合理的な国、アメリカ。そこに住む人たちもまた合理的である。その合理さをどこで感じるか、と言えば、食事の際の"食器"である。
私には、テキサスに嫁いでいる叔母がいる。彼女はその昔アメリカ人のもとに嫁ぎ、太平洋を隔てた祖国の事を常に思っていたようだ。そして里帰りする際、スーツケースに入れるのはいつも和食器。叔母の家に鎮座する和食器と壺や花器、大抵九谷焼のものであった。恐らくコレクションするのに相当な金額と年数を費やしたはずだ。ところが彼女の現在の悩みは、もうじき天からのお迎えが来るのに(80代半ば故)、アメリカ人とのハーフである娘は、それらの価値を全く理解できず、恐らく叔母の死後は、ガレージ・セールで売り飛ばしてしまうだろう、とのこと。
何とも残念な話だと、と感じたのだが、膨大なコレクションゆえに、日本に持ち帰る訳にもいかない。ニューヨークやサンフランシスコには和食器のコレクターがいるだろうから、ネットで彼らに売却すれば、と提言したが、死ぬまで手放したくないそうだ。
ところ変わってフランスでは、和食器の価値は非常に高い。義理の両親を訪ねるため数年前渡仏した際、ノリタケのコーヒーカップルだとか骨董品店で見つけたヴィンテージ食器をお土産に持参した。その喜びようと言ったら比類がない。This is what I really wanted to haveと言わんばかりの笑みで、持参した側としても大変嬉しくなった。
ミカサの食器やリモージュの花瓶は、恐らく大概のアメリカ人にとって無価値である、と言っちゃっていい。私は日本生活は快適だが、いろいろ学んだ若い頃に居住していたアメリカもまた好きだ。"食洗機で洗えちゃう"合理的な食器ではなく、盛り付けただけで食材が美味しく見える、食材が光る効果の食器に対するこだわりを失いたくない。
ふと思いついたことを書いてみた。