本日は12月19日(月)です。皆さんも年末の忙しい中、日々を大切に過ごされていると思います。
私もそんな中、12月12日(月)薬師如来様の御縁日に
豊川稲荷東京別院にブロガー仲間の方と御一緒に参拝をさせていただきました
今年のお礼と幟旗の奉納をさせていただきました。
相変わらず色んなブロガーさんや霊能者さん達が訳の分からない情報や偽情報を発信しています。
神社ではありません、お寺です。
中には本気で神社として紹介している方もいます。
豊川吒枳尼眞天様は千手観音様の眷属様であり、化身です
天部の仏様です。
ホームページです。
豊川稲荷東京別院 (toyokawainari-tokyo.jp)
奥の院
本堂や奥の院が最も大事で崇高なのは事実です。
各お堂や祠のお稲荷様や神仏もとても御利益があって大切で私も大好きです。
皆さんが分からずに素通りしてしまう大切な場所もありますのでご紹介します。
今回は境内にある大岡廊(おおおかろう)についてお話します。
丁度、敷地の中心にある(赤→)の場所が大岡越前守忠相公の廊廟
廊廟(ろうびょう)とか廟堂(びょうどう)と呼びます。又は大岡楼とも書きます。
高貴な方をお祀りしたお堂のことです
大岡廊 大岡越前守忠相公のお位牌と共に普賢菩薩様と文殊菩薩様をお祀りしています。
実は豊川稲荷のとても大切なパワースポットの一つだとはどんな能力者でも分からないはずです。
こちらでは学業成就のお願い以外はしない方が良いです。お願いはしないで必ずお線香を
お供えして感謝の気持ちを伝えてください。(50円です)
とても喜ばれます
直ぐ隣の水神様(水天様)と眷属様にもご挨拶をお勧めします。
なぜ普賢菩薩様と文殊菩薩様なのかはそのうちお話します。
(この二菩薩がいなければ仏教と密教の話ができない位、重要な仏様です)
大岡越前守忠相公が愛知県の本山の豊川稲荷妙嚴寺から吒枳尼眞天(だきにしんてん)様を勧請して
屋敷稲荷として自邸で祀ったのが由来です。
大岡家では、三河時代より豊川稲荷を信仰していたそうです、越前守の時代に、江戸の下屋敷に
吒枳尼眞天様を勧請してお祀りしました。
その後、大岡家の下屋敷が赤坂一ツ木に移転となり、豊川稲荷も引き続き移転先の屋敷でお祀りしたそうです。
大岡越前といえばテレビや映画でも有名な徳川家の上級の旗本で南町奉行から更に寺社奉行まで昇級、
徳川家八代将軍の徳川吉宗公の参謀役で名奉行として歴史上の人物でも人気のある武士で政治家です。
当時の日本や江戸の町の制度を開発した政治家です。
当時の江戸は火事に悩まされていました、一般庶民で編成した町火消の制度を作った人ともいわれています。
その後1万石の大名にまで出世して子孫は将軍家の側用人にまでなったのは当時は異例の出世だそうです。
寺社奉行というところがキーポイントです
江戸では稲荷信仰が盛んであったため、大岡邸では毎月「午の日」と22日には門を開けて、
一般庶民の稲荷への参拝を許していたそうです。
その後、文政11年(1828年)信徒の要望により、妙厳寺が一ツ木の大岡邸の敷地の内、4分の1(約250坪)
を借り受け、豊川稲荷の江戸参詣所を建立したのが、東京別院の創建になります。
江戸参詣所が設けられたことにより、一般信徒も参拝が毎日できるようになり、今までの大岡邸の屋敷稲荷は「奥の院」
とされたそうです。
明治9年(1876年)に東京府は、私有地で祀られる社堂への、無許可での一般参拝を禁止する布達を出しました。
これにより東京参詣所も一般参拝ができなくなり、大岡邸の吒枳尼眞天様の分霊は豊川の妙厳寺本院へ還されました。
2年後、府から許可が下り、一般参拝が再開されました。
一度、豊川の本山にお戻りになって、又東京にお戻りになっているんですね。
明治20年(1887年)、大岡邸の一角では手狭になり、堂宇の新・増築も困難であることなどから、
現在地(元赤坂一丁目)に移転したそうです。
それが現在の東京別院ということです
今回の重要な点ですが、お分かりの様に
大岡越前守忠相様がいなければ現在の東京と豊川稲荷東京別院は無かったと思います。
私も皆さんも多くの人達が大分助けられたのではないでしょうか
豊川稲荷東京別院に参拝にいかれたらどうぞ 大岡廊の大岡様と普賢菩薩様と文殊菩薩様に御挨拶とお線香をお供えしてください。
本日はどうもありがとうございました
鶴島大顕
宜しくお願いします。