養護施設を舞台にしたドラマにクレームがつけられており、そのことが話題になっている。
モデルと言わている病院は差別を助長するものだからやめてほしいと言い、
テレビ局は作品全体を見てから評価して欲しいと返した。
当事者たちの気持ちを考慮することも大切だし、フィクションによる表現の自由も尊重されなくてはならない。
ただ個人的に思ったのは、視聴率が14%前後ながらテレビの影響力というものをこの病院はかなり重視しているということだ。
これがテレビではなく小説でもかみついたかもしれないが、やはりテレビだからこそ、ネットも巻き込んだ論争となっていることは間違いない。
その意味では、社会的な影響力としてのテレビは新聞、雑誌、ラジオが束になってもかなわないのだろう。
文学部出身者とすれば、テレビ含めた小説、詩、音楽、様々な芸術は(私はテレビも芸術のひとつと思っている)、人間の素晴らしさを賛美することも大事ながら、愚かさ、恥部、悪徳をも引きずり出すことで、人間の在り方を問いなおす効用もあると考えている。
よって、臭いものに蓋をすることが、すべてを解決できるとはとても思えない。
きょう、たまたまニュースを見ていたら静岡県警の40代の警察官が、LINEのネットワークを拒否した20代の後輩に対して熱い湯豆腐を顔にぶつけ、腕立てなどを強要、集団いじめが発覚した。
この警察官らのレベルの低さにも驚くが、
「こんな問題起こしやがって、学校でもこんなことを真似する奴がきっと出てくる、けしからん」と食いつく人がすこしはいてもいいような気もするが、通りすがりのニュースにしかならない。
「警察官ってバカばっかりだな。あれっ、お前の父ちゃん警官だよな。恥ずかしくないのかよ」「お前は今日から「湯豆腐野郎」だ」という子供の会話の可能性についてはだれも言及しない。そういう行為をしたのは組織の一部であって、警察官の大多数は人格に優れた正義の集団であることを一般の人たちがある程度認識しているからだ。
それから比べると養護施設というのは一般的にどのような場所だと認識されているのだろうか?テレビドラマのセリフを吐く人などいないと胸を張って言っているのだからそれでよいのではないかと思うのだが…。
この病院が問題視するように、学校で養護施設出身者がこの番組をきっかけにいじめられるようなケースがいくつも出てくるようであれば、それはテレビの影響力というよりもむしろ教育現場の問題のような気がする。
かりにそういった問題が出てくれば、この機会に皆で話し合えばよいではないか。なぜ病院にポストを置かなければならなかったのかを。養護施設はどんな社会的な役割を持っているかを。
実はこの病院は、テレビを批判するあまり、そのことが教育現場のチカラをまったく無視してしまっていることに気づいていない。
教育現場はそんな解決方法をとるということは微塵にも期待していないのかもしれない。
たしかに朝から晩まで出演者を出ずっぱりにして公共の電波で執拗な番宣を実行。それがさも当然というような既得権意識。視聴率をとるためのネガティブ含めた話題づくりと過剰な演出を是とする傲慢な文化は辟易するところもあるが、それならば、「見ない自由」も堂々と行使すればよい。
しかし、この手の問題は、「見ない自由」を行使しても巻き込まれてしまう日本人独特の「空気」がつきまとう。そしてそのことが問題を無駄に複雑にしてしまう厄介さを助長する。
つまり、とくにそんなドラマには興味がなくても、なんとなくその問題に関心をもたないことが「悪」であるかのごとくの「空気」が自然と作られるのだ。
しかもさらに厄介なのは両論併記ではなく一方の価値観を押し付ける「空気」を作り出すことに関してはやはり「テレビ」のチカラは大きいのだ。
だから、日本では集団ヒステリー現象が生じやすい。みのもんたさんのバッシングをみれば一目瞭然だ。もちろんみのさんの擁護論もいくつかはある。しかし1対9くらいの物量差戦略で、なんとなく「みのさんイコール悪イコール降板」は当然という流れを作ってしまった。隠れたやっかみも多分にあったのだろう。
つまりはテレビドラマのバッシングへの大きさは内容そのものというより、テレビそのものへの不信感がまた別の「空気」を呼び起こして作られているような気がする。
すこしズレるが、
いまテレビでは都知事選の争点を喚起しないために原発問題をテーマにした深い問題提起はすべてカットだそうだ。
ピーターバラカンさんが思わずカミングアウトしていたが(裏ドリしてませんが)ネット時代はこういう小賢しさは簡単に露見する。だからNHKでたまたま見た候補者のスローガン比較は、まったく具体性のない「目標」の連呼。笑ってしまうくらい耳障りのよい「書き初め」的美辞麗句が並ぶ。
池上さんなら、「生き生きとした世界一暮らしやすい東京ってたとえばどんな暮らしが世界一なんでしょう?」くらい突っ込めそうだが、これもある種のテレビショーに吸収される。
