セドナ3度目の旅から vol 1

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~よっちゃんの幸せレシピ~

 

よっちゃんの幸せレシピ」では、本当の自分と自由に繋がれて人生を輝かせ、より豊かに生きるための情報を発信しお届けしています

 

 

おおおお~皆さんお元気ですか?久々のブログです!!

 

今回3度目のセドナに来て本当に清々しい朝を迎え、何となくこれから少しずつこの夏休みに本質的な事をセドナ旅行を絡めつつ書いてみたくなっている自分がいます

 

どんな展開になるのかわかりませんが、思いつくままに綴っていきたいと感じています

 

セドナに着いたのは10日(現地の)の午後9時ごろでした。

 

本当は予定としては、10日の11時過ぎロス発のフライトで、フェニックス空港に午後2時に着いて、

 

シャトルバスで少なくとも夕方5時にはセドナに着いて、レンタカーを借りてスーパーに行き、

 

食材や生活用品を買い込んで7時には、食事にありついてかんぱ~い!お疲れさま~!^ - ^!と、

 

いくはずでしたが。。。

 

なんと!!ロスでの11時の飛行機をミスして、、乗り遅れ(><)、、

 

何とかデルタの受付のおばちゃんに無理くり頼んで他の便を手配してもらうも、次のフライトが午後2時45、、しかも、1つしか席が空いていない状況!!。。

 

まあ、とりあえず残り2席はキャンセル待ちのスタンバイで

 

ターミナルが違うので、一度ゲートの外にでて暑い炎天下の中をひたすらひかりんと歩く、走る、歩く。。

 

迷いそうになったのを、偶然(じゃないないのかもしれませんが、、)見ず知らずの男性が、親切にも付き添っておしえてくださったり、

 

キャンセル待ちも奇跡的に横並びの3席をぎりぎりで確保してフェニックス空港までたどりつきました

 

その後が、また大変!!予約をキャンセルしたためアリゾナシャトルバスがなかなか来ずに炎天下の中を一時間以上待つことになり、セドナまでの途中渋滞などもあり、ホテルに着いたのが夜の9時、、

 

もちろんレンタカー屋さんも閉まっていたために、タクシーでスーパーに買い出しに行き、いつも旅行は料理は僕の担当なので、鮭のムニエルやピザなどを焼いて、夜中に漸くかんぱーーい*・゜゚・*:.。..。.:*・’(*゚▽゚*)’・*:.。. .。.:*・゜゚・*

 

旅は本当に予期しないことや、ハプニングが色々起きますよね(特にツアーじゃない場合は特に、、)

 

それで、何を話したいかというと、色々起きる「え?」っていう自分現象に、どう向き合っていくかナンですが、

 

 

この「え?」の次にくるのが、「なんでそうなったのか?」「ああしなければ、こうならなかったのに、、」、「〇〇のせいでこうなった」「普通はこうはならないよねー」とかとか、、

 

いい悪いはべつにしてそういう被害者的な意識になることがあるかもしれません

 

そしてそのイライラや憤りを他者や状況に攻撃的になったりあるいはそうなっている自分自身にさらに腹が立ったりと、、

 

色々な思いと感情が勝手に湧いてきます

 

 

これは無意識の中に自分の解釈、信念、価値観、思い込み、記憶、ストーリーがあるからです(無ければ感情は湧いてきません)

 

で、大抵の人は、その思いと感情を抑えにかかります

 

 

「今そんなことでイライラすべきでないなぁ」とか「まあ、そういうこもあるよね」とか「誰が悪いわけじゃないし」とか「まあ何とかなるでしょう」とか、、

 

 

でも、そう思考で自分を納得させようとしても、「何となく、気分の悪い状態」は続き、抑圧が酷い時には、

 

 

感情のエネルギー(怒り、悲しみ、悲壮感、孤独感)が蓄積して、抑圧できずに爆発したりしてムキーッ

 

 

関係の質を落としたり、分離したり、関係が破壊したりするようなことは、社会やコミュニティー、会社、家庭でも起こりますよね。。

 

 

でも、ここで最も重要なことがあります。

 

 

それは、

 

 

 

「この湧いて出てくる思いと感情を起こしているものに、そもそも主体があるのか?」て言うことなんですね( ◠‿◠ )

 

 

 

 

色々な思いからイライラや怒り、悲しみや苦しみが湧き、そしてそこにまた思いや感情をのせて、増幅させて長引かせているもの

 

 

それってこの「私」が湧かそうとして、やろうと計画してそうなっているのでしょうか?

