写しながらも、現在の状況とリンクするような「裏テーマ」が隠されていることが多く見受けられます。

前回の「どうする家康」も、「戦争と平和」でした。これは、現在の世界情勢を反映しており、平和は常に戦争(武力)の元でしか存在し得ないパラドクスが隠されていました。 

 

では、今回はどの様な「裏テーマ」が考えられるのか?

ズバリ言って、「天皇制」「女性天皇」がこの「裏テーマ」ではと思われます。

これは、このドラマの時代背景を見ていくとぼんやりと現れてきます。

 

天皇制の始まりは、飛鳥時代(=古墳時代終末期)と言われています。

672年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が、従来の「大王」にかわり天武「天皇」と称し即位しました。

「大王」は、単にヤマト政権内でリーダー的な存在となり、緩い形で各豪族を束ねていましたが、「天皇」は、これとは違い絶対君主(=神)であり、この天皇を中心に中央集権的な体制となっていきます。

 

当初、この天皇制が始まった天武天皇やその妻である持統天皇の時代は、天皇が権力の中心であり、その周りにいる皇子(親王)たちが補佐をし、自ら政治を執り行っており、この時代を皇親時代と呼んでいます。

 

しかし、時代が下がってくると、権力の座が、藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂→道鏡→藤原百川と目まぐるしく変わっていきますが、以前として天皇の権威は不動のものでした。

 

その天皇制も、平安時代に少し様子が変わります。

858年、清和天皇が9歳で即位すると、母方の祖父である藤原良房が、幼少の天皇の政務を代行する「摂政」に就任しました。

そして良房の養子基経は、884年に光孝天皇が55歳で就任すると、成人後の天皇を補佐する「関白」に初めて就任。これが「摂関政治」の始まりと言われています。

 

摂関政治の特徴としては、母方の親戚(=外戚)である藤原氏に、政務だけを任せた点です。形式的に天皇は権威は保った状態のままで、つまり、「君臨すれども統治せず」の体制へと変化していきます。

 

一方、藤原氏も天皇を排除して名実ともにトップに立とうとは考えませんでした。圧倒的な権威を持つ天皇の外戚として、政務を代行・補佐しているからこそ摂政や関白に価値があるのであり、外戚になることにより自らの権威付けもできます。天皇の価値をあえて下げ、貴族の分際で暫定トップに立つことには、何のメリットもなかったのです。

この状態を保ったまま、11世紀前半の平安時代後期には、藤原道長・頼通親子により摂関政治は全盛期を迎えます。

 

この状況は、鎌倉・室町時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代を通しても変わらず、それぞれの天下人は、藤原氏と同様に自ら最高権力者とはならずに、天皇の権威の元で、天下を平定していました。

つまり、藤原道長の時に、今の天皇制の形が完成したと言えます。

 

平安町末期は、藤原道長の歌に、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」とあるように、藤原氏一強の時代であり、戦いの無い平和な時代だとも言われています。

この藤原氏一強の状況は、平和の元でしか咲くことのない「文化」という華が咲き乱れることとなります。

 

これにより、平安朝のこの時代には、紫式部や清少納言に代表される「仮名文化」が栄えます。

 

  紫式部とは

では、「光る君へ」の主人公である紫式部とはどんな女性であったのでしょうか。

 

紫式部の概要

紫式部の本名は、一説には、「藤原香子(ふじわらかこ)」とも言われていますが、実はハッキリと分かっていません。紫式部と言う名前さえ、「源氏物語」の中に出てくる紫の上(若菜)にあやかって紫式部と死後付けられたものであり、生前には、女房名である「藤式部」と名乗っていたとされています。(女房とは、天皇の乳母や侍女など朝廷付の女官を指します。今風に言えば、キャリアウーマン。又は、もっと厳密に言うと、国家公務員上級職の女性を指します。)

従って、本ドラマでは、架空の名である「まひろ」(演・吉高由里子さん)と命名されています。

 

同様に、天禄元年(970年)から天元元年(978年)の間に生まれ、少なくとも寛仁3年(1019年)までは存命したとされていますが、その後の没年は誕生年と同じく、研究者ごとに様々な説が出されるますが、どれも確証はなく不明です。

 

紫式部について分かっていることとしては、藤原北家良門流の越後守・藤原為時(岸谷五朗さんが演じます)の娘で、母は摂津守・藤原為信女ですが、幼少期に母を亡くしたとされています。本ドラマでは、母である藤原為信女は、「ちやは」とされており国仲涼子さんが演じることとなっています。

 

因みに、何故、この時代の女性の名が資料に残っていないかと言うと、その当時(平安時代中期)の日本では、女性の名前(諱)は夫にしか明かさないという風習があったからです。その為「○○の妻(母)」や「○○の娘」のような呼び方をされており、これがそのまま資料に書かれており、故に本名が不明となっています。

