日本で自宅の近所を歩いていると、私より高齢と思われる老人によく出会う。


お互い見ず知らずなので挨拶したことはないが、近所の散歩がその老人の日課なのだろう。


まだ杖の助けは借りていないが、一歩一歩よちよち歩き、一区画の半分くらい歩いたところで立ち止まり、両手を腰に当てて一休みする。


いまや老人の行動パターンが頭に入っているので何も感じなくなったが、この両手を腰に当てる仕草に初めのうちは違和感を感じていた。


いや、その違和感は威圧感と言い換えた方がいいかもしれない。


だから、老人とすれ違うとき、何か文句を言われるのではないかといつも心の準備をしていたのだが、どうやら一休みをするときのただの仕草ということがわかったので、以来気を使うことはなくなった。



マレーシアでも、この両手を腰に当てる仕草は、他人に不快感を与えるようだ。


ゴルフ場で前の組のプレーが遅いので両手を腰に当てて待っていると、

「喧嘩を売っているように思われるから、手は腰に当てない方がいいよ」

と注意されたことがある。


国が違っても、両手を腰に当てる行為は相手に快く思われないようだ。




話は変わるが、マレーシアでカレーが食べたくなると、インド系が営むレストランによく行く。


数種類のカレーや惣菜、ロティ(薄焼きパン)や白飯などから好きなものを注文して席につくスタイルが多いが、席についてから注文することもある。


この席で注文するときだが、注文する度に店員が首を横に振る。


もしかすると品切れかと思ったりもしたのだが、これはわかりましたの合図。


日本では承知・賛成するときに首を縦に振るが、インド系は首を横に振る。



ところで、小さな子どもとふれ合う機会があったとして、その可愛らしさについ頭を撫でてしまった経験は誰しもあると思う。


ところが、この行為はイスラム教もヒンドゥー教もご法度とされている。


人の頭は神聖なところなので、無闇に触ってはいけないようなのである。



国や民族、文化、宗教が異なると、意思の伝達方法も変わってくる。


ある人にとっては当たり前の行為が、ある人にとっては当たり前ではないことが往々にしてあるものだ。  


だから、普段と違う環境に踏み入れたなら、紛らわしい仕草は極力控え、まずは顔の表情だけで意思を伝えてみることだろう。


喜怒哀楽の顔の表情はおそらく世界共通であろうから、大抵の意思は汲み取ってくれる筈である。