--- 三宅幸夫 『音楽家の言葉』 p. 108. 五柳書院 (1997)
「演奏することは生きていることの証し」。
この言葉を聞いて、バレンボイムの「音楽は無から生まれて無に終わる」という言葉
を思い出しました。
ミケランジェリといい、バレンボイムといい、一流の音楽家は、音楽は人生そのものと言い切ります。
音楽は人の生死そのものであると。音は、生きながら死んでいるし、死にながら生きていると。
彼らに共通するのは、音楽するとき、ディレクション(方向性)がはっきりしているということが言えるのではないでしょうか。
ここでいうディレクションとは、音のプロジェクションとか、フレーズごとに響きをどの方向に感じるとか、そういう音楽の技術上のディレクションというよりは、もっと人間にとって本質的な方向です。
つまり、死ぬ、という方向です。
今、この文章を見ている瞬間、練習や本番で音を出す瞬間、全て「死」というディレクションに向かっています。
一流の音楽家という人たちは、意識的か無意識的かは分かりませんが、いつも今まさに「死んでいる」ということを身体で感じることができているように思います。
だから、どんな時でも、音自体に「悲しみ」の要素があるように思うのです。
私はNYカーネギーホールで、バレンボイム指揮マーラーのリュッケルトリーダーを聴きに行き、オケのとんでもなく美しいピアニッシモに出くわし、わけ分からず悲しくて悲しくて涙が止まらなかったことがあります。
今思うと、あれは、鍛え上げられた「死のディレクション」をバレンボイムが強烈に発揮していて、「ほかの世界(死?)からやってくる何か」を、一聴衆である私は感じたということなのでしょうか。
音楽家の言葉 (五柳叢書)/三宅 幸夫

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