 

 

だとしたら、そもそも怒る選択しなければいいわけですよねぇ~

私にできるのはせいぜい感情や思いをなかったことにして抑圧するだけですよね

 

 

よーく、よーく、この現象を構造を観察してみると、

 

僕らは、個人的な思い、解釈、信念、観念、価値観、も、個人を超えて社会や世界が共通で持っている無意識、

 

満たされなかった思いや深く傷ついた思い、抑圧された思いを沢山無意識の中に

 

「原因」「種」

 

としてあるわけで、

 

 

それが、色々な状況や予期しなかった環境の

 

「縁」

 

に触れることで作用して、怒りや悲しみ、それにまつわる行動が

 

「結果」

 

として起きているだけなのです

 

 

だから、まず、大切なことは、そうなっている自分にただ「気づく」事なんです

 

被害者意識的になっている自分、怒っている自分、悲しんでいる自分、恐れている自分、、

 

そんな自分にただ「気づいて」みる。。

 

「あー、今、そうなってんなー自分」、、それ以上の思考やジャッジや批判や評論をくっつけないで、

 

 

純粋に「そうなってんな、おれ、私、、」に気づいてみる。。

 

 

そして深呼吸、、ただそれだけで、まずはそれでいいんです。

 

その気づきにただただ落ち着いてみる、、

 

 

「でも、」とか「だって」とか「そうは言ってもとか」思考がさらにでるかもしれない真顔

 

 

そうしてざわざわしたら、「ざわざわしている自分」に気づいて、その自分を気づきいているほうにいてみる

 

 

ちょっとした感情の揺れや身体の感覚(胸が痛い、苦しい、むかつき、頭に血がのぼる、腹が煮え繰り返る、、等)に、ただただ気づいてみる

 

 

そういうことを何年も重ねてくると、ある種の感覚器官みたいなものが育ってくる

 

そうすると、思考や感情がたとえ湧いたとしても、さらに思考や価値観とかでふたをすることなく、

 

その思考と感情に同化せずに勝手におさまってくれるかもしれないし、感情に振り回されることが少なくなるかもしれませんドキドキ

 

主体が感情側にあるのではなく、それを見つめる側にあることを腑に落とせば(つまり体験的な理解が進めば)

 

自然と静寂が訪れる機会が多くなるのではないでしょうか?

 

 

そして、この静寂さの中に寄り添うと、ハートの中から出てきた純粋な叡智や想いだけがそこから湧いてきて、

 

本当の想いややりたいことが溢れ出す

 

本当にやりたいことは、自分への罪悪感が生じないはず

 

罪悪感とは本当の自分に嘘をついている状態のこと

 

根底に自分への愛があるということは、他人への愛でもあるから行動に調和がとれているはずなのです。。

 

 

全てのものは、根底で、もともと何も分かれてはいない、この純粋な愛

 

 

そのことをどの存在も最初から知っている、知ってて全て許されている無条件の愛、

 

 

知っているからこそ、罪悪感を生じる。。

 

 

だから、その罪悪感もこの罪悪感も、

 

みんなみんな、思い切り感じていい、、受け取っていい、、

 

 

だって罪悪感も何もかも、全ては深い愛から沸き起こってくらだけなんですから。。

 

 

 

 

 

 

長い投稿読んでいただき、有り難うございます

 

 

今日も、素敵な夏をお過ごしください。。

 

 

次回は昨日登ったカセドラロックからの気づきを描いてみたいです