台湾通所へのリアクションをツイートしてるうちに、自己内部で思考と感覚がエキスパートしてきたのでこちらに。
私、この数年間でサラーッとしか各国占星術の旅をしてなくて自分で扱うには程遠いですが、西洋占星術から入るのは、地球の占星術を将来的に把握するのに、トータルで言ったらやはり強いと思いました。
基礎素養として、だと思うけど。
何がって、宿曜、六壬などに至るまで、占星術は地球上で多く展開されましたが、それらって全部時代を経ても主要な部分のみ伝わってきて、現代テーマに置き換えられるニュアンスがまるっととんでるし、とぶ理由に現象化追跡のみ特化してきた背景があって、それゆえ吉凶判定おみくじスタイル、あてもの予言の世界になってしまったわけで。
けど、一回そこを断ち切って心理にフォーカスする必要あったんじゃないかなって思いました。この星の占星術が。
これたぶん占星術の進化の過程だと思う。
心理フォーカスしても心の問題はすぐにはわからないから、結局、幸とは何か、思いやりとは何か、愛とは何かみたいに宗教教義的なことに回帰するし、各国異文化でそれを体感する必要もあった。心理になぜ一度特化したのか、ということの意味。
一回、人の幸の原点。心、意識。自我の充足ではないんですよ。幸は。受け取る感覚の方の充足。
太陽と月があったら、幸という感覚自体が月の仕事。
ホラリーはなぜ月を相談者に見立てますか?インドでもなぜナクシャトラにウェイト置いて古くから、ラーフケートゥ、リリスに注目してきましたか?宿曜はなぜ月で見るのでしょう。
結局、人の意識が、常にそこにあるからです。
意思は太陽。
意識は月。
月をただ感情とか、イージーさとかわかりやすいとこだけ言ってるな?って話。
心理回帰してから、また現象と複合して解読することをしないと、常に運気が人間の世界で運命論としてリードし続けてきた畏怖の世界を、恐怖と運命論の世界を人類が脱しない。古典の占星術が禁止された世界はそれゆえだと私は思った。
知の先行への警鐘。
それは、本当に、占星術を扱う者はみな気をつけないといけない。
知恵の果実は占星術のことだったんじゃないかなって、少し思うわけですよ。星のことを知るたびに。
これは必要過程だったのだろうと思いました。
一度システムを忘れて、再度、人類が心にフォーカスした末に、また星の採択をする過程。
呪縛からどんな形で解放しつつ、占いを生きる杖としていくか。
この時代にしか、この特定宗教が制圧してない、各国の情報がかなり雑多に混じって入ってきた日本でしか、幸、の再検討は難しかったのだろうと思います。
最後にさりげなくプチ概念爆弾を一つ落とすなら、月欠乏説ありましたね?
実は、みなさん意識してないけど、全部の感受点がそうです。
これ、私の現時点で到達してる自説。
月だけではないです。人はその担当箇所があります。それが生まれながらの天体位置なんですが、太陽も木星もキロンも土星も水星も、広義で言えば全部欠乏感じつつ欲するポイントだと思います。
ただ感受点の性質により、欠乏として感じ取りやすいものと、欲求として認識しやすいものに大別できます。いわずもがな、ホシイ、の感覚が先行するのも、今はないからホシイが生じてるわけですが、そこに欠乏感覚への麻痺をともない当人が多幸感ありきで動けるものをベネフィック、金星木星、感覚的には海王星もですね。そういう振り分けになり、また、欠乏に対して痛みがあるから迅速に自他に対処を求める類のものがキロンや土星などの痛そうなコンプレックス系天体。
実は「どんなふうに」のところしか、天体は語ってないんです。
これ、シンプルに星の機能性だけ見つめるようになると飲み込めるやつ。
でも、ここに、頭で理解してもそういうものだなぁと実感ともない理解するには一二年で来られても困るし、ワイワイキャッキャを通り、普通の占いに何か違うとか物足りないとか感じて他を見てみて、扱う道具の意味や出し方に疑問や迷いや散々とおって何年もかけてやっと到達するやつ。
実感として理解するには、ですけども。