「どうする家康」 豊臣秀頼と真田幸村(信繁) | meaw222のブログ

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映画・ドラマの部屋

 

なにやら最近、「ゴジラ-1.0」がアメリカで好評であるそうです。

日本では11月3日から、アメリカでは1か月後の12月1日から放映されているそうで、週末3日間(12月1日~3日)のアメリカでのオープニング興収で約1100万ドル(約16億円)を記録。ハリウッド大作や大ヒットアニメーション映画を抑え、全米の週末興収ランキングで3位にランクインする快挙を成し遂げたそうです。

さらに、全米興収デイリーランキングで、全米1位を達成しています。これは、アカデミー賞を受賞した韓国映画「パラサイト」でも達成しえなかった快挙です。

 

また、各レビューサイトで軒並み驚異的なスコアをたたき出しており、アメリカ最大の映画評論サイト「Rotten Tomatoes」では、評論家レビュー97%、観客レビュー98%を維持し、ついに条件を満たすことで付与される高評価作品の認証「Certified Fresh」を獲得しています。

 

まだ、この「ゴジラ-1.0」を見ていないので何とも言えないのですが、どうやら映画の中心テーマが「帰還兵」「家族愛」であるそうで、これはどちらもアメリカ人の「琴線に触れる」テーマであり、ヒットするのは必然であったと思われます。

 

少し脱線しますが、この「琴線(きんせん)に触れる」とは、中国故事が語源だそうです。周の時代に、琴の名手である伯牙(はくが)が親友の鐘子期(しょうしき)に琴を奏でた際、琴の音色を聞くだけで鐘子期が伯牙の心情を理解し、感銘を受けたことが由来なのだそう。ここから、胸の奥に秘められた感情が動き、共鳴する様子を指します。

「逆鱗に触れる(げきりんにふれる)」という言葉と言い回しが似ていることから、混同して「怒りを買ってしまうこと」と捉える人の割合が増えているそうですが、これは本来の意味ではないのでお間違いなく。

 

 

この映画で特筆すべき事項が二つあります。

まず一つ目は、ゴジラのVFXの完成度が高いことです。

非常に、ゴジラの見せ方が上手く、そして、ゴジラオリジナルの演出がされています。

監督の山崎貴さんは、「ALWAYS 三丁目の夕日」「永遠の0」「鎌倉ものがたり」で有名ですべての映画のVFXを担当しています。この映画は、新しい看板監督の誕生を何か予感させるような映画となっています。

 

次に、この映画の製作費の多さです。

前に日本映画の将来についてシリーズで書いたときにも述べましたが、現在の日本の映画市場規模から言うと、日本映画の制作費の上限が、20憶から25億となります。

 

映画が商業的に成り立つのが、制作費の約3倍であると言われています。

しかし、日本映画で興行収入が60憶になるのは数年に一度あればいい程度であり、その為に、その3分の1である20億円前後が日本映画の制作費の上限となるためです。

 

今回、「ゴジラ-1.0」は、その上限である22億円の制作費であると言われていますが、すでにこの1週間で、制作費を越え最終収益が日米合算で60億円を超えるのは明らかです。

 

今回の、この映画「ゴジラ-1.0」は、ゴジラというハリウッドでも通用するキャラクターであるという事と、日本人制作スタッフの実力の高さを証明することとなりました。

従って、現在の日本映画凋落は、やはり「製作委員会」という日本でしか通用しない配給システムであり、この為に、世界に目を向けた映画作りができていない事が原因であるとハッキリと示されています。

日本の映画でも、ハリウッドの有名な映画プロデューサーを納得させるような企画と情熱を持って、ハリウッド発の日本映画が近い将来実現するのではと期待しています。

 

さて、前置きが長くなりましたが、本題の豊臣秀頼と真田幸村(信繁)について書きます。

 

 

  豊臣秀頼の場合

まず、最初に豊臣秀頼の「大坂夏の陣」後について書きたいと思います。

 

現在、秀頼の「大坂夏の陣」後については、大きく「自刃説・他殺説・生存説」の3つの説が囁かれています。

 

 

