商業の世界で情報を発信していますと、商人の成功要件として、しばしば「才覚と算用」を挙げる人がいらっしゃいます。
「才覚」とは、条件や環境の変化に即応して適当な対策を講じることのできる頭脳の回転のはやさのこと。先読みの才能のこと。
「算用」とは、いかなる場合にも、損失にならない計算、巧妙な計画能力のことです。
こう書くと、この2つはまさしく商人の成功要件の一部であることは間違いありません。
でも、あくまでも一部であり、すべてではない。
なぜなら、「才覚と算用」を生かすためには「徳」が伴わなければなりません。
「徳」は正しい商売を行う「商人の器」と表現できます。
先日のブログで掲載した「債権よりも負債を優先した」話、また「近江商人」も商品流通の操作による値差に依存したり、投機取引、不実取引は「愚人の斗(はから)い」「商人の器にあらず」、と言います。
「舟間之節に到るとも余分に口銭申請間敷事」
これは、商品輸送のために舟が到着せず、現地品薄のときといえども余分な利益を要求してはいけないという意味です。(八幡商人 西川甚五郎家「定の事」)*ふとんで有名な西川産業の祖)
現地が品薄なのにそんな商売なんてきれいごとだよ・・とふつうは言いたくなりますよね。
でも、戦後商業の発展の系譜をみても、「きれいごと」でやってのける「才覚と算用」がのちの事業につながったのだと思います。
汚い(!?)商売を「リスク」と称してふつうにやってのける人も恐ろしいけど、もっと恐ろしいのは、「きれいごと」をビジネスの世界で淡々とやっている人・・。
野試合の修羅場をくぐりぬけた「邪剣」もやはり練られ、、鍛えられた「正剣」には勝てない・・。
ちょっとずれました。
すごいのは、
これらは戒めとして書き記してあるだけでなく、
この禁を破った場合は、
主人や嗣子は押込隠居、別家は出入り差し止め、閉鎖と「罰則」まで決めてあります。
しかも実際これは行われた記録があります。
策を弄することは、人々に不自由を強要し、その難儀を喜ぶ行為であるから、
その行為から得られる利益は真の利益ではない、また長続きしないと道義から説いている「心得書」もあります。
また近江商人の商法は「のこぎり商法」とも呼ばれます。
これは弊誌主幹の著書「マーチャンダイジングとマネジメントの教科書」のコラムにも紹介されているのですが、
近江商人は、東北地方の藩をまわって、関西のみかんなどを売る一方、東北地方の産品を発掘して購入、付加価値をつけて江戸や上方で売りました。産地と販売地を行ったりきたりするので「のこぎり商法」といいます。
東北地方の産品を売って、諸藩に利益をもたらした近江商人は、東北諸藩からも喜ばれたそうです。
都市の需要を創造し、地方の地場産業を活性化させる・・。それも義と理にかなった正しい商売で。
正しい商売でなければ継続しません。その実践者が近江商人たちであり、
かれらのような本商人(ほんあきんど)の正しい商売による正当な利益を認め、持続的なビジネスの発展を説いたのが、石門心学の創始者石田梅岩です。
ちなみに、近江商人を揶揄して、誤解を恐れずに言えば、東北の貧しさにつけこんで、安い人件費と原材料費で大儲けしたという見方もあります。
これはたしかに見ようによってはその通りかもしれません。
近江商人だけを手放しで称賛してはいけないのかもしれません。
ただ、近江商人も、たんに人件費や原材料調達の安さだけに利を求めたのではなかったようです。
櫛の原料となる「ツゲ」。
これをどこに植えて、種をどのように蒔き、いつ伐採するのか、
一次加工から二次加工まで、最新の技術、知識を導入してMD設計を行いました。
さらに中間流通から最終消費者まで発注、運搬、保管、一連のサプライチェーンにかかわる保証に至るまで当時の最新テクノロジーが使われていたといいます。
つまり産地の生産性を高めるための投資、最新技術の導入を怠らなかったという事実もあります。
いま食品スーパーや飲食店が東北産品を競って売っていることは、素晴らしい取り組みです。
福島の酒蔵さんの注文も例年以上だとか。
ですが、表面的な、一過性的な動きで終わってはいけないような気がします。
東北の生産力を復興し、継続していくためには、新たな「近江商人」の知恵が必要ではないかと思います。
これは今後けっして東北に限った事ではありません。様々な地域で適用できるある種普遍的なモデルを創り上げることが大切ではないかと思います。
先日の大澤先生の「イノベーションゲーム」では先進的技術と発想を組み合わせて、現場の課題を解決する力が問われましたが、まさしくいまこの高い問題意識による課題抽出能力と最先端技術の組み合わせによる具体的戦略の立案と設計能力が必要だと思います。
被災地域は原発地域も含めて、様々な不自由を強いられています。この不自由さから絞り出された叡智を次世代のためにいかすことがいま問われているような気がします。
(追記)
「器」という字は、さきほど「常用字解」(白川静)で調べましたら、神への祝詞を捧げる「サイ」(口)を四つ置き、中央にいけにえの犬を横たわらせたものだそうです。古代の祭祀の呪具と装置を示したものらしいですね。
よって、そこから、器材、器械(道具)を使いこなす人の能力を表すようになったとか。つまり道具(最新のテクノロジーや知識)を使いこなす能力そのものが「人の器」なんですね。そう解釈すると深いなあ・・。