マレーシアの学校に給食はない。


ムスリム(イスラム教信者)の子は豚肉を食べてはいけないし、ヒンドゥーの子は牛肉を食べてはいけないとなると、

「皆が同じものを食べる」

という概念は、そもそも無理があることになる。


だから、子どもたちはパンや弁当を持参するか、食堂や販売店で好きな食べ物を買って食べることになる。


イスラム教の宗教儀式であるラマダン期間中は、教育現場とはいえムスリムは日中飲み食いすることはできない。


ムスリム以外は通常通り飲み食いができるが、ムスリムに飲食現場を見せないよう気遣った教師が、トイレでの飲食を強要したことから、社会問題に発展したことがあった。


それでも、人はそれぞれ違うことが当たり前で、尊重し、配慮することが大切であることを学んでいく。



一方、日本の小学校には必ずと言っていいほど給食がある。


そして、同学年の生徒は全て同じものを食べる。


それは、適切な栄養の摂取による健康の維持促進を図ることはもとより、望ましい食習慣を養うことでもある。


同じ空気を吸い、同じ教育を受け、同じものを食べて育つ。


学校給食  富士宮市HPより



何年もの間そういう環境にいれば、人は皆と同じことが当たり前で、皆に合わせることが大切であると学んでいく。


そして、いつしか所属する組織との一体化が正義と見なされ、一体化を損なう行動は敬遠されるようになる。


すると、どうなるか?


人と違ったことをすれば、怪訝な顔をされる。


人と違った意見を言えば、大人になれと諭される。


人と違った行動に出れば、変人扱いされ陰口を叩かれる。



さて、人はそれぞれ違うことが当たり前だと学ぶマレーシア、皆と同じことが当たり前だと学ぶ日本。


どちらが人として幅がある大人に成長するだろうか?



と、あれこれ考えているうちに、日々宗教や文化の異なる移民が日本に続々入って来ていることに思い当たった。


彼らの食文化は日本人とは異なるだろうから、食習慣を共有することはできない。


だから、このまま移民が増え続けるとなると、同じ給食を食べる習慣はいつか崩壊することになる。


そのときになって初めて、多くの日本人は、人はそれぞれ違うということに改めて気づかされるに違いない。


そして、人に合わせた行動をとらなくても、白い目で見られることがなくなる時代が、図らずも到来することになる。


それは、ある面進化とも言えるだろうが、同時に日本らしさが一つ消えることでもある。