自刃説・他殺説

最も多くの学者が支持しているのが、この自刃説です。

秀頼が自害したことは、「言緒卿記」など複数の書物に記載されているので、かなり信憑性が高い説となります。しかしながら、秀頼と淀殿の死が、自害なのか他殺なのかは非常に微妙なラインとなっています。

 

例えば、「本光国師日記」という書物には以下のような記述があります。

 

「大坂城中の唐物庫に秀吉ならびに御袋(淀殿)、大野修理(治長)、速水甲斐守(守久)以下、付女中衆が数多く籠り降参してきた。

井伊掃部、安藤対馬が検使(秀頼、淀殿を視認する役人)として詰め、倉へ鉄砲を討ち掛け、皆殺しにし火を掛けた。」

 

この記述を見ると、秀頼たちは降参してきたものの、それが認められず鉄砲で射殺されたことになります。

これは、前に書いた「大坂夏の陣」の秀忠の秀頼・淀殿の処遇に関する事や、前後の状況からこの説が最も有力であると思われます。

しかしながら、この説にもウィークポイントがあり、もしこの記述通りであれば、秀頼と淀殿の首が残っているはずですが、その記述が後の文章には登場しないことです。

 

その一方で、「自刃説」を唱える書物も数多く残されています。

例えは、大坂の陣に参戦していた伊達政宗の書状には、以下の記述があります。

 

「秀頼又御袋も焼け残りの土蔵にはいり御座候、御腹を切らせ御申候、御袋もかねての御口ほどなく候て、むざと御果候なり。」

 

また、「駿河記」には、

 

「大御所様(家康)は井伊掃部助直孝を召し、秀頼様と母君以下、帯曲輪に籠っている人びとに対し切腹を命じた」

 

とあります。

 

千姫が、大阪城を脱出し秀頼及び淀殿の助命嘆願しますが、これが認められず、この嘆願の返答として鉄砲が倉に撃ち掛けられたまでは一緒ですが、その先が「鉄砲で殺された」のか「切腹を命じられた」のかは、いまだにハッキリと分かっていません。

 

 

生存説

大坂の陣の後、大坂や京都で次の様なわらべ歌が流行します。

 

「花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田(幸村)がつれて、引きも

のいたよ加護島(鹿児島)へ」

 

これは、大阪城の地下には「真田の抜け穴」と呼ばれる抜け道があり、その地下道を利用して秀頼が、炎上する大阪城から脱出したと言うものです。

 

同様に、「本能寺の変」でも信長は抜け道を使い脱出しようとしますが、この抜け道が前もって誰かに埋められていた為に、信長が炎にまかれて焼死したと言われる説もあり、当時としては、あり得ない説でもないのですが、これは、恐らく「関ケ原の戦い」で西軍の副将であった宇喜多秀家が、落ち武者狩りから逃れ、薩摩の国の島津義弘を頼って落ち延びており、これがこの生存説と結びついたのではないかと思われます。

 

また、秀頼と淀殿の遺体が発見されたという記録が全く残っていません、その為に、「生存説」が巷に流布する理由となりますが、残党狩りを行っているにも関わらず、秀頼らしい人物についての記録は残っておらずこれも生存説を補強しています。

 

とこが、1980年(昭和55年)に大阪城三の丸跡にて三人分の頭蓋骨が発掘され、そのひとつが頭蓋骨の状況から秀頼のものではないかと言われています。

この頭蓋骨は、骨格の発育・生育状態から庶民ではなく高貴な人間であること、そして顎に介錯の痕らしき傷がある事、そして年齢が20歳前後の男性ということで、また、近くに大柄の秀頼が乗っていたと言われるアラブ種馬の頭部の骨も埋められていたことから、DNA鑑定等の科学的な調査はされておらず、意見の分かれるところですが、一先ず「秀頼の首」として、京都の清涼寺に埋葬され、首塚が建てられています。

 

因みに、この清涼寺は、次の大河ドラマの主人公である紫式部の「源氏物語」の主人公である光源氏のモデルの一人とされる源融(みなもとのとおる)が埋葬されており、戦乱により廃れたこの寺を秀頼が再建しています。

しかし、秀頼の死後、この寺は火災により焼失していましたが、これまた不思議と「玉の輿」で有名な「お玉」(徳川家光の側室、第5代将軍 ・綱吉の生母)が、この寺を再建しており、歴史的にも有名な人物が数多く関わっている寺としても有名です。

