星新一の『人民は弱し 官吏は強し』は、彼の父親である星一(はじめ)さんが、明治末期に製薬会社を創業し、官僚との闘いを描いた伝記である。


モルヒネの精製に成功したものの、官僚たちの妨害に悩まされつつも、最後まで諦めずに戦い続けた姿が描かれている。


しかし、戦い続けた結果はどうかといえば、どこまで行っても民は官に勝てないということを思い知ることに…。



この作品は昭和42年3月文藝春秋より刊行された。


時代は大正末期、いまから100年前の出来事だが、出る杭は打たれたり、官僚は偉ぶったりと、社会の構図は今とそう変わらないことがわかる。


星一は進取の気性を持ち、将来の日本にとって有益と思われることにはどんどん突き進む。


新しい製品やサービスの開発には貪欲な一方、周りへの忖度には至って無関心。


だから、ときに役人や同業者の自尊心を傷つけることになる。


それが許せなかったのだろう、彼らは星の功績を妬み、星への復讐の炎を燃やす。


いくら星が国のため民のために行動しても、そんなことより自分の自尊心の方が大切なのだ。


ついに星は正式に刑事被告人のレッテルを貼り付けられることになる。



一民間人を罪におとすため、自分の力がたりないとなると、他国の政府にまで応援を求める。

そこには民衆を保護しようとの心もなく、産業の育成の熱意もなく、国の誇りさえない。

(同書)



戦後日本は民主主義国家として再出発した。


にもかかわらず、民が主体ではなく官が主体であった戦前と変わりがないのは何故だろう?


それは、日本は個人主義というよりは全体主義の意識が強いからではなかろうか?


自分の意見より、周りの空気を読んで行動してしまうという意識…。


個人の自由や権利よりも、国家や民族、階級といった「全体」の利益を優先してしまうという意識…。


だから、(先のコロナ禍のように)国家が個人の生活のあらゆる側面に介入・統制しても、素直に聞き入れてしまうことになる。



しかし、それが間違っていることに私たちは気づき始めた。


それは、ここへ来て、抗議やデモが頻繁に起こっていることを見ればわかるだろう。


いまはSNSの時代になり、星一の時代よりも間違っていることを間違っていると声高に叫ぶことができるようになってきた。


だから、公僕である官が民主の民より強くあってはいけないと叫ぶこともできる訳である。


とはいえ、まだまだ負け犬の遠吠えのようにしか聞こえないのは、現状を変えるのはそう簡単なことではないからだ。



「人民は弱し 官吏は強し」の解説で、評論家の鶴見俊輔氏はこう結んでいる。


明治以降も、商才は、政治力、とくに政府を動かす官僚と結びつくことなしにはこの国では安定した力を発揮することができない。

しかも、星は、政治の領域において、負け犬(おそらく後藤新平)を兄貴分としてえらんでしまったのだから、成功する訳がない。



「人民は弱し 官吏は強し」

という当たり前が突然変異を起こし、

「人民は強し 官吏は弱し」

というドンデン返しが起こる確率は、一体どれくらいあるだろうか?