都知事で問われる素養はいかにイメージを作り出すかだ。具体策はすべて都民の意思とは無関係に都官僚主導で行なわれる。だから原発問題の二者択一を争点に持ち込まれたら為政者側は困るのだ。「オリンピックも福祉も防災もがんばりまーす」と言っておけばいい。だれもノーとは言わない。そこで極めてファジーな民意を作り出し、具体策は別に講じられるのだ。
だからある日、ここにオリンピックのために道路を通しますので、みなさん立ち退いてくださいと言われるだろう。反対しようものなら、オリンピック推進の公約で当選した都知事の証文を持ち出すだろう。政治家の公約などだれも信用していないが、いざ行政の執行場面では大いに利用するのが官僚だ。
話を戻す。
先のテレビドラマをホームページで無料配信していたので、見てみた。正直ストーリーよりも、芦田愛菜さんに感情移入してしまう。凄い演技力と演出だ。この力が余計に当事者たちの危惧をあおってしまっているのではないかと思うほどだ。
銀行の悪を倒すヒーローは歓迎だけど養護施設のヒロインがまわりのいじめに挫けずに明るく生き抜こうとするストーリーは勘弁してほしいという論拠をどこに見出せばよいのか?後者は当事者としては困るというのであれば、「あしながおじさん」も「小公女」も絶版しなければならないだろう。
ただ、そうは言っても、傷つけられるのは常に子供たちだという主張は理解できる。どんなアダ名であれそれが本人に受け入れ難い苦痛的なものであれば、それが仮に一般的名称であっても傷つくのだ。
そこにはやはり最大限の配慮をすべきだろう。
学生時代、友人の仕事を手伝って、養護施設の中学生の勉強をみるボランティアに二年ほど携わったことがある。ある女の子は髪の毛をとく習慣がなくいつもボサボサで学校に行っていた。そのことを学校で汚いなどからかわれていたそうだ。でも彼女は施設では周囲の大人も和ませるムードメーカーだった。
私は、なぜそんなに君は楽しくできるの?と聞いたことがある。彼女は答えた「だって、私は星の女王だから」。
いまになって思えば、私の質問も呑気だと思える。何気ない一言で、こいつもわかってねーなと思われたかもしれない。
上から目線で恐縮だが、そのときはピンとこなかったが、あとになってみれば彼女は必死に自分を肯定しようとしていたのかもしれない。
あしながおじさんのジョディだって、おじさんへの手紙の中では、施設の人がつけた名前ではなく、自分がひそかにつけたジョディを名乗った。
繰り返すが、当事者でなければ理解できないことがある。それをわかっているとはっきりいうのは傲慢以外なにものでもない。
当事者の気持ちはやはり最大限尊重しなければならない。
iPhoneからの投稿
モデルと言わている病院は差別を助長するものだからやめてほしいと言い、
テレビ局は作品全体を見てから評価して欲しいと返した。
当事者たちの気持ちを考慮することも大切だし、フィクションによる表現の自由も尊重されなくてはならない。
ただ個人的に思ったのは、視聴率が14%前後ながらテレビの影響力というものをこの病院はかなり重視しているということだ。
これがテレビではなく小説でもかみついたかもしれないが、やはりテレビだからこそ、ネットも巻き込んだ論争となっていることは間違いない。
その意味では、社会的な影響力としてのテレビは新聞、雑誌、ラジオが束になってもかなわないのだろう。
文学部出身者とすれば、テレビ含めた小説、詩、音楽、様々な芸術は(私はテレビも芸術のひとつと思っている)、人間の素晴らしさを賛美することも大事ながら、愚かさ、恥部、悪徳をも引きずり出すことで、人間の在り方を問いなおす効用もあると考えている。
よって、臭いものに蓋をすることが、すべてを解決できるとはとても思えない。
きょう、たまたまニュースを見ていたら静岡県警の40代の警察官が、LINEのネットワークを拒否した20代の後輩に対して熱い湯豆腐を顔にぶつけ、腕立てなどを強要、集団いじめが発覚した。
この警察官らのレベルの低さにも驚くが、
「こんな問題起こしやがって、学校でもこんなことを真似する奴がきっと出てくる、けしからん」と食いつく人がすこしはいてもいいような気もするが、通りすがりのニュースにしかならない。
「警察官ってバカばっかりだな。あれっ、お前の父ちゃん警官だよな。恥ずかしくないのかよ」「お前は今日から「湯豆腐野郎」だ」という子供の会話の可能性についてはだれも言及しない。そういう行為をしたのは組織の一部であって、警察官の大多数は人格に優れた正義の集団であることを一般の人たちがある程度認識しているからだ。
それから比べると養護施設というのは一般的にどのような場所だと認識されているのだろうか?テレビドラマのセリフを吐く人などいないと胸を張って言っているのだからそれでよいのではないかと思うのだが…。
この病院が問題視するように、学校で養護施設出身者がこの番組をきっかけにいじめられるようなケースがいくつも出てくるようであれば、それはテレビの影響力というよりもむしろ教育現場の問題のような気がする。
かりにそういった問題が出てくれば、この機会に皆で話し合えばよいではないか。なぜ病院にポストを置かなければならなかったのかを。養護施設はどんな社会的な役割を持っているかを。
実はこの病院は、テレビを批判するあまり、そのことが教育現場のチカラをまったく無視してしまっていることに気づいていない。
教育現場はそんな解決方法をとるということは微塵にも期待していないのかもしれない。
たしかに朝から晩まで出演者を出ずっぱりにして公共の電波で執拗な番宣を実行。それがさも当然というような既得権意識。視聴率をとるためのネガティブ含めた話題づくりと過剰な演出を是とする傲慢な文化は辟易するところもあるが、それならば、「見ない自由」も堂々と行使すればよい。
しかし、この手の問題は、「見ない自由」を行使しても巻き込まれてしまう日本人独特の「空気」がつきまとう。そしてそのことが問題を無駄に複雑にしてしまう厄介さを助長する。
つまり、とくにそんなドラマには興味がなくても、なんとなくその問題に関心をもたないことが「悪」であるかのごとくの「空気」が自然と作られるのだ。
しかもさらに厄介なのは両論併記ではなく一方の価値観を押し付ける「空気」を作り出すことに関してはやはり「テレビ」のチカラは大きいのだ。
だから、日本では集団ヒステリー現象が生じやすい。みのもんたさんのバッシングをみれば一目瞭然だ。もちろんみのさんの擁護論もいくつかはある。しかし1対9くらいの物量差戦略で、なんとなく「みのさんイコール悪イコール降板」は当然という流れを作ってしまった。隠れたやっかみも多分にあったのだろう。
つまりはテレビドラマのバッシングへの大きさは内容そのものというより、テレビそのものへの不信感がまた別の「空気」を呼び起こして作られているような気がする。
すこしズレるが、
いまテレビでは都知事選の争点を喚起しないために原発問題をテーマにした深い問題提起はすべてカットだそうだ。
ピーターバラカンさんが思わずカミングアウトしていたが(裏ドリしてませんが)ネット時代はこういう小賢しさは簡単に露見する。だからNHKでたまたま見た候補者のスローガン比較は、まったく具体性のない「目標」の連呼。笑ってしまうくらい耳障りのよい「書き初め」的美辞麗句が並ぶ。
池上さんなら、「生き生きとした世界一暮らしやすい東京ってたとえばどんな暮らしが世界一なんでしょう?」くらい突っ込めそうだが、これもある種のテレビショーに吸収される。
都知事で問われる素養はいかにイメージを作り出すかだ。具体策はすべて都民の意思とは無関係に都官僚主導で行なわれる。だから原発問題の二者択一を争点に持ち込まれたら為政者側は困るのだ。「オリンピックも福祉も防災もがんばりまーす」と言っておけばいい。だれもノーとは言わない。そこで極めてファジーな民意を作り出し、具体策は別に講じられるのだ。
だからある日、ここにオリンピックのために道路を通しますので、みなさん立ち退いてくださいと言われるだろう。反対しようものなら、オリンピック推進の公約で当選した都知事の証文を持ち出すだろう。政治家の公約などだれも信用していないが、いざ行政の執行場面では大いに利用するのが官僚だ。
話を戻す。
先のテレビドラマをホームページで無料配信していたので、見てみた。正直ストーリーよりも、芦田愛菜さんに感情移入してしまう。凄い演技力と演出だ。この力が余計に当事者たちの危惧をあおってしまっているのではないかと思うほどだ。
銀行の悪を倒すヒーローは歓迎だけど養護施設のヒロインがまわりのいじめに挫けずに明るく生き抜こうとするストーリーは勘弁してほしいという論拠をどこに見出せばよいのか?後者は当事者としては困るというのであれば、「あしながおじさん」も「小公女」も絶版しなければならないだろう。
ただ、そうは言っても、傷つけられるのは常に子供たちだという主張は理解できる。どんなアダ名であれそれが本人に受け入れ難い苦痛的なものであれば、それが仮に一般的名称であっても傷つくのだ。
そこにはやはり最大限の配慮をすべきだろう。
学生時代、友人の仕事を手伝って、養護施設の中学生の勉強をみるボランティアに二年ほど携わったことがある。ある女の子は髪の毛をとく習慣がなくいつもボサボサで学校に行っていた。そのことを学校で汚いなどからかわれていたそうだ。でも彼女は施設では周囲の大人も和ませるムードメーカーだった。
私は、なぜそんなに君は楽しくできるの?と聞いたことがある。彼女は答えた「だって、私は星の女王だから」。
いまになって思えば、私の質問も呑気だと思える。何気ない一言で、こいつもわかってねーなと思われたかもしれない。
上から目線で恐縮だが、そのときはピンとこなかったが、あとになってみれば彼女は必死に自分を肯定しようとしていたのかもしれない。
あしながおじさんのジョディだって、おじさんへの手紙の中では、施設の人がつけた名前ではなく、自分がひそかにつけたジョディを名乗った。
繰り返すが、当事者でなければ理解できないことがある。それをわかっているとはっきりいうのは傲慢以外なにものでもない。
当事者の気持ちはやはり最大限尊重しなければならない。
iPhoneからの投稿