「こころ」夏目漱石の本だ。

さっそく本題に入る前に、上中下にわかれている。そのなかで各々、節というのか?わかれている。

上は先生と私という題がついている。きっと先生と私の関係を記す章なんだろうなぁ。しかも先生って呼ぶくらいだからなにかの知識に長けた人なのか、職業としての先生なのか、なにか肩書きでもあるのか?そんな想像をかき立てられる。

まぁお母さんを先生と呼んでしまうくらいだから、誰を先生と呼んでもおかしくはないけど、つまり、それだけ何か親しい関係というか、きってもきれない関係というか、なにか敬う「こころ」があるのだろう。

では一節。私は友人に呼ばれて鎌倉の海に行く。しかし、友人は3日で実家に帰れと連絡が入り、帰る。私は帰っても残ってもいいけど、とりあえず残って海にいく。海はたくさんの人間がいて、その中で先生を見つける。

こんな感じの内容。


私の感情はどんなものだろう。友人に呼び出されたのに、友人はすぐに帰ってしまう。自分だったらすぐ帰る。
一人で海にいてもなんもおもしろくないし、家帰ってネットでもしてた方が有益だと思う。まぁ学校までかなり日数があったと書いてあるので、少しのんびりしようという感覚だろう。まぁ理解できる。

物語の始めに、私はその人を先生と呼んでいた。と言っている。その方が自然だからだとか、頭文字を使う気にならないという。

先生とずっと呼んでいたのだろう。だから名前を使うのも違うし、頭文字を使うのはもっと違う感じなんだろう。物語を始めるにあたってこのような前置きをするということは、先生と呼んで親しくしていた時期が少なくともあって、だから名前も頭文字も使わないということだろう。もしも、これが名前や頭文字を使用すると、人間同士の先生と私の関係を忠実に表現出来ないのだろう。上のタイトルでもある先生と私というタイトルからも、先生と私の関係を伝えようとしていることは明らかである。この関係を表現するのに、名前や呼び名などはそれだけでどういった関係を示すのかを暗示している。

そう考えると、鎌倉の海で先生と出会うとはどういう出会いでどうしてそのような関係になったのか?なかなか不思議である。

海で出会うのなんか、女くらいのもんじゃないのか?先生は女?などの思考を巡らせながら2を読むとしよう。