「どうする家康」 大坂夏の陣 | meaw222のブログ

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映画・ドラマの部屋

 

「どうする家康」も残すところ後2回となりました。

 

ネットニュースに、脚本家である古沢良治さんのインタビュー記事が載っていました。

その中で、古沢さんは、今回のドラマを描くうえで史実を大事にしたそうで、その為に、資料探しに時間が掛かってしまい大変苦労したと述べています。

 

歴史ドラマは、まず、ストーリーに合わせて史実を並べます。

その次に、並べられた史実と史実の間にフィクションを入れていきます。

そして、このフィクションの部分がどれだけ史実との関係において整合性が取れているか、及び、ドラマ(娯楽)としてどれだけ視聴者の共感をえることができるかが大切であり、この点が、脚本家としての力量が試される所でもあります。

 

また、史実とフィクションの比率をどうするのかも、大切な部分であると思います。

有名な史実、例えば「本能寺の変」や「関ケ原の戦い」であれば、殆どの視聴者が知っているのでフィクションが入れ難くなります。

そこで、史実を脚本家が、ストーリーの展開に合わせた解釈をし、史実でありながら同時に脚本家の視点(フィクション)を加えることも可能となります。こうすることで、娯楽としてのドラマが完成していきます。

 

「どうする家康」が、始まった当初は、タイトルに引きずられて史実がなおざりにされていましたが、最近では、史実とフィクションの部分が上手く融合して本格的な歴史ドラマへと変貌しています。

また、この数話で今までの伏線が全て回収されており、ストーリーの出来具合も神回が続いている状態です。

 

石田三成の「だれの心にも、戦を求める心がある」により、天下泰平を望みながら、戦いでしかそれが成就できない事。そして、家康は、戦いの本質を「これが戦じゃ。この世で最も愚かで醜い、人の所業じゃ」。つまり、戦いは非情なものでありそこからは何も生まれないと経験上から分かっています。

その為、家康は天下泰平の為に「信長や秀吉と同じ地獄を背負い、あの世へ行く」ーすべての責任を自分が背負って後世を、乱世無き世にすることを決意します。

 

そして、この家康の乱世を終わらせるのに最も障害となったのが、豊臣家ではなく、乱世でしか生きることの出来ない武士ー牢人達の存在でした。

大坂夏の陣は、こうした乱世の亡霊たちの最後の抵抗であり、家康最後の戦いとなります。

 

  大坂夏の陣

 

大阪城と豊臣家の処遇

大坂冬の陣和睦の後、大坂城の東南の外堀及び二の丸三の丸の内堀が埋められます。

 

大坂城惣構・二の丸・三の丸の破却は慶長20年(1615)1月22日ごろに終了しています。当初の予定では惣構の破却は徳川方が担当し、二の丸・三の丸の破却は豊臣方が担当するはずでしたが工事が遅々として進まないため、徳川方が二の丸・三の丸を破却し、堀もすべて埋めてしまい、鉄壁の要塞であった大坂城も裸城となります。

 

これで、天下太平の世が訪れると考えられており、残る問題は、豊臣家の処遇でした。

家康にとっては、豊臣秀頼の存在は以前ほどではありませんが、この時点では、「武家諸法度」「公家諸法度」などの制度が確立しておらず、家康の死後、徳川幕府が安定的な政権となるかは分からない状態でした。

 

その為、家康が最も頭を悩ませたのが豊臣家が武家として残り続けることでした。

当然、武家として残るのであれば、家康に従臣するしかない状態でした。その上に、家康は、経済の中心地であり西国と東国をつなぐハブ都市である大坂から、豊臣家を排除する必要もありました。

 

家康と高台院(寧々)との間で、豊臣家を摂家として存続させ、また、領国を大坂ではなく京都に近い近江又は大和地域に移封する計画もなされるようになります。

 

しかし、これには大きな問題が存在していました。それが、大坂冬の陣では、豊臣家のために働いた牢人達を処分出来ずにいたことです。

何故なら、彼らには取り上げるべき領地又は主君がいなかったからです。つまり、今風に言うと「無敵の人」であること。

そして、豊臣家にとっては、家康に圧力をかけるための道具としてこの牢人を囲い込む必要があり、大坂冬の陣終了後も牢人が温存される状態が続きます。

 

