どうして歩いただけでつかれるのだろう、筋肉痛。

 たまに自分のない人間みたいになるときがある。

 じゃがいものはなしをするとき、例えば、話している相手がじゃがいもが大好きな人だったら、じゃがいものどこが好きか、とか、どうやって食べるのが一番好きか、なんて話をすると思う。じゃがバターとか、おいしいもん。

 でも、相手が、じゃがいもなんて食べない、嫌いよ。なんていう人だったら、きっとそんな話はしない。カレーライスのじゃがいもって正直邪魔、とか、芽をとるの面倒、みたいな話をすると思う。食べると喉乾くし、ひゃっくりでる。

 別に思ってもいないことを言っているわけじゃない。どっちも本当に思っていること。結局、じゃがいも、好きなの? 嫌いなの? っていったら、普通、割と普通。

 相手に合わせているといったら、そうなのだけれど、相手が好きな物を貶すのなんて嫌な感じだし、わざわざ波風たてる必要もないと思うから。

 逆の場合、つまり、否定的な人に向かって肯定的なことをいうときは、場合による。私がじゃがいもの伝道師とかだったらじゃがいもの良さを訴えると思うけれど、別にじゃがいも、普通だから、そんなことしたらじゃがいも大好きみたいに思われるのも嫌。だからそういうことはしない。

 普通なら普通って言えばいいのかもしれない。でもただ普通、って言うとまるでじゃがいもに興味ないみたいに思われてしまう。それはそれで違う。

 自分の中で、じゃがいもについてよく考えて、じゃがいもの良い所と好きになれない所をはっきりさせた上で、普通、という結論を出しているの、どうでもいいわけじゃない。

 だから普通、の一言では少し足りない。

 それに、長所も短所も、結局は同じだし、ひとつのものに一つの感情しか抱かないわけじゃない。矛盾する感情だって抱く。そうしたら±0になってなってしまうことだってある。でも±0はただの0とは違う。そういうこと。

 いまいち上手く説明できた気がしないし、それにこんなことを、説明するんじゃなくて、表現できたらと、思う。


                     風に吹かれた一日の終わりに










$Meanuit-0308

あっ、庭の梅です。