--- 三宅幸夫 『音楽家の言葉』 p. 34. 五柳書院 (1997)
あのオペラブッフォ「セビリアの理髪師」をわずか3週間で作曲した (24歳時!) 天才ジョアキーノ・ロッシーニの言葉です。
彼は、芸術の本質を、自発性や自然さと言っていますね。自発性。。。自然さ。。。自然さ。。。自然さ。。。って何でしょう。
本当に、自然さ、、、って何なんでしょうね?
ところで、ネットで今夏の甲子園で22奪三振を取った左腕のニュースを知り、昔野球少年だった私は久しぶりにここNYで甲子園を見てみたくなったので、たった今、YouTubeでその様子を見たところなのですが、彼の投球は凄かったですねぇ (1試合全アウト27個中三振で22個ですよ?!)。
しかしその後、同じくYouTubeで、某甲子園出場校の試合の動画を見て、あることに非常に「違和感」「不自然さ」を感じてしまいました。
これを書いている今も体の奥底からその「不自然さ」を感じているのですが、それは何かというと、投手が3アウトを取ってベンチに帰る時に結構な勢いで無駄にダッシュして戻っていることです。。。。。
プレーに直接関係のないあのダッシュには何の意味があるのでしょうか?
ロッシーニの言う「自発性」は英語でSpontaneousnessですが、その訳に「自然さ」というのもあり、これらは瓜二つの意味がありますね。
観客として、高校野球のプレーに不自然さを感じたのは、その選手はそのダッシュを望んでやっているわけではなく、外発的にそれをやらされていると「私は」感じたからです。
本当は、その選手は心の底から望んでそのダッシュをしているのでしょうか。。。 (それはそれでまた勝利目的以外で体力を使うのはおかしいですけどね。または「爽やか高校球児」の演出が好きなだけなのでしょうか???)
観客や聴衆というものは、意識的か無意識的か分かりませんが、スポーツでも演奏でも、パフォーマーの「自発性」を観に (聴き) に来ているのではないでしょうか。
その演奏が何かにやらされていると聴衆が感じたとき、その聴衆は「不自然さ」を感じやすいと思うのです。
そのパフォーマンスが自発的なものと結び付いておらず「ここはこうしなければいけないから、こうしている」というような演奏やプレーは聴衆にすぐ気付かれるとも言えるでしょうか。
しかしですね、甲子園の話に戻りますけど、真夏の炎天下で10代の選手が100球以上をそれこそ全力投球で投げています。それにプラスして、プレー以外のベンチに戻るときもダッシュしているのですが、それをおかしいと声を大にして言う人がいないで今まで来ているということは、日本の観客の価値観は、あの投手が自発的にあのダッシュをやっていると思っているのでしょうか。
それとも日本というのは、外発的にやらされているということに価値を置いていて、それに喜びを感じているのでしょうか (コレ、どんな価値観?)。
いずれにせよ、プレーには関係ないあのダッシュ、ロッシーニが見たら、スポーツの本質からズレているって言いますよ。間違いなく!ロッシーニ風のステーキ食べながら!
音楽家の言葉 (五柳叢書)/三宅 幸夫

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