運気の毒だしを、意識的に他人の分に言及するのは方法に悩みます。
大抵のテーマは当人のちょっとした特定項目のネガ癖や実行不足、言葉遣いや生活習慣などでなんとかなるのですが、稀にどこがいけないのか悩む方もいて。
ずっと見ていても、話を聞いても、本人の落ち度を私は感じないのです。
チャートを見るとなるほどそれなりにヘビーで、当然、そのぶん傷ついて生きているし、当人にさほどの責任を感じない姿勢しかないから、あまりあれこれ言いたくないし。
失敗わかりやすい人の方が「何が」「どこが」かは見えるので、軌道修正のための言及はラクなのですよね。
当人落度があまりないのに慢性的なものは、霊的領域になる気がするのです。
家系や過去世やり残し系じゃないかなって。
何年も見ててもわかりづらい方もいます。
自分や周りと比較しても、人格の完成度がかなり高尚な方もいます。
ハードな運気のチャートがハードな人生になりやすい。
それだけで片付けてしまうのも問題あります。なぜならソフトそうな運気の人も度数にリスクがないというだけで、恒星や品位や高度特定のリスクあるサビアンなどを出したらノーリスクのチャートなどなく、ぱっと見わかりづらいところにリスクが転がってないというだけなので、その人の悲しみをそれで片付けていいとは思わない。
しかしながらヘビーな星回りだと同じようにヘビーなチャートの人とルイトモ法則で引き合ってしまうので、周囲のヘビーな事象に付き合う状況に確率として遭遇しがちなのは否めません。
これ鏡返しの法則として「あなたがそう生きてるから」みたいに高みの目線でモノいう活動家もいますけれども、私はそう思わないのですね。それ、言ってる人がどうかというと、今調子がいいから言えるから言ってるだけってケースも多い。
悪いけど当人がある程度乗り越えたら多少のことを言っても平気だろうけれども、痛いと言って絶賛血を流してお金払って相談までしにきたのに、自分の理屈をこね回す無神経さが人としてどうか、とは思うわけで。
実際それ系のスピウラ事故って多いです。そしてそれらの過度な自己啓発的セッションの骨を拾うのが愚痴を聞いて慰めるのが大得意な占師ってこと、本当によくあります。
そうした世界で自分が生きている中で、他者には不理解から自己責任論だけで全てを済ますのは、限りなく不理解と冷やかしの目線の主観をそこに知らずに注いで見ているからだ、と私は思う。不理解は自分を守る。
また同時に、先の件では「これは私が問題を感じないことに問題があるのでは…?」とも思います。
過去にある友人が言っていました。
「私の友達はみんな私を好きだから、どれだけ欠点あったら直すから言って?と言っても誰も言えない」と…。
そうなんですよ、仲良しや好きってあばたもえくぼになるのですよ。
そもそも似ているから集まりますしね。似た感覚で世の中を見ていて話を常にチューニングして合わせているのですから、仲良い人にはわかりづらい。
うーん、占いの仕事では思いつくご提案はできても、あくまでも私の思いつきは思いつきですし、私は全能ではないので、人の運気の欠損対策のここだ!という部分を常に百発百中ストライク決めるのも、個人の範囲を超えたヘビーな運気のケアもやはり少し難しい。
これ具体的に何の星が何のアスペクトでどんなことがあってのあたりを具体的にお話しすると星読みの勉強にはなりますが、運命論的になりかねないので当面は伏せていきます。私は私が存在する限り人の人生を星が全て決めているような運命論を全面的に受け入れるわけにいかないし、むしろそうでない手がかりをより多く探すために占っているわけなので。
(実は今や人類と星の付き合いは何千年にも及び、古典占星術の段階でこれはある程度、生命の誕生、病気、死まで言及できてしまうほどの資料がありますが、それを知って誰もが生きる希望を失わないことが可能だとは思わない。宗教が占いを煙たく思ったのも人の扇動理由になるからというのもあったかもしれないけれども、発信の仕方によってやはり希望を摘み取る倫理的な問題もなくはないと思います。希望は命と密接な感覚です。)
使命語りの占いをあまり積極的にしないのもそのためです。
ライトな情報としての「あなたの使命」言及は楽しいのですけれどもね。
誰でも抱えてる人生の重みを、いかに軽くするか。私はそこに注力したい派です。
日々精進。