東日本大震災 丸4年 | Mckee♪ 日記

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犬のこと、日常のこと、ピアノコンクール、ジムニー、歌、心に浮かびしヨシナシゴトを綴っていきます。


今日で

あの日から

丸4年を迎えました。



記憶に残っていることを

覚えている間に

記録に残しておきたい

と思います。



あの日、

金曜日でしたが

代休で自宅に居ました。



1000km以上

遠く離れた自宅では

地震があったことなど

全く気付かず、

15時前後

東京の公共機関に

電話することがあり

かけてもかけても

話し中で繋がらず

疑問に感じながら

何となくテレビをつけた時

大地震があったことを

知りました。



津波警報が

日本全国の沿岸部に発令され、

NHKだったか

ヘリからの生放送映像で

津波が

宮城県名取市の

畑を飲み尽くすさまを

放送していました。



また、

仙台空港では

津波が

駐車車両や

航空機をも

飲み尽くしていました。



その映像を

目の当たりにした時

ただならない事が起きた

と悟り

上司に電話し

阪神淡路大震災以上の

惨事が起きた

と伝えましたが、

まだその時には

ウチの社内では

被災地からの情報が

全く入ってきていない

ようでした。



すぐさま

被災地へ

救援物資移送や

復旧作業応援に行きたい

と上司に伝えましたが、

「そんな事にはならない」

との判断で

様子見と指示されました。






僕が

復興支援で

被災地入りしたのは

5月になってからで、

7月までの2ヶ月間

多賀城市、塩竃市、名取市、

仙台市、黒川郡大和町、石巻市で

復興作業をしました。



その時に

被災された方々から

聞いた話では、

あの日は

今日と同じように

3月にもかかわらず

雪降る

とても寒い日だった

そうです。



押し寄せる

津波から逃げて

電信柱の

てっぺんまで

よじ登ったけど、

足元まで

津波が襲ってきてて

一晩中

そのままだったこと。



その電柱の上で

海に流されていく

数多くの人達に

何もしてあげられず

見送った事。



本当に辛い

日だったそうです。



幸い

ウチの会社の人達は

みんな無事だったのですが、

多くの人達の家は

津波に流されて、

あの晩は

電柱の上や

ビルの屋上や

避難所で

寒さを凌ぎながら

不安な夜を

過ごしたそうです。


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今日の大阪の空です。



あの日の

被災地の夜空は

どんなのだったでしょう…。



改めて

1万5千人以上におよぶ

生命落とされた方々の

ご冥福をお祈りいたします。



そして、

まだまだ

復興に至らない

被災地で

日々頑張っておられる

皆さまへ。



遠くの地からではございますが

できる応援を

今まで通り

続けていきます。