遅れて瞑想に入った私を待っていて下さったのは、またキリストでした。
「終わりなき愛」*の中では、Jeshua(英語読みはジョシュア、元々はイエシィハ)でした。ジーザス(イエス、Jesusの英語読み)より、イエシィハはやさしく、グレンダさん同様、私もその方が親しみがありました。
そのイエシィハを前にした私は、5歳くらいの小さな女の子でした。
どのようにしたら、あなたの様になれるでしょうか?
口から衝いて出た質問でした。
「まず、あなたは既に私であることを理解してください。」
一瞬、目が文字通り点。

それは、そうですけど、、、イエシィハ先生それはちょっと。。。
そう言えば数年前にガイドに、何故、こんな地球に天は「イエス」のような存在を送り込んでこないのか、聞いた事がありました。
彼らの答えはシンプルでした。
「あなたがなればいいでしょう。」
その時も、あのね~
と思った記憶がそう言えばあります。勿論、全ては1つで、1つは全てなのだから、可能。。。。と私が固まってしまっていると声をかけられました。
「遊びましょう」



大丈夫、この歳の頃はよく遊んだ方だと思いますよ。
乗り気でない私の手を引き、海岸に行って、暫く子供のように遊んでいました。
その様子を黙って、イエシィハは見ています。
そんな時は私は「Footprints(足跡)」と言う詩を思い出していました。色々な方が著作権に名乗りをあげていますが、本当の著者は不明の様です。
概要としては、ある日夢を主イエスと共に浜辺を歩いている夢をみます。空に自分の人生が一瞬にして写る中、砂に残る、足跡に2組の時と1組の時がある事に気がつき、その一組の時が人生で一番辛かった時だと気がつきます。敬虔な自分にどうして一番辛い時には、イエス様がいらっしゃらなかった尋ねると、それが、主イエスが自分を抱えて歩いていた時だと聞かされ、いつも主イエスは、自分を支えてくれていたとわかる、と言う様な内容です。
でも、何故それを思い出していたのか、よくわかりません。
その後、一緒に浜辺を歩いているうちにイエシィハは消えてしまいました。
目を開けるとまだあの光を感じる事はあっても、お顔を見ることはありませんでした。
(つづく)
*私は原書でしかこの本を読んでいませんので、翻訳者の方がどうカタカナで書かれているかわかりません。もし、カタカナでの相違がありましたら、その様な理由だとご理解ください。