いつか死ぬとして、今生きてるだけとして。
まあ、仕方ないかと。希望的な諦めと。
厭世的なというよりはただ、そういうものだよな、というくらいの軽い諦めというか。
あくまでも、前向きな、諦めでもあると自分では思ったりするものの、まあ他人から見たら、わからないのも世の常である。
どんな真実、真理のようなものだって、何かを伝えようと、文字にすれば、誰かの主観が入り、何かを伝えることは本当に難しいことだと思ってしまうからこそ、
黙るという手法や、まあ、散々もっともな話し方をして最後にそんな風におもうんだわ、と、あえての自分はな、という伝え方や、ざっくりと曖昧な伝え方に、とても共感、を覚えたりもするのだけど。
あくまでも「わたし(本人)にとっての正しい意見である、それが100%だ」という断言もありだとはおもうが、ただ、わたしは、軽く濁す、考える余地を与えてくれる方が好きだというか、そういう話。
100%みっちり入ったカバンを、はいと、渡されることよりも、少し余裕があるわたしの荷物も入るなあと思えるカバンの方が、なんだか、優しさがある気がするだけなんだ、わたしがな。
(たとえ話が下手な人。)
思いを伝えるために、濁す、という、一見、なに言いたいんだかわからん、というような、伝え方は、人によってはただの自分の意見などなにもないような、相手任せで生きるようにも聞こえることも、本人に、伝えること、への確固たる信念すらあれば、その「あなたはあなたで、あなたの言葉で思ったことが、あなたにとっては、ベスト」という、どこか、余裕、余白のある伝え方は、とても真理に近いような気がしてとても好きなのだ。
その方が、同じ話でも、同じように素晴らしいなと思う話でも、鵜呑みにできる気がする、わたしは。
まあ、どうでもいいことだけど。
人というのは、影響力を持つほどに、謙虚な印象を与えるのか、横暴な印象を与えるのかで、二分するようにも思えるが、
人間は、物事を判断するときに、基本、自分の都合のいいようにしか解釈しないようにできていて、それは、自己防衛であり、自分の何か目的や、目標に向かうとき、とても、有利に働くものでもあるとおもうので、人間に搭載された機能であると思えば、うまく使えばいいとおもうのだけど。
ただ、自己防衛に働くときに、何かを責めるための手段になってしまうことは勿体無いなと思ったりもする、自分に対して。
どうせ使うならば、何かをするための手段として、その機能を使いたいと今は思うし、そのために搭載された人間の機能と思えば、まあ、生物として、本当に緻密に、完璧に計算され尽くしてできているなと思うのであります。
本当にすごいなあ。
ビバ、ニンゲン。
まあ、生かすも殺すも、その使用者、利用者次第とは、どんなものも、どんなことも同じなのだなあと思ってやまないのである。
※個人の意見です。