おはようございます!

 

「よっちゃんの幸せレシピ」では、本当の自分と自由に繋がれ人生を輝かせるための情報を発信しお届けしています


 

 

 

しばらく間があいてしまいました

 

 

今回は、幸せの本質前編、後編を踏まえて総集編としてまとめられるかわかりませんが、やってみたいと思います

 

 

しばらくお付き合いいただけたら嬉しいです

 

では、参りましょう。。

 

 

今まで観てきた「そもそも幸せって何なのか..?」

 

 

幸せ=満たされた状態=分離のない状態と定義づけすると、

 

 

顕在意識にしろ潜在意識にしろ、幸せを求めているということは、

 

 

そこには必ず、欲求、ニーズ、とか、衝動とかがありますよね

 

 

「満たされていない状態」があるから→欲求、ニーズ→「満たされている状態」これを人は快いと感じ幸せと感じるからです

 

 

そして、これにはいくつかのステージ、段階があるということを前回お話しました

 

 

最初のステージは、欠乏欲求を満たす依存型の幸福

 

 

つまり自分の外側のもの、状況で自分を満たすことによる幸福感です

 

肉体からの生理的な欲求=食欲、睡眠(休む)欲、性欲(排泄欲)

 

そして安全欲求(家とか仕事とかお金とか)

   所属と愛、承認の欲求(愛される、役に立つ、必要とされる、、)

 

自分と自分以外の外側との関係において生じる欲求満たすという

 

「欠乏欲求」を満たすことによる依存型の幸福感です

 

 

次のステージは自分のハートに従って内的な自己実現の欲求(心の欲求)を満たす

 

 

本当にやりたいことに目覚めて、怖れを手放して、

 

挑戦して、失敗、挫折、葛藤を繰り返しながら自分の夢を達成してゆく

 

ある意味波瀾万丈ですが、エキサイトした人生、昂揚感のある

 

充実した時間と空間を味わえる第二段階の幸せ=自立型の幸福感(エンドルフィン的幸福感)です

 

しかし、ここでも充実感はあるものの、その幸せ感は長くは続かないのです

 

何故なら、心も状況も移り変わる(諸行無常)からです

 

盛者必衰の理をあらはす。春の夜の夢のごとし。。

 

自分以外は(心も含めて)全て移り変わるので、

 

むしろ満たされるどころか、次第に執着になり苦しみのもとになることもあります

 

 

そうして人はある時、自分以外のもので自分を満たすことは、

 

実は永遠に無理なことに気づくのです

 

 

それにチャレンジを続けていくことは、

 

結局のところ自分と向き合わざるを得なくなるからです(=怖れと向き合う)

 

自分の本質である魂を思い出してくるからです

 

使命と言ってもいいし、真の生き様と言ってもいいし、

命をかけたミッション、内なる衝動、自分を投げ出す勇気、、

 

 

そうするとそこから次のステージは、自ずとじゃーそもそも「自分とは一体何者なの?」という問いが生まれてくるかもしれません

 

 

その本質に目覚め、本当の自分に繋がっていく「静かな幸福感」です

 

 

 

この段階においてのことをもう少し詳しくお話ししたいとおもいます

 

そもそも自分とは一体何か??

 

肉体が自分でないことも、心(感情や思考)が自分でないことも、分かります(肉体も心も観察できるため主体ではない)

 

 

じやーそもそも、自分って何?

 

何が、この「自分がある」という意識を創っているのか?

 

まず、自分とは何でできているのか、、心と身体の観察をよーくしてみる

 

心(思考や感情)をよ~く観てみる

 

身体の感覚をよ~く観てみる

 

人はそれぞれ本当に深い意図、想いによって生きている

 

様々な想い、色々なエネルギーが動いている。。

 

その心の背景を観てあげる

 

そこにどんな想いがあるのか?どんな苦しみがあるのか?

 

よく聴いて、観て、感じてあげる

 

 

生きる情動と直結しているこの滾々と沸き起こる思考、感情、感覚、欲望、イメージ、

 

その迫り来る欲求の感覚を感じてみる、

 

怒りの感覚がどこから湧いてくるのか、

 

悲しみの感覚がどこから流れてくるのか?

 

 

 

感じてみる

 

感じてみる

 

自分に正直に、感じてみる。。

 

 

 

 

そこにははかりしれないあらゆる抑圧された、置き去りにされた想いがあります

 

 

あるいは、そこに自分の信念・価値観・思い込み・メンタルモデル・セルフイメージ、メンタルモデル、自分は〇〇な人、、、

 

 

 

 

その深い想いに、気づいていくだけで、心と身体は確実に癒やされて軽くなっていきます(セラピーです)

 

 

そして、そういうものをセルフワークなり、自分と向き合うようなことを始終徹底してやっていると、

 

 

こういう感覚になります

 

 

肉体や心があるから色々起きてきますよね

 

 

怒りや悲しみ、感動や喜び、、、様々な葛藤や怖れ、ネガティブからポジティブまで、いろんな反応が起きてきます

 

 

でも、そこに同化しないでそれを観れる自分というか地点というかそういう観ている意識みたいなものが同時にあります

 

 

そういう反応を観れる自分です

 

