物書き、という言葉、肩書き、をかっこいいなと思ったことが、ある。
そして、同じように「物書き」と名乗っている人のブログを読んだとき、こういう人も物書きなのかと、愕然としたことがあり、同じ物書きという肩書きが一気に色褪せたように思えたこともある。
言葉というものは、一つの文字の羅列にしか過ぎないと思うが、
そこに持つ意味は、人それぞれにあり、そこに同じものはないように思うのだ。
優しさだって、人によりけり、
あの人は優しいという言葉も、
わたしにとって、あの人は優しい行為をしてくれる人である、という言葉と同じ意味だよなと思う。
人の行為を優しさだと受け取ったとき、その人は優しいと、判断するに過ぎない。
…と思う。
とはいえ、それじゃなんだか、日々生活する上で、びみょーな気持ちというか、なんだか味気ない、勿体無いような気持ちになるので、あの人は優しいと、決めちゃってる自分がいたりはする。
時に、あの人は優しいという言葉は、あの人はわたしにとって都合のいい人、にも取れるから、まあ、「あの人は優しい」と言った側の人、人の行為を優しさと受け取る側の人となり、人柄、と言ったものも加味して、判断をするとかしないとか、
脳内はいつも忙しい(わたしの場合)
なんとなく、見た感じ優しそうな人、というのも、時として周りから見たその人、とは、マイナスに傾くこともあるように思う。
道端に落ちてる紙くずを見て見ないふりをしたのを、人に見られたら、
「なんだか、意外」とでも取られかねない。
強面さんな雰囲気の人が、同じ行為をしても、さほど、意外性はないのではなかろうか。
ああ、通り過ぎた〜的な。
(偏見でしょう、そうでしょう。ただの例ですよ。例え。)
強面さんが猫をそっと撫でている、のは、
なんだか、トクな気がするのだ。
(個人の意見です)
優しい人、と思われている人だって、喜怒哀楽があるし、ワーー、となることもある。
そのとき、隣に優しくしてくれる人がいてくれたなら、どんなに嬉しかろう。
嬉しかろうよ、そりゃあ。
あ、ちなみに、見た感じ優しい人が、紙くずを拾わなかったのは、と、それが、落ちているのではなく、ただ、ここに置いてあるんだ、ということを知っているからかもしれない。
強面さんの猫は、本当はなでたくないが、その人の恋人が猫が好きだから頑張って撫でているのかもしれない、とかね。(例えですってば)
一個の出来事をパッと見たからって、そこからわたしが拾える情報なんて、さほどない。
いや、果たして、どれほどあるのだろうか、と思うと、本当のことなんて、わかってないのかもしれない。
つい先ほど、道路に「ツバメの雛がいるので徐行してください」との看板があり、ああ、優しいお家の人のところに巣を作ったね、と思ったのだけど。
その真意だって本当はわからないのだもん。
その行為が優しさだって、判断したのはわたしであるけど、
その人のことはわからないのだよね。
つまりは、人は、なにかをするとき、本人にとって、優しさかもしれない、
けど、受取手によって、変わるってこと。
何かをする側が優しい思いを出していて、
受け取り手も、優しいなあって受け取ってたら、
なんだかとても、ほっこりするなあと、思うのでありましたとさ。
そんなこんなで、本当は人間って、みんな優しさを持ってて、なんらかの形で、優しさを循環させている。
つまりは、みんな、優しいんだよなあ。
きっと、どれもこれも、最初は誰かの優しさから生まれたんだと思うんだもの。
人の想いからの、行動。
一つの行動にだってたくさんの意味があるはず。
そして、優しさの大元って、大事なものを守るため。
大袈裟かもしれないけど、大袈裟とかなんとか関係ないねぇ、とか思うのだもん。
大切なものを守る行為が、優しさなんだろうなあと思う。
だから、優しくされたと思うと、とても嬉しいのだと思う。
お互いにお互いをきっと、大切にしているのでしょう、きっと、人は、なんらかのかたちで、ね。
どうせ、何かを「○○だ」と思い込むのなら、よい思い込みで世界を構築したいものだなと、思った次第でございます、はい。
では、今日も、どうぞよい一日を。
おしまい。