 

もし、秀頼が中心のドラマであれば、この生存説が採用されると思いますが、今日の「どうする家康」では、どの様な描き方がされるのか期待されます。

秀頼と淀殿が死なないストーリーも、個人的にはそれなりに面白いのではと思っています。

(直木賞作家の平岩弓枝さんの「千姫様」では、この生存説が採用されています。)

 

  真田幸村(信繁)

 

真田幸村(信繁)は、大坂冬の陣での真田丸での戦い、及び大坂夏の陣では、天王寺・岡山の戦いで家康を震え上がらせた人物として有名です。


特に、天王寺・岡山の戦いでは、決死の突撃により、家康が自害する覚悟を決めた程、家康の眼前まで突入します。

 

この幸村の家康への突入の裏には、実はあまり知られていませんが、伊達政宗の影がちらついています。

幸村が、大軍に守られた家康に肉薄できたのは、前回も書きましたが、旗本軍が毛利軍により右翼に引き付けられ、左翼に隙が出来たために幸村は家康に近づくことができました。

この時に、左翼で守備を担当していたのが、伊達政宗です。

この戦いにおいて伊達軍は、鉄砲の装備率が、66%と当時としては極端な装備編成でした。

当初は、鉄砲を使って豊臣軍を制圧していましたが、鉄砲の玉が切れると、一変して徳川軍が崩壊しかかっても傍観を続けおり、左翼の防備をしていなかったと言われています。


つまり、伊達政宗は、鉄砲の玉が切れたのは口実で、もしかしたら家康が幸村に討たれることを期待していたのではとも考えられます。幸村の最期の戦いは、実は、この様に伊達政宗がプロデュースした可能性もあります。

 

実際、「関ケ原の戦い」では、家康の勝利が確定するのを待って会津の上杉景勝を攻撃したと言われています。また、「小田原征伐」では、秀吉に伊達政宗の降伏時期が遅いと呼び出した時に、白装束で現れるなどしており、碧眼の猛将との噂に似合わず知略家であったと言われています。

 

とわ言っても、幸村の活躍は称賛に価するものであり、大坂夏の陣における幸村の神がかり的なその戦いぶりを知った島津家当主・島津家久は手紙に以下の様に記しています。(島津軍は大坂の陣には不参加)

 

「真田は日本一の兵(ひのもといちのつわもの)。真田の奇策は幾千百。
そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚をとっていない。
真田を英雄と言わずに誰をそう呼ぶのか。女も童もその名を聞きて、その美を知る。
彼はそこに現れここに隠れ、火を転じて戦った。前にいると思えば後ろにいる。
真田は茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にて、つつじの咲きたるが如し。
合戦場において討死。古今これなき大手柄」

 

また、家康は、幸村の首実検の際「幸村の武勇にあやかれ」と言うと、居並ぶ武将たちがこぞって幸村の遺髪を取り合ったといわれています。
家康は「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり、江戸城内にて幸村を誉め讃えることを許す」といい、家康も幸村の奮闘をほめたたえています。

敗戦の将を「誉め讃えていい」としたことはまさに異例中の異例であり、これにより「真田十勇士」の様な読み物が、江戸時代に大量に作られることとなります。

 

同時に、この戦いにおける伊達政宗に対しては、かなり疑念を持ったようで、家康は、死の床についてもこの政宗を警戒していたそうです。

 

幸村は、九度山に居れば死ぬことはなかったのですが、武士としての死に場所を求めて大阪城に入ります。兄である信之は、ドラマと同様に幸村の人柄を「柔和で辛抱強く、物静かで言葉も少なく、怒り腹立つことはなかった」「幸村こそ本当の侍であり、彼に比べれば、我らは見かけを必死に繕い肩をいからした道具持ち。それ程の差がある」と評しています。

 

この様に、敵味方の関係なく幸村が絶賛されるのは、普段はとても温厚だが戦場では無敵の男に変貌するところが、人々の畏敬の念を呼び、戦国時代においても失われがちだった武士の誇りを体現した、数少ない本物の侍(サムライ)だったからかもしれません。