 

それは、その揺れ動く心(欲求や衝動や解釈の)の世界を「観ている意識」、

 

 

その移ろいゆく心や身体の感覚の世界を「捉えている意識」

 

 

その迫り来る欲求の感覚を充分に感じている意識

 

 

そしてその観ている意識、捉えている意識に深めていく、感じていく、、

 

 

そうすると、、四六時中その観ている意識に居てみる

 

 

 

 

そうすると、全ての日常の行動、言動、思考、感情に変化がでてきます

 

 

 

 

 

 

私の感情、私の身体、私の〇〇、、、

 

そもそも、その「私」の何とか、、とか、と言うことに少しづつ違和感を感じてきます

 

 

 

何故なら、思考も、感情も、勝手に沸き起こってくるものだからです

 

 

実は、自分の思考、感情、感覚だと思っていたものが、無意識のところから勝手に湧いて出てきていることが観えてくるからです

 

 

そして、また、人が、「私の〇〇」とか私の意志、私の身体、私の意見、、ということにも違和感を感じてくることが起きてきます

 

 

自分の心の中に、あるスペースができていきます

 

 

そこから、思考や感情やイメージが生まれてきている・・

 

 

 

そこに全てのことに気づいている純粋な意識感覚が増えてくる。。

 

 

変化や反応に気づく純粋な意識、この内的スペース、、

 

 

この純粋な意識に、寄り添えれば寄り添えるほど、安堵感、安心感、さもすると、

 

 

可笑しな感覚、愉快になっちゃう感じが増えてきます

 

 

人生に深刻さが無くなり、起きていることと、本当の自分とに距離ができます

 

 

捉えていて同時に体験を起こしている主体そのもの

 

 

それが、本当のあるがまま=今ここというのです

 

 

 

 

今ここにあるのは何でしょう?

 

 

いまここにあるのは、観る、聴く、触る、イメージが湧くなどの「体験しか」ありません

 

 

今ここは、全て体験によって認識は、成り立っています

 

 

「意識を向けたもの」に対して目、耳、鼻、舌、肌(皮膚)などの五感の感覚から

 

見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、などの体験が生まれます

 

この体験は、どこで起きているのでしょう?

 

この体験は、いつ起きているのでしょう?

 

身体の中で起きているのでしょうか?それともこの空間で起きているのでしょうか?

 

例えば、今ここに目の前にパソコンの画面があります

 

 

パソコンを観ている体験が起きています

 

 

この観るという認識は、ありますよね、、で、この認識はどこで起きているのか?

 

このパソコンと観ている目の間で起きているのか、目の奥で、脳で起きているのか?

 

この観ている体験に気づいている、認識が起こっていることに気づいているのは、何か?

 

その場所はどこにあるのでしょうか?

 

そこに時間や空間があるのでしょうか?

 

 

 

 

思考を超えて、感情を超えて、それと一つになるとき(いつも一つなのですが)

 

全ての怖れが消失し、全ての欠乏感は消滅する

 

何故なら怖れとは、主体と客体が分離しているために起こるものだからです

 

 

自分は、それそのもの

 

 

それを自分そのものとして体験してくると、

 

いたるところで、いつも、自分がそれそのものであることを感じられます

 

それは、今、そのものとも言えます(言葉の限界があるけれど、、)

 

 

 

今というのは永遠に変化しない対象化していない、時間と空間の永遠性

 

対局のない

 

主客一体、主客消滅、、、、

 

 

解釈を映し出している認識の主体に帰ってくると

 

その状態は、寝ている状態と同じように

 

本当に静寂で安堵で安らかな状態です

 

それは、どんな想いが現れていようが、

 

どんな思考が湧いていようが、

 

どんな感覚が湧いていようが、

 

それを映し出している、それを捉えている、それを感じている、それを体験している基盤、おおもとは、安らかで安堵で静寂です

 

体験は、今ここ、これが起きている

 

その場、この縁があるだけ、、

 

それが、あるがまま=今なのです

 

それは、今ここにずっとずっとあり続けているわけです

 

 

魂の欲求とは、そもそもそこに帰っていくことなのです

 

それは、欲求というよりそもそもは、私達はそこそのものだからです

 

 

そこから、分離という幻想が起こったので、無意識に欠乏感が起こり、欲求が起こったのです

 

 

分離した個が生まれた瞬間から世界と私が分かれてしまい、何かが足りない感覚が生じているだけなのです

 

 

幸せの本質とは、そういうことなのですね。。

 

それを一番おしえてくれるのは、まだ分離が起きる前の無邪気な子供たちです

 

 

読んでいただきありがとうございます(^O^)

 

 

 

 

         もう、何も慌てなくていい

 

  

            何も急がなくていい

 

  

            何も堪えなくていい

 

  

            何も試さなくていい

 

  

            何も悩まなくていい

 

  

           ただ、リラックスして

 

  

          今ここにとどまればいい。。

 

             全ては、今、

 

    

            もう、すでに、

 

  

           愛の中にいるのだから

 

  

           誰一人として、例外なく

 

   

             もう、すでに、

 

  

           光の中にいるのだから。。

 

 

ついでにビデオもつけちゃう