”イエス様は、我々の罪を背負って十字架にかけられたのです”。私の一番最初にかよったキリスト教福音派の教会の伝道師がお話しくださった言葉だ。当時の私の解釈としては、キリスト教における”神様”は、誰かが死ななければ、我々の罪を許してくださらない、というものだった。
フランスを舞台にした映画、”ダ・ヴィンチ・コード”を観たときにも、カトリックの一派、オプス・デイの信者であるシラスという青年が、(前後関係は全く覚えていないのだが)自身を鞭打つというシーンがあった。私の浅はかなキリスト教知識をベースに、彼は自身の痛みと血を神への生贄としているのか、許しを乞うているのか、といった解釈をした。信仰とともに生きることは、痛みとともに生きることでもあるのだろうか、と考えさせられたシーンでもあった。
”クリスチャン(キリスト教信者)?あいつら嘘つき集団だ。クリスチャンイコールライヤーだ”と、豪語する無神論者の友人がいた。思い起こせば、キリスト教を信仰している人たちは、基本嘘つきがおおい。嘘をついた後、おそらく神の前で懺悔するのだろうか、うん、するのであろう。メキシコのギャングだって、(メキシコは基本カトリック信徒の国)窃盗・犯罪を犯した後、かならず教会で懺悔するそうな。モラルと法律を超えた彼らの信仰には頭の下がるおもいである(嫌味ね)。
無神論者、英語でいうところのAtheistは、神と信仰を信じるのではなく、人は律法やモラルの中に生きるべきであるという意味だそうだ。宗教を知ればしるほど、残忍でもあるという認識に至って、はたして、”信心深い”という表現は、誰かの長所を表す、また褒めたたえる表現としてふさわしいものであるのか、と自問自答している。
カトリックをはじめ、異端派の多いフランスで失踪し、いまだに行方不明である黒崎愛海さん。無事見つかって帰国の途についてほしい、と願うばかりである。