『思想としての「無印良品」』(千倉書房)ですが、もう3度も読み返しています。
とにかく読み返すたびに、見落としと言うか、発見があります。
筆者の深澤さんは、前職時代、4年にもわたってマーケティングコラムをご執筆いただいた方ですが、
異形の流通集団セゾングループが放った80-90年代の光芒とも言うべき「ニッポン消費文化」の本質をこれほどまでに丁寧に書ける人はいませんね。
そう確信する一冊です。
何回かにわけて、ご紹介したいのですが、
本日は、これをちょっと読んでみてください。(同著書の抜粋、一部筆者書き改め)
1)強まる生活防衛意識
低迷する景況下、可処分所得が減り、消費支出は伸び悩んでいる。しかし必需品は満たされており、結果的に余分なものは買わないという生活防衛意識が高まっている。
2)経済合理性への目覚め
ものは氾濫し、ものあまりの状態の中で、生活者の目は洗練された。厳しい選択眼は、単に低価格を求めるのではなくて、価値と価格のバランスから価格の正当性を見極めるようになる。合理的倹約精神=経済合理性という意識が生まれる。
3)自分なりの生活希求
量から質へ、物質的充足から精神的充実へと人々の意識は変化した。差別化のための個性化、多様化が進み、生活者の好みが際立つようになった。売る側、作る側からのお仕着せライフスタイルでは満足できず、「自分らしさ」「自分なりの生活」という自己表現が求められている。
4)ものへのこだわり
生活者自身が豊富な情報を持つことにより、従来見られたようなブランドだけを頼りにものを選択するブランド志向は減退している。ブランドにこだわるのではなく、自分に合ったもの、自分らしさを表現できるものにこだわりだした。
これ、どこかで見た事ありませんか?
これは、1986年にレポーティングされた「無印白書」の一節。なんと25年前のレポートなんです。86年と言えば日本のバブル最盛期の直前。いわゆる「ブランド」が幅をきかせていた時代です。
いまでも、いろんな企業やコンサルタントの皆さんが似たようなフレーズを用いて自分テイストの経験則をあてはめて理論と実践を展開しています。
それが別に悪いというわけではありません。わたしも自戒をこめてですが、どこかで見たようなキラーフレーズがひっかかっていて、それをいつのまにか自分が発したような気になってしまうのはよくあることです。
もちろん、これらのレポーティングを自分流に落とし込んでより素晴らしい理論と実践に発展させているコンサルタントの先生方もたくさんいらっしゃいます。
ですが、ここで強調したいのは、そんな瑣末なことではなく、
やはり無印にかかわった幾多の才能、タレント集団の先見性は恐るべし・・ということなんです。
もっと言えば、わたしが使った「異形」という言葉の意味は、
同時代に生きたダイエー、イト―ヨ―カ堂、イオンといった戦後流通第一世代とは全く異なる才能を内外で使いこなし、企業規模以上の「影響」をいまだに日本の消費文化に与え続けているということなのです。
セゾン文化とは言うけれど、ダイエー文化、イオン文化とは言わない。また三越文化、髙島屋文化とも言わない。
もちろんこの流通集団をけん引したカリスマ堤清二氏の来歴も深く影響していることは間違いありませんが、戦後流通が近代化していくにあたり、そぎ落としていった、貴族的というか花鳥風月を愛でるような消費文化的側面を一手に引き受けた、あるいは時代のバランス感覚で引き受けざるを得なかったのがセゾングループではないかという気がしています。そのバランスがあまりに歪であったために、現実(ビジネス)においては分散せざるを得なかったのではないか・・。
これはいささか運命論的きらいがありますが、現実に現在「セゾングループ」というものが解体されてしまった状況下にあって、その思いを強くしています。
解体されてほぼ10年の時が経ち、いままた、時代のあらゆる転換期において消費を文化で語ることの意味を見出そうとするとき、あらためて我々はセゾン的なるものの力を借りねばならぬような気がしています。
これはまた継続テーマにしたいですね。