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こんにちは。
相変わらず、かなりご無沙汰しておりました。
前記事、昨年の10月だったなんてちょっとびっくり。放置しすぎですね。
さて、タイトル通り、脳腫瘍で闘っていた義理姉が今年の2月4日に旅立ちました。
37歳でした。
はや半年近くが経とうとしていますが、私自身の心と身体のバランスが落ち着いてきたので、
久しぶりにブログでも書こうかな、なんて。
我が家の長女(姉から見て姪)が、大好きだった義理姉。
いや、次女の事も長男の事も可愛がってくれていた。
でも産まれた時からずっと面倒を見てくれてた長女の事を特に、自分の子供のように可愛がってくれていた。
会いに行けば、長女の名前を呼んで、震える手で、ほとんど見えてない目で、
よくヨシヨシしてくれていた。『可愛い可愛い』と何度も撫でていたね。
長女もいつもそう言ってくれる、優しい義理姉が大好きだった。
無くなった日の朝、前日にたまたま帰省していて、長女はその瞬間を目にしていた。
呼吸をもうしていない、声をかけても返事はしない反応は無い、
もう2度と『可愛い、大好き』と言ってはくれない義理姉を見て、長女は何を想ったのだろう。
最期は在宅看護だったから、看取る事は辛いけど看取ることが出来て良かったとは思う。
義理姉も嫌な思いばかりした病院より家が良い。と度々訴えていたなぁ。
発病から約6年。
こんな事を言うと怒られるかもしれないけど、私自身も正直しんどかった。
度々のお見舞い帰省で毎週、子供たちの準備や、家事などに追われ過ぎてとにかくキツカッタ。
少しでも義理姉のお世話や、義理家族の支えになれたらって、自分なりに頑張ったけど、
結局私は“嫁”で。私が望むような家族にはなれなかったなぁ。
もちろん、私は実の姉弟でも家族でも無いし、まずは自分の身の回りを整えることが最優先だから、
義理姉の事が後回しになるのは仕方がなかった。そんな中途半端な手出しで認めてもらいたい、なんて思ってる自分が未熟なんだけど。
でも唯一、私を認めてくれていた存在が義理姉だった、と今になって気が付く。
ほんと情けない。そして申し訳なく思う。
この6年間、悩んだり、学ぶことが本当に多かった。
でもそれを生かす事がまだまだ出来ていない。
子供達も“人の死”について大きく学んだだろう。
こんな経験をしても尚、どういう人間になりたいとか、どんな人生でありたい、
とかのヴィジョンがぼんやりな私。そんな直ぐに視えてくる物でも無いんだけど。
ただ、しょうも無いことで立ち止まったり、悩んだりするのはもう止めよう。
少しでもいいから成長できる事で悩んで生きていきたい。
megumo*