 

同母の兄弟に藤原惟規がいます。姉がいたこともわかっています。

三条右大臣・藤原定方、堤中納言・藤原兼輔はともに父方の曽祖父で、一族には文辞を以って聞こえた人が多いと言われています。

紫式部の父親と言われいる藤原為時(ふじわらのためとき)も、平安時代中期の漢詩人であり、紫式部の執筆活動に大きな影響を与えたと言われています。

 

父の為時は、冷泉(れいぜい)天皇の第一皇子・花山(かざん)天皇(演・本郷奏多さん)の即位とともに、式部丞(しきぶじょう)・蔵人(くろうど)に任命されます。(現在風に解釈すると文部省から出向した天皇付き職員)

 

しかし、花山天皇退位に伴って失職し、その後、越前守・越後守に任命されることとなります。文才に恵まれ、宮廷詩人としての地位を確保していた為時は、藤原道長(演・柄本佑さん)やその息子・頼通(よりみち)など、上級貴族たちが集まる詩会などにも、顔を出していたそうです。

 

紫式部は、幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多く残っています。

 

また、紫式部の文筆活動に影響を与えた人物がもう一人おり、それが「蜻蛉日記(かげろうにっき)」を書いた藤原道継の母であると言われています。

 

この「蜻蛉日記」は、夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾について書き、また唐崎祓・石山詣・長谷詣などの旅先での出来事、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についての記事が書かれています。

掲載の和歌は261首。なかでも「なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」は百人一首の一句となっています。

女流日記のさきがけとされ、『源氏物語』はじめ多くの文学に影響を与えた。また、自らの心情や経験を客観的に省察する自照文学の先駆けとしても有名です。

 

紫式部の結婚と「源氏物語」

『源氏物語』解説書の『河海抄』『紫明抄』や歴史書『今鏡』に依ると、紫式部は永延元年(987年)の藤原道長と源倫子(演・黒木華さん)の結婚の際に、倫子付きの女房として出仕したと言われています。

 

長徳4年(998年)頃、親子ほども年の差があり、又従兄妹でもある山城守・藤原宣孝(ドラマでは佐々木蔵之介さん)と結婚して長保元年(999年)に長女・藤原賢子を儲けますが、この結婚生活は長く続かず、間もなく長保3年4月15日(1001年5月10日)に宣孝と死別します。

 

通説では、「源氏物語」は、夫である宣孝と死別による悲しみを紛らわせるために書き始めたと言われていますが、最近の研究ではこれは違うのではないかと言われています。

 

「新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集」(家系図)によると、夫の死後、紫式部は、藤原道長妾であるとの記述があることから、男女の仲であったと推定されます。(「紫式部日記」にもそれらしい記述がみられます。)

事実、紫式部は、その後、道長の口利きで道長の娘で一条天皇中宮の彰子に仕えており、この時に、「源氏物語」を書き始めたと思われます。

 

平安時代の中期から後期には、紙は貴重品であり、それなりの後ろ盾が無ければ、おおむね100万文字・22万文節400字詰め原稿用紙で約2,400枚に及び、およそ500名近くの人物が登場する小説で全54巻きもの紙を調達できるはずもなく、その制作の裏には、当時の最高権力者であった藤原道長と「源氏物語」の愛読者である一条天皇の庇護が必要であったと思われます。

 

  藤原道長

「光る君へ」の紫式部(まひろ)と共に中心的な登場人物となるのが、この藤原道長です。

 

道長の家族関係

道長は966(康保3)年、藤原兼家(かねいえ/演・段田康則さん)と、時姫(ときひめ)の三男として生まれます。二人の兄は、後に関白となり、同じ母から生まれた姉二人は、皇太后となっています。

986(寛和2)年に、兼家は道長の姉の一人、詮子(せんし/演・吉田羊さん)が生んだ子を「一条天皇」(演・塩野 瑛久さん)として即位させ、自分は摂政に就任します。父が摂政になったこともあり、道長は兄たちとともに、朝廷内で順調に昇進を重ねていきました。しかし、道長は、道隆(演・井浦新さん)・道兼(演・玉置怜央さん)という有力な兄に隠れ、一条天皇即位前半まではさほど目立たない存在だったと言われています。

 

長徳の変と枕草子

しかし、兼家の死後に摂関を継いだ兄たちが相次いで病没すると、道隆の嫡男・伊周(これちか/演・三浦翔平さん)との政争に勝って政権を掌握。さらに、長徳2年(995年)長徳の変で伊周を失脚させ、左大臣に昇進します。

 

この長徳の変とは、当初、長兄の道隆が朝廷で実権を握っていましたが、その道隆が重度の糖尿病で死亡、その後は、次兄の道兼が権力を継承しますが、この道兼も数日後にはしかで死亡します。