この様な状況で、家康にとっては最も嫌な展開となります。それが、大坂冬の陣の和睦を良しとしない牢人達の動きでした。牢人にとっては、大坂の陣は大名又は大名に仕官する為の最後のチャンスであり、これを逃すと後がない状態でした。

 

その為に、牢人は、戦いを欲するようになります。そして、淀殿や秀頼は、この動きを制御する術を持っていませんでした。

秀頼や治長は和睦を維持したい考えでしたが、治長の実弟の治房は逆の考え方で勝手に大坂城の金銀を牢人たちに分配するなどして対立。4月には犯人は不明なものの治長暗殺未遂事件も起こっています。こう言う状況もあって、牢人達は、過激な行動へとエスカレートしていくこととなります。

 

同年の3月、京都所司代である板倉勝重は、「牢人が堀を掘り返していること」、「米や材木の備蓄を始めていること」、「大野治房が1万2千の牢人を召し抱えて開戦の準備を進めていること」などを家康に次々と報告。

こうした豊臣方の不穏な動きに対し、家康は「秀頼の大坂城退去」か「牢人の全追放」の二者択一を突きつけ豊臣家との関係が急速に悪化します。

 

大坂夏の陣勃発

淀殿は、当然のことながら家康の要求を拒否します。これを受けて家康は、4月6日には諸大名に軍令を発し、伏見・鳥羽に集結させ大坂城を再び攻めることを決断します。

 

家康が豊臣家を滅ぼすために動き出ることを予測していたのか、信繁(幸村)は、この和睦期間に徳川方に味方している甥の真田信吉や真田信政と会見したり、旧友と再会したり、故郷上田に住む姉や小山田氏に書状を送るなどして、最期の決戦に向けて身辺整理も行っています。

 

この後は、信繁の予想通り「大坂夏の陣」が勃発します。

 

 

郡山城の戦い(4月26日)

戦いを回避することが不可能であることを悟った秀頼は4月26日、徳川方に先制攻撃を仕掛け、大野治房が二千の兵で大和郡山城(現在の奈良盆地に位置する城)を落とします。

 

しかし、家康は、約15万人の兵を郡山城に向けて進軍を行います。

この為に、治房は、郡山城を破棄して大坂城へ帰還します。

 

樫井の戦い(4月29日)

河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫る幕府軍に対し、豊臣軍は、紀伊の浅野長晟への攻撃を決定します。

 

大野治房を主将に、塙直之、岡部則綱、淡輪重政ら兵3千を率いて紀伊方面に進軍します。

進軍と同時に、紀伊および和泉で一揆を煽動し、豊臣軍の紀伊攻撃に呼応するよう画策。

浅野長晟は、国内で一揆の兆候(紀州一揆)があったことから出陣を見合わせていましたが、4月28日、兵5,000を率いて和歌山城を出発。

 

4月29日夜明け、樫井で豊臣軍先鋒と徳川軍(浅野長晟軍)との間に、戦闘が勃発します。

しかし、これは豊臣軍先鋒の手柄を立てるために独断で起こした戦闘であり、一揆勢の蜂起を合図に攻めようと考えていた大野治房は、先鋒で戦闘が発生したことに驚き、樫井へ急ぎます。しかし、既に浅野勢は撤退した後だったため大坂城に引き返すこととなります。

 

かくして、大坂夏の陣の初戦は、豊臣、徳川の痛み分けの状況で終了することとなります。

 

道明寺の戦い(5月6日)

 

4月30日、大坂城内では、大和方向から来る幕府軍に対し、河内平野に侵入してくるところを隘路で待ち受け、先頭部隊を叩くことに決定します。

5月1日、豊臣軍では、後藤基次らの前隊6,400人が、その後毛利勝永、真田信繁ら後隊12,000人が大坂城を出発します。

 

5月5日、大坂城の真南の天王寺に布陣した毛利、真田は、基次が布陣した摂津の南東端に位置する平野まで出向き、基次の陣を訪れ「道明寺で合流し夜明け前に国分村を越え狭い場所で徳川軍を迎え撃ち、3人が死ぬか両将軍の首(家康と秀忠)を取るかどちらかになるまで戦おう」と誓い、訣別の盃を酌み交わして別れたと言われています。

 

しかし、5月5日の夜には、徳川の本隊約3万人が、豊臣軍の予想を上回る機動力を発揮しており、既に国分村に布陣していました。

 

5月6日午前0時、基次隊2800は平野を出発。夜明け頃には藤井寺につきます。そこで真田隊などを待ちますが、まったく来る気配がありません。

 

実は真田隊らは濃霧のために時刻を誤った上に、寄せ集めの浪人の大半が行軍に慣れていなかった為、大幅に到着が遅れていたのでした。戦機を逸すると感じた基次は待つのを止め出発。誉田経由で道明寺に出ます。基次はそこで初めて、すでに徳川軍が国分まで進出していることに気づきます。

 

作戦が既に破綻していること認めた基次は、石川を渡り小松山(現在の柏原市立玉手山公園一帯)に登り陣を構えます。幕府軍は小松山に敵が布陣していることを知り、それを包囲し攻撃を開始します。

基次は、徳川軍へ数度の決死の攻撃を行いますが、多勢に無勢であり、正午頃、約8時間の戦闘の末、基次は戦死、基次隊も壊滅します。

 

その頃に、ようやく後隊の後毛利勝永、真田信繁らが、道明寺村に到着します。

基次の討ち死にを知った信繁は、当初の計画が完全に破綻し、河内平野に徳川軍が進出しており、もはやこれまでかと諦めますが、毛利勝永が信繁を叱咤激励します。これにより、信繁は、以後、作戦を家康の首のみと決心します。

 

しかし、すでに道明寺村まで徳川軍の大軍がなだれ込んでおり、真田軍は、徳川軍を道明寺で迎え撃ちますが、すぐに誉田村まで後退し毛利軍と合流し体制を立て直します。

一方、幕府軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し、膠着状態になります。

 

午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報と退却の命令が豊臣軍に伝えられます。豊臣軍は真田隊を殿(しんがり)とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始。

 

天王寺・岡山の戦い(5月7日)

5月7日、家康は自らが総大将として天王寺方向から大坂城本丸へ侵攻。将軍の秀忠は岡山方向より侵攻しました。豊臣譜代の軍勢は岡山方向を守り、信繁ら牢人衆は天王寺方向を守ることになります。

 

毛利・真田軍は、茶臼山に3千5百の兵で布陣して徳川勢を引き付けます。毛利・真田軍は、自然の崖により守られた茶臼山で善戦します。

真田軍は、背後の馬だしから迂回して徳川軍の背後に回る計画を立てますが、毛利勝永の軍勢が徳川方に先走って銃撃を仕掛けてしまって作戦は破綻。それでも毛利勢が徳川軍本隊の一部を切り崩し活路を見出し、その隙をめがけて信繁は家康の本陣に突撃します。

 

信繁は、自身の影武者七人を使い徳川軍を翻弄し、前線の松平忠直率いる越前勢を破り、さらに徳川頼宣率いる駿府勢も敗走させ、ついに家康の旗本の切り崩しに成功し、信繁は、家康の首めがけて決死の突撃を敢行します。そして、ついに家康に肉薄し家康の馬印が倒れるほどまで追い詰めますが、家康は命からがら三里ほど退却します。このとき家康は自害することすら覚悟したと言われています。

 

この家康の馬印が倒されたのは、「三方ヶ原戦い」に次いで2度目であり、家康の目には、信繁の一軍が武田軍と同様に赤揃えの武具を身に着けていたために、かつて武田信玄により死の一歩前まで追い詰められた状況が脳裏に浮かんだのではと思います。

 

治長の失敗と大阪城炎上

治長の痛恨のミス

ここで信繁は、大野治長と協議し、秀頼出陣を再度お願いし、さらに有利な状況に持ち込もうと考えましたが、これが裏目に出ます。

治長は、なんと秀頼の馬印を掲げたまま秀頼出陣のお願いの為に大阪城へ向かいます。

これが、最悪の状況を引き起こします。

 

味方の豊臣方には、これが豊臣軍の敗北と映ってしまいます。

これにより、豊臣軍は一気に体制が崩壊しますが、このような状況でも、真田軍は徳川軍に三度に渡り突撃を敢行し、徳川軍を天王寺で押しとどめます。

 

 

しかし、真田軍は、連日の死闘で満身創痍となっていて退却せざるを得なくなり、安居天神の近くで忠直の軍勢に襲われ、遂に信繁は西尾仁左衛門に討たれ戦死してしまいます。

「綿考輯録」によると信繁の最期は、「信繁が合戦場で討死した。これまでにない大手柄である。首は、松平忠直の鉄砲頭が取った。しかしながら、信繁は怪我をしてくたびれているところだったので、手柄にもならなかった」と伝えられています。

 

 大坂冬の陣、夏の陣を通じて大いに活躍し、家康を苦しめた信繁は「日本一の兵」と称えられ、後世までその勇名を轟かせることとなります。

 

豊臣方は、頼みの綱の信繁が討死し敗北が決定的になります。ようやくこの段階に至って、秀頼は出陣しようとしますが、敗勢は濃く、もはや挽回できる状況ではありませんでした。

やがて、大野治長ら将兵は、続々と大坂城に戻ってきます。そこで、秀頼は速水守久の助言に従い、不本意ながらも本丸へと逃れます。

 

大阪城炎上と徳川軍の大阪城への侵攻

午後4時頃、大坂城三の丸に火の手が上がります。徳川方に通じていた台所頭が、厨房に放火したといわれています。火の手が広がるとともに、勢いあまる徳川方は一気に城内に攻め込んできました。もはや裸城となっていた大阪城では反撃の術は在りませんでした。

豊臣方は城外に脱出する者や秀頼の軍旗や馬印を預かっていた将兵らが、観念して次々と自害して果てます。

 

炎は二の丸、大野治長の屋敷にまで広がり、もはや、本丸に火の手が移るのは時間の問題でした。夕方になると、大坂城の天守が炎上し、ついに落城の瞬間が近づいてきます。この時の炎は、「土御門泰重卿記」によると、京都の清涼殿からも大坂城の火の手が上がる様子が見えたといわれています。

 

  最期の嘆願と豊臣家の滅亡

 

城内に残った大野治長は、最後の力を振り絞って、何とか千姫を脱出させようと試みます。徳川方に秀頼と淀殿の助命を請うべく、治長自身の命と引き換えにすることを申し出たと言わています。(「駿府記」による)

 

大坂城から退去した千姫は、夫の秀頼と義母の淀殿の助命を嘆願するため、家康と秀忠に書状を送ります。

「萩藩閥閲録遺漏」によると、この時の返答は、大御所様(家康)は、将軍様(秀忠)次第であるとご意見を述べられた。秀忠様のご意見では、一度だけのことではないので(一度目は冬の陣)、早々に(秀頼と淀殿は)腹を切らせたほうがよい、とのことであった」と記されています。

 

つまり、家康は現職の将軍・秀忠に判断を委ねますが、豊臣家は大坂冬の陣で和睦を結んだにもかかわらず、再び叛旗を翻した。それゆえに、二度目はない(秀頼も淀殿も許さない)との意見となり、最後の嘆願の返事として豊臣軍に発砲。

これにより、秀頼と淀殿は自刃し立てこもった曲輪は放火され、これにより豊臣家は滅亡してしまいます。

 

  戦国時代の終焉と元和偃武

 

慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣において江戸幕府が大坂城主の豊臣家(羽柴宗家)を攻め滅ぼしたことにより、応仁の乱以来、150年近くに渡って断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了します。

江戸幕府は朝廷に元号を慶長から元和と改めさせたことで、天下の平定が完了したことを広く宣言することとなります。

 

これが、いわゆる元和偃武(げんなえんぶ)と言われるもので、家康の旗印であり家康の願望である「厭離穢土 欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」が、この瞬間に成就することとなります。

 

次回は、信繁と秀頼に関する事後談について書きたいと思います。