「どうする家康」 第33話「裏切り者」3 | meaw222のブログ

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昨日(8月23日)にNHK総合で午後10時から、良く参考にさせて貰っている番組「歴史探偵」と「どうする家康」コラボスペシャル前編が放送されました。

前編では、今日書く「上田合戦」と秀吉と家康の「小牧長久手の戦い」そして、その後の、家康と秀吉の幻の武力対決前夜までが放送されています。

因みに、後編は、8月30日、午後10時からの放送予定となっています。

 

前半の「小牧長久手の戦い」の部分では、私が前回書いたブログの内容とほぼ一致した見方となっていましたが、後半の「上田合戦」については、この「上田合戦」と「天正壬午の乱」との関連がスッポリと抜け落ちており、NHKの裏事情(「どうする家康」のストーリー展開とのすり合わせ)というものが垣間見えるものとなっています。

 

しかしながら、「歴史探偵」ファン、大河ドラマ「どうする家康」応援団としても、非常に分かりやすくそして興味深いプログラムとなっていました。

 

もう一つ、今回の番組で面白かったのは、現在では、城の壁部分の色が、岡山城に代表されるような黒と愛媛城に代表される白いものの二種類に分けることができますが、白い壁の城は、江戸時代に入ってからの城で、黒い壁は戦国時代に築かれた城と言われています。

 

その最も端的な例が、大阪城であり、番組中に秀吉が作った大阪城がCGで再現されており、家康が焼失した大阪城を再建しておりそれが現在の大阪城ですが、この壁の色の違いが、ハッキリと分かる物となっている点です。

 

では、第33話「裏切り者」に登場する史実である「上田合戦」を書きたいと思います。

この合戦は、家康を取り巻くこの後の事柄と密接にリンクしており、この合戦そのものが分からないと、その後の「小田原征伐」「江戸への移封」の流れが全く分からなくなります。

それだけ、この合戦の与えた影響は、大きいものです。

 

その前に、今日書く事項は、「上田合戦」ですが、なぜ、前に書いた「小牧長久手の戦い」などの「戦い」ではなく「合戦」なのか、そのほかにも、「変」「乱」「役」など、戦闘の種類によって、呼び名が変わってきます。

では、これらにはどの様な意味があるのかを、まず説明したいと思います。

 

「戦い」「合戦」「陣」「乱」「変」「役」の違いとは

日本史上では、それぞれの戦争や戦闘があったことにたいする用語には、以下の意味があります。

 

「戦い」→ 日本国内において勃発した大規模な戦闘

「合戦」→ 「戦い」よりも小規模で、特定の地域のみの戦闘

「陣」 → 城攻めなど「合戦」よりも狭い地域での戦闘

「乱」 → 失敗したクーデター、又は、勝敗のつかなかった戦闘

「変」 → 成功したクーデター

「役」 → 外国との戦闘や外国での戦闘

 

しかし、上の区分は、最近定着したものであり、明治以前には、「本能寺の変」を「明智光秀の乱」と呼んだり、「山崎の戦い」の一部分として記述されたりもしていたそうです。

また、「乱」も「内乱」の省略形であり、戦国時代が始まるキッカケとなった「応仁の乱」のように決着がつかなかった戦闘の意味合いも含まれるようになります。

 

現在では、それぞれの戦闘は、上記の区分によってハッキリと区分されており、豊臣家が滅亡したのは大阪城での豊臣軍と徳川軍の戦闘であるため、「大阪の戦い」ではなく「大阪夏の陣」「大阪冬の陣」となります。

 

そして、今日、説明する「上田合戦」は、上記の区分通り、真田昌幸と徳川家康の上田城のみならず、砥石城、丸子城など上田小県(長野県東部)に点在する山城も含めた総力戦ですので、「合戦」となります。

 

「上田合戦」が勃発した原因

「上田合戦」勃発の直接の原因は、「本能寺の変」の後に勃発した「天正壬午の乱」です。

 

「天正壬午の乱」は、天正10年(1582年)の6月に始まり10月に終結した戦闘ですが、上杉、北条、徳川だけでなく旧武田家の国衆の領土保全と拡張の紛争でもあり、詳しく書くと非常に複雑で分かりにくいものとなっています。

 

「どうする家康」でも、この紛争を詳しく描いたとしたら、かなりのボリュームになってしまい、ストーリー自体も焦点が定まらない物となるために、殆ど登場していません。

 

しかしながら、「上田合戦」を説明するには、どうしてもこの「天正壬午の乱」の説明は省くことができないので、かなり史実を省略した内容となりますが、手短に説明したいと思います。

 

「天正壬午の乱」は、信長の横死の後、直ぐに北条氏が、長らく北条、上杉、武田の間で領地争いとなっていた地域である上野国に侵攻したことから始まります。

 

この北条氏の侵攻により、この地を支配していた関東管領である滝川一益が、6月19日には撤退を始めます。

この時には、川中島付近である北信濃地域にいた信長軍である森可長もすでに撤退を終えており、この地は完全に真空状態となっていました。

 

この「天正壬午の乱」を語る上でのキーワードとなるのが、旧武田家の家臣であった国衆です。

この戦いの勝者になるには、どれだけこの旧武田家家臣でありその地域を実質統治していた国衆を取り込めるかが最も重要な要素となります。

 

当初、北条氏が上野国に侵攻した際には、上野国の沼田領を本拠地としている国衆 真田昌幸を取り込みます。

これにより、北条氏に従属しない上野国の西側と北信濃地域に進軍します。

上野国の東側である沼田領を支配していた真田昌幸は、自領を拡大しつつ、領土保全の為に北条氏に従軍し、千曲川の南側に進出し、北側に進出してきた上杉氏と千曲川を挟んで対峙します。

 

ここに遅れて信濃・甲斐地域に侵攻してきたのが、家康でした。

家康は、曽根昌世の取り込みに成功し甲斐地方を制圧し、信濃地域に進軍を始めます。

家康のこの動きに、北条氏は、危機感を抱き、上杉氏と家康とに挟み撃ちにされる前に、上杉氏と上杉領であった四つの地域を引き渡すという条件で和睦します。

 

これにより、戦いは、一気に、北条氏と家康との直接対決へと進みます。

一方、家康も、北条氏との対決のために、上杉氏と不可侵同盟を組みます。

 

家康は、進軍を始める前に信濃佐久郡の国衆・依田信蕃を懐柔しており、この依田信蕃を通じて信濃地域の国衆の取り込みを行います。

また、この依田信蕃の働きによって、北条氏と共に戦っていた真田昌幸の懐柔に成功し、北条氏の北信濃における戦闘の補給路である佐久郡と碓氷峠の占領に成功し、北条氏の補給路を断ちます。

これにより、北信濃地域から北条氏を撃退し、家康は、信濃・甲斐地方を制圧します。

 

家康は、更に、この制圧した信濃地方の支配を確実なものとするために、千曲川以北に上田城を築きます。

これは、対上杉であり、この頃にこの地域に進出してきた秀吉に対する防御の為であると言われています。

 

上田城は、千曲川の北岸にあり、南は千曲川、北と西には千曲川からの水を引いて水堀を形成し、自然によって作り出された難攻不落の要塞でした。

ここに、家康の味方となった、戦国時代きっての知将と名高い真田昌幸を配置します。

これにより、信濃の北の守りは完璧となったのですが・・・

 

そして、この乱は、10月29日に織田家臣連合体制下の織田信雄・織田信孝や、羽柴秀吉から和睦の勧告により、家康と北条氏の講和が結ばれることとなります。

(この講和の時に、織田信雄が、家康に尽力したこともあり、後の「小牧長久手の戦い」で家康が、信雄側について戦わざるおえなくなります。)

 

家康と真田昌幸との軋轢

この北条氏との講和の条件は以下の通りとなります。

1 北条氏政 嫡男である氏直に家康の娘 督姫を娶らせる。(人質の差出し)

2 甲斐・信濃は家康に、上野は北条にそれぞれ切り取り次第とし、相互に干渉しない

 

家康と北条氏政にとっては、この条件は共に納得のいく物でしたが、家康による北条氏の信濃からの排除に大きく尽力した真田昌幸にとっては、自領の沼田領を勝手に北条氏へ差出すことは、到底納得のいくものではありませんでした。

 

天正12年(1584年)「小牧・長久手の戦い」が起き、昌幸は、家康の注意がそれたのを見て、家康との決別を決めます。

徳川軍の侵攻に備えて次男・信繁を上杉景勝に人質として送り、上杉に従属して徳川との戦いに備えます。

 

また、沼田城周辺で北条氏と地域戦を始めます。最終的には、上田城周辺と沼田・吾妻・小県の上野国の上半分を完全に真田領として掌握します。

 

家康は、「小牧・長久手の戦い」の終了後に、北条氏から講和の際の約定である上野国沼田領の引き渡しを迫られます。

 

家康は、昌幸に沼田領を北条に引き渡すように求めますが、昌幸は「相応の代替地がない限りは引き渡しには応じない」と再度拒否。

家康は、これを武力で解決しようとします。これにより、真田昌幸との「第1次上田合戦」が、勃発します。

 

真田昌幸の完璧な野戦と思わぬ知らせ

当初、家康は、この戦闘に楽観視していました。

その証拠に、家康は、出陣せずに、井伊直政、大久保忠世、鳥居元忠などの家臣を送り対処します。

 

また、真田昌幸が籠もる上田城は、家康が設計したものであり、この城の東側を攻めれば難なく攻略できると思っていました。

家康軍は、1万2千の軍勢、対する真田軍は、7千(真田軍2千、上杉軍5千)となっており、数の上でも有利でした。

 

しかし、蓋を開けると、真田昌幸の完璧な野戦に家康軍は大敗することとなります。

 

真田昌幸のこの合戦で見せた作戦は、戦国一の知将の名に恥じない見事なものでした。

 

昌幸本隊700名は、上田城に。長男の信幸ら300名は、密かに強化した上田城東の付城 砥石城、そして、この砥石城の南にも付城 矢沢城(松尾城)に200名と上杉軍の支援部隊を配置します。

 

当初、徳川軍本隊は、上田城の欠点である東から攻撃を始めます。真田軍の囮部隊200名に誘われるように、上田城の城下町に引き入れられます。

この城下町は、何重にも柵が張り巡らされており、家康軍本隊がこの柵の中に入ったのを見計らって城下町に火をかけ徳川軍を翻弄します。

何重にも張り巡らされた柵に阻まれ、撤退がうまく出来ない上に、火により統制を失った徳川軍は、城下町の端に位置していた鉄砲隊により狙い撃ちされ、後退せざる状況になります。

 

本隊が後退した時点で、徳川軍に今度は隠れていた農民兵が襲いかかります。

徳川本隊は、火から逃げるように近くの神川に逃げ込みますが、真田軍は神川の上流の堰を切り神川を増水させます。

これにより、神川の水が一気に増水し逃げ込んだ徳川軍は、こんどは水により撃退されます。

 

止めとして、上田城の付城である砥石城と矢沢城から真田軍支隊が、徳川軍を側面から攻撃して、家康軍本隊は大敗を喫することとなります。

 

この時の両軍の損害は、真田軍の40に対して家康軍1300と真田軍のパーフェクトで、秀吉でさえも成し遂げることの出来なかった徳川軍に対しての勝利を勝ち取ります。これにより、一躍、真田昌幸の名は、全国に轟くこととなります。

 

これは、昌幸が、家康が上田城の欠点である東から攻撃を仕掛けると読んでいたことと、昌幸が計画したその後の3段落ちの作戦による結果であると言えます。

 

昌幸は、この初戦で勝利を得ますが、やはり、多勢に無勢であり、かつ、歴戦の強者が揃った徳川軍であり、長期戦に持ち込まれれば、徐々に押されていくはずでした。

 

徳川軍も、態勢を立て直して再度攻撃を開始しようとしたときに、思わぬ知らせが、舞い込み,軍を撤退させることとなります。

それは、徳川軍の最高機密を知る石川数正の寝返りであり、これは家康にとってもかなりの衝撃となります。

 

かくして、真田昌幸は、運にも恵まれて、領地である上野国の上半分の領有を確実なものとします。そして、これが、後に、家康の天下取りの道を更に厳しくしていく事となります。

 

さて、「どうする家康」の第33話ではこの史実をどの様に描いていくのかが、非常に楽しみです。