そこで、長男である道隆の嫡男である伊周とその弟である隆家ら中関白家が実権を握ろうとします。この時に、前の天皇であった花山天皇(演・本郷奏多さん)は退位し、一条天皇が天皇となり、伊周の姉である藤原定子(ていし/演・高畑充希さん)が、この一条天皇の中宮になったこともあり、中関白家が隆盛を極めることとなります。

 

しかし、この状況が、非常にお粗末な事から反転します。

藤原伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘「三の君」と同じ屋敷に住む「四の君」に花山法皇が通いだしたところ、それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談します。隆家は長徳2年1月16日(996年2月7日)、従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜くと言う事件を引き起こしてしまいます。

 

しかし、当の本人である花山法皇は、出家の身での女通いが露見する体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がり、これを藤原道長が利用します。

まず、実行者である隆家は、出雲に左遷させます。そして、道長の政敵である伊周については、花山法皇を呪祖したとして大宰府に左遷し、朝廷での権力を独占することとなります。

 

この事件に連座して当時懐妊中の定子は、内裏を退出し里第二条宮に還御、その後自ら鋏を取り落飾します。

その後は、屋敷が全焼したり、母親が死亡するなど悲劇が続きますが、その後、長徳3年4月になって伊周らの罪は赦され、また一条天皇は誕生した第一皇女・脩子内親王との対面を望み、周囲の反対を押し退け、同年6月、再び定子を宮中に迎え入れられますが、とても「後宮」とは言えない場所で母屋に鬼がいたという不気味な建物で、かつ非常にお粗末な屋敷に幽閉状態となり、朝廷では冷遇されることとなります。

 

その上に、一条天皇の母である詮子の尽力により、道長の娘の彰子は「中宮」に冊立され、かたや、「中宮」であった定子は、「皇后」へと格下げにされます。

失意の中、定子は、第2子である第二皇女・媄子内親王を出産した直後に崩御します。

 

この定子の女房であったのが、かの有名な清少納言(演・ファーストサマーウイカ)でした。

定子は、明るく朗らかで誰からも愛される性格であったと言われており、清少納言も主人である定子を慕っていたと言われています。

そして、この定子から以前貰った紙に、冷遇した道長らの朝廷の人々を見返すために書かれたのが「枕草子」であると言われています。

 

「枕草子」には、定子とのかつての煌びやかで楽しい記憶のみが綴られています。

しかし、これは、定子や自分がかつて朝廷で中心的な存在であったことを後世に残すことが目的であり、その為に、随所に自慢や鼻持ちならないほどの優位感が漂ってしまう結果となっていますが、これは清少納言の本意ではないと思います。

 

一家立三后と道長の栄華

一条天皇には長女の彰子を入内させ中宮に立てます。次代の三条天皇には次女の妍子を中宮とすしますが、三条天皇とは深刻な対立が生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込みます。

 

長和5年(1016年)彰子の産んだ後一条天皇の即位により天皇の外祖父として摂政となり、翌年には摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固めるも、引き続き実権を握り続けます。

 

寛仁2年(1018年)後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」(一家三后)と驚嘆されます。藤原氏摂関政治の最盛期を築き、この頃に権力の絶頂に上り詰めます。

 

 

以上が、「光る君へ」の主人公について書きましたが、どうですか?

紫式部と藤原道長の人生を辿っていくと、そこに何故、天皇が男系でなければいけないのかが分かると思います。

 

つまり、母系の外戚であれば、男子が誕生すれば、自動的に次期天皇の祖父となり摂政関白として権力を保持し続けることができます。

しかし、「女性天皇」を制度として認めてしまうと、立場は逆転して、男系の外戚にその権力を奪われてしまいます。

そこで、道長は、たまたま男系で繋がってきた天皇家を、あたかも「男系継承」が正統であると固定してしまいます。これが、「女性天皇」の誕生の最大の障害となっています。

 

しかし、天皇制を完成させた道長の動きを見ると、これは、意外と根拠のない事であり、言うなれば「道長の呪い」であると言えます。

 

さて、今日から「光る君へ」が始まりますが、脚本家である大石静さんはどのようにストーリーを展開していくのかが楽しみです。

 

大石静さんは、2006年の大河ドラマ第45作目「功名が辻」で脚本を担当しており、大河ドラマで司馬遼太郎さん原作のドラマは視聴率が上がらないと言われる中、高視聴率を上げた実績もあり、十分期待できます。

 

また、戦闘シーンがないドラマとなる本作では、大石静さんの特徴である、繊細な女性の感情の動きを上手く表現するスタイルが輝くのではと思います。

そして、予告編を見てみると「どうする家康」の様に、特殊効果をなるだけ使用せずに、ロケによる撮影がなされていること、そして、「どうする家康」で培った色彩調整が際立っており、画面が煌びやかな感じがします。

 

今日の夜が楽しみです。