父とダンナのこれまでの関係を少し、前置きにて。
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ダンナは私がくじゃくを妊娠し実家にいた間、いわゆる「マスオさん」を3ヶ月ぐらいしていました。でも、私の実家は都会とは違いなかなか職を探すといっても簡単にはいかない状況で、英語もネイティブ並に話せてもネイティブではないとみなされ英会話教師にもなれず、特に「日本語がはなせないとねえ・・・」という理由で仕事が見つかりませんでした。
だから、ダンナのプレッシャーは積もりに積もり、「くじゃくの顔を見たら、東京に行って仕事をする」と宣言をし、みんな状況も理解しているし焦ることはないと分かっていながらも少し不安定になっていたりもしました。
父はといえば、義理の息子にいろいろ教えてあげたいという一心で、日本の習慣や家でのルールなどをどんどんダンナに言い、「父さんにできることだったら何でも言いなさい」と心(娘)のお守を積極的にしてくれたりしていました。
このお互いに頑固一徹で真面目なふたりが衝突することも時々あり・・・
私がくじゃくを産んで、病院に入院している間に大ゲンカをしました。
その日お見舞いにきた父が
「ごめん、おまえが頑張っているときに・・・」
と謝り、私はそんなことがあったと知ったのですが、父が帰った後に来たダンナに詳しくきいたところ、どうやら原因はちょっとした誤解のようでした。でも、ダンナはかなり深刻になっていて、
「お義父さんがどうしてほしいのかわからないし、このままここにはいられない。くじゃくも無事生まれたし、東京へ行って仕事をする」と・・・
私としてはどちらの気持ちも分かるし、板ばさみって感じだったけど、退院までまだ何日かあったし、お互い大人なのだから自分たちで解決してほしいと願っていました。
父は私に心配をかけまいとダンナにも謝り、誤解を解こうと説明をし、ダンナもここで意固地になっていてはいけないと思ったのか、なんとか仲直りをし、退院した私とくじゃくを迎えてくれました。
そして、くじゃくが生まれて約1ヶ月後の心の2歳の誕生日の次の日、ダンナは東京へ。
東京へ出たからといって簡単に仕事が見つかるわけもなく、ダンナは履歴書を持って1軒1軒麻布のあたりのレストランなどを訪ね、とあるバーでキッチンハンドの仕事をやっとこさもらいました。
あれからもうすぐ3年、ダンナはきちんと段階を踏んで着実にいい職を見つけ、家族を自力で養っていけるまで漕ぎ着けました。
父はそんなダンナを今ではかなり誇りに思っているらしく、今回もたくさん褒めてくれていました。
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父の東京滞在最後の日、父、ダンナ、私の3人で神社に行きました。その神社は父の戦死した父親(私の祖父)に由縁のあるところで、私も父と訪れたのは初めて、ダンナは訪れたのも初めてでした。隣接された記念館を見学、歴史が凝縮された空間で涙が出そうになりました。父と訪問できたことを嬉しく思い、とても意味のある時間となりました。
そして昼食の後、私は保育園の懇談会があったため電車に乗り、父とダンナはふたりで古本屋街をお互い片言で(父はダンナと話すとき一生懸命知っている英単語を使おうとし、ダンナは英語の中に知っている日本語の単語を混ぜて)会話しながら歩き回ったようです。ダンナはあたりまえのように父の荷物をもっていたそう(後で父からお礼のメッセージが私に届きました)。
どんな会話をしたのか、とても気になるけれど、私が知らないふたりの会話があってもいいかなと思い、あまり聞きませんでしたが、ダンナは帰ってきて
「お義父さんが来てくれて、一緒に時間を過ごせてよかった」
を連発していました。
「ケンカもして、正直今まで心から打ち解けたと思えたことがなかったけど、今日は家族だって実感できた
」とも!
ダンナは父親になり、娘を授かり、父の気持ちが少し分かるようにもなり、父親を知らずに育った父が必死で築いた家庭の大切さを自分もひしひしと感じ、それと同時にネパールのお父さんへの感謝の気持ちも顕著に現れ、目指すものがはっきりし、パートