『想い出の色』
「あら」
暖炉の前のソファに腰を下ろして、一人静かに本を読んでいた長澤美樹子は、突然に静寂を破った車らしき物のエンジン音に、ふと顔を上げた。
閑静な鎌倉の夜の住宅街に、その轟音は不躾であり、不似合いなものだった。
美樹子はソファから立ち上がると、カーテンを開いて窓の外の暗がりに目を凝らした。
巨大なヘッドライトが近づいて来る。どうやらその車の目的地は美樹子の家らしい。
美樹子は暖炉の上の壁に掛けられた時計に目を移した。もうすぐ午後十時になろうとしていた。
〝こんな時間に誰かしら?〟
美樹子は最近アメリカから日本に戻ったばかりだ。帰国の理由が理由なだけに、ごく一部の親しい知人にしか帰国したことを伝えてはいなかった。その中には、こんな時間に自分を訪ねてくるような者は、まずいないだろう。
心当たりが全く無いわけではないが、その人物は一番予想を否定したい相手でもあった。
〝まさかね〟
だが、残念なことに車のエンジン音が示唆する相手は、その一番想定したくない人物だった。
ライトの照り返しによって、ようやくその車の形が識別できるような距離まで来た。その車の正確な名称は分からなかったが、赤いボディでやたらと車高が低い巨大な車が『フェラーリ』らしいと分かると、美樹子は大きな溜息とともに、天井を仰いだ。
家の前で車が停まり、ドアが開いた。巨大なドアの中から出てきた男を見て、美樹子は呆れたように笑うしかなかった。男は美樹子の予想通り、『神堂和也』だった。
美樹子は自らドアを開いて、和也を家の中へ招じ入れた。和也がチャイムを鳴らすより先にドアを開けてしまったのは、心のどこかで『和也に会いたい』そんな気持ちが燻っていたせいなのかもしれない。
お互い言葉に詰まったのか、十年ぶりの再会だというのに、目を合わせることができても、まともに言葉を交わすことも、簡単な挨拶さえもできなかった。
ソファへ座るよう和也を促すと、美樹子はお茶の準備を始めた。そして、コーヒーを淹れながら、部屋の中を懐かしそうに見渡している和也に、背中で訊ねた。
「どうして、ここへ?」
「姉から、ミキが向こうから帰国して、ここにいると聞いた」
火の無い暖炉を見つめながら、和也は答えた。
美樹子は和也にコーヒーカップを手渡すと、ソファから少し離れた位置にあるダイニングテーブルの傍の椅子に腰を落とした。和也が訪ねて来たことに少し動揺しているせいか、和也の顔を面と向かって見る位置に座るには、もう少し心の整理が必要だった。
「そう。奈美子から聞いたの」
和也の姉、奈美子は美樹子の一番の親友だ。その弟である和也は、兄弟のいない美樹子にとっても大切な『弟』であり、それ以上にかけがえのない存在でもあった。
和也にとっても美樹子は『もう一人の姉』であり、何よりも幼い頃に母親を失い、ほとんど母親というものを知らずに育った和也にとって『母以上』の愛情を注いでくれる女性でもあった。
だからこそ、美樹子は『今は』和也に会いたくなかった。
アメリカから帰国しても東京の実家には住まず、高校時代三年間を過ごした、鎌倉の別荘に隠れるように住んでいるのも、和也と顔を会わせたくないことが理由の一つでもあった。
別の理由は、美樹子の帰国の原因が『離婚』だからだ。それは、世間体や体裁を気にする名家の娘にとっては不名誉なことでもあった。親たちにしてみれば、なるべく周囲に隠したい内容だ。それ故、実家に美樹子がいない方が都合はいいのだ。
「なら、全部聞いてるんでしょ?」
〝ああ〟と和也は目だけで答えた。
別に奈美子に口止めしたわけでもない。いつかは知られると、覚悟もしていた。そうなれば、何を置いても和也が自分に会いに来ることは分かっていた。ただそれが美樹子の予想よりも遥かに早かったことが誤算でもあり、美樹子を困惑させている原因でもあった。
〝どうして今夜なの?〟
再会のタイミングとしては最悪だろう。
しかし、それは美樹子の都合であり、和也にしてみれば、『今夜しか無かった』というのが現実である。
和也はコーヒーを飲みながら、美樹子の頭から足の先までよく観察した。
〝あまり変わっていない〟
美樹子は今年で三十歳のはずである。しかし、和也の前には十年前とさして変わっていない女子大生のように若くて美しい美樹子の姿があった。十年会っていないので僅かな不安を抱いてはいたのだが、安心をした。確かに和也が愛した美樹子である。ただ、少し疲れたように見えるのは、離婚した直後だからなのか、それとも自分がここへ来てしまったせいなのかは分からなかった。
「どうしてここへ来たの?」
両手でカップを支えた美樹子は、コーヒーを一口、口に含みながら、もう一度同じ言葉を口にした。
「ミキに会いたかったから」
子供のようなことを言う和也に美樹子は声を荒げた。
「あなた! 自分が何をしているか分かっているの!? 明日はあなたの結婚式なのよ!」
「分かっている。でも……」
「帰りなさい」
美樹子は和也に言葉を続けさせなかった。
「相変わらず、母親みたいなことを言うんだね」
和也は寂しそうに呟いた。
〝えっ?〟と美樹子は一瞬虚をつかれたが、すぐに言葉を続けた。
「そうよ。昔も今も私はあなたの母親みたいなものよ」
それを聞くと和也は、もたれていたソファから立ち上がって、窓辺に行くとカーテンの隙間から月の光に照らされた稲村ヶ崎の海岸を眺めた。そして窓辺にもたれたまま、あえて美樹子を見ないようにして、言葉を紡いだ。
「全て、分かってはいるんだ。だから少しの間、ここに居させて欲しい」
美樹子はガラスに映った和也の顔に頷くしかなかった。
それからキャビネットの前に移動するとワインを取り出した。アルコールでも飲んでいなければ、どうにかなりそうな気分だった。
「もう駄目よ。それ以上飲んだら、運転できなくなるでしょ」
美樹子は和也の手から、水割りのグラスを取り上げようとしたが、和也はそれを放そうとはしなかった。
どれだけの時間、二人で寄り添って酒を飲んでいたのだろう。
美樹子が和也に勧めた酒はウイスキーの水割りだった。明日の結婚式のために、どうしても今夜中に和也を帰したい美樹子としては、自分と同じワインを飲ませることはせずに、薄い水割りを作って和也に飲ませていたのだった。
言葉少なに見つめ合うだけの、永遠とも思える静寂の時間。それでも、今の二人に残された時間は『刹那』に等しいものだった。
「朝までに酔いは醒める」
「駄目」
薄い水割りを、ちびちびと舐めるように飲んでいるとはいえ、時間をかければ量を飲んでしまうのは間違いない。そもそも美樹子が知っているのは十年前までの和也の少年時代だけなのだ。今の和也がどれだけ飲めるのかは知らない。だから、強引に取り上げた。
和也も諦めたのか、それ以上酒を要求することはなく、ほろ酔い気分のまま、ソファに体躯を投げ出して、美樹子の横顔を見つめていた。そして唐突に昔のように美樹子の体に触れてみたくなった。
「何よ」
美樹子が驚いて逃げようとしたので、二人はもつれ合ってソファに倒れた。
丁度、和也が美樹子の胸に抱かれるような格好となった。
ブラウス越しに感じる、美樹子の鼓動や、体の温もりに包まれて安心したのか、和也は目を閉じて、安堵の吐息を漏らした。そして大きく息を吸い込んだ。あたかも美樹子の甘い薫りを全て吸い込むかのように。
そんな和也の頭を撫でながら、美樹子は優しく微笑んだ。
「全く、大きな赤ちゃんね。いつまでも『ママ』に甘えたがって。本当に困った子ね。いつになったら乳離れができるのかしら」
「凄くいい気分だ。いつまでもこうしていたいな」
和也は全身の力を抜いて、体躯の全てを美樹子に預けた。
〝これが欲しかった〟
無防備に全てを曝け出しても、弱い自分を優しく包み込んでくれる大きな包容力。不安や懊悩から自分を開放してくれる安心感と温もり。和也は常に『これ』を求めていた。十年前のあの時、美樹子が和也に別れを告げ、去って行った『あの日』から。
婚約者の綾子をはじめ、どんな女たちも、そう美樹子の生き写しで『完璧な女』であった恵美でさえも、和也に与えてはくれなかったものがそこにあった。
だが、その和也の甘い幻想を、美樹子の言葉が残酷にも粉々に砕いて、和也を現実に引き戻した。
「駄目よ。あなたには綾子さんがいるでしょう」
血の気が引く思いだった。
そんな和也の変化に気づかないのか、あるいは気づいていながら気づかない振りをしたのかわからないが、和也の顔色に頓着することなく、美樹子は続けた。
「すごく綺麗な人じゃない。幸せにしてあげなくては駄目よ」
「綾子を知っているのか?」
和也は顔を上げて、まっすぐに美樹子を見た。
「ええ、この間奈美子から『あなたのお嫁さんになってくれる人』だって、写真を見せてもらったわ。とても素敵な、いいお嬢さんね」
美樹子の口調が、また『母親』になっていた。それが自分との『埋まらない距離』を感じさせて、酷く悲しかった。だから、拗ねて馬鹿げたことを口にしてみたくなったのかもしれない。叶うことの無い、儚い願いと知りながらも……
「綾子はどうでもいいんだ。ミキ、僕と結婚しよう。二人でどこか遠い所に行って……」
とんでもないことを口走る和也に美樹子は酷く悲しそうな顔を見せた。
「どうしてそんなことを言うの? よく聞いて。あなたにとって必要なのは綾子さんよ。私ではないわ。綾子さんもまた、あなたを必要としているのよ」
「ミキは、僕を必要とはしないのか?」
美樹子の胸の顔をうずめて、和也は今にも泣き出しそうな声で、美樹子に訊ねた。
美樹子は答えず、答える代わりに、ありったけの愛情を込めて、和也を抱きしめる両の腕に力を込めた。
「いいこと、『ママ』とは結婚できないの」
美樹子は泣いているのだろう。和也から美樹子の顔は見えなかったが、微かに聞こえる嗚咽に近い吐息が、そのことを教えてくれた。
しばしの沈黙。
和也はふいに上体を起こすと、美樹子のブラウスのボタンを外そうとした。
「なら、最後にママのオッパイを飲ませて欲しい」
「何をするの!? 駄目よ」
美樹子は和也の手を掴んで、止めようとした。そして和也と目が合うと、反射的に言ってしまっていた。
「ここでは嫌、ベッドへ……」
それは美樹子の諦めだった。例え拒絶したとしても、今の和也は暴力で美樹子を組み敷いてでも思いを遂げようとするであろう。それならば、受け入れてしまった方が心の痛みも浅いだろうと思えた。だが、それだけではない。ここで和也の自分に対する鬱積した感情を全て吐き出させてしまった方が、二人のこれからの人生のためにもいいと判断したからだ。あまりにも美化しすぎてしまった、想い出を壊すためにも、何らかの『儀式』が必要だったからだ……
和也は美樹子に顔を近づけると、涙の滴を拭うように彼女の頬にキスをした。そして、涙の川筋を辿るかのように頬にキスを続け、最後に美樹子の唇に、自分の唇を重ねた。
長いキスの後、和也は美樹子を抱き上げ、二階の寝室へと移動した。
美樹子を寝室のベッドに横たえると、和也は時間をかけて、大切な宝物を扱うようにして、美樹子の衣服を下着まで全て脱がした。
美樹子は眼を閉じて押し黙ったまま、和也にされるがまま、一切の抵抗も無く、裸にされていった。下着を全て取られても、体を隠す仕草一つ無く、ただじっとしていた。
子供生んだことがないからなのか、それとも普段の生活に気を配っているためか、美樹子の体の線は全く崩れていなかった。
和也は美樹子の裸身を眺めながら、その姿を目に焼き付けるかのように時間をかけて、自分の服を全て脱いだ。
そして、美樹子の体に自分の体を重ねると、しっかりと抱きしめた。
美樹子は大きく息を吐いた。
和也は美樹子の耳元で『ずっと、こうしたかった』と小さく呟いた。
美樹子は目で頷いた。
二人はセックスに身を委ね、その『儀式』は明け方近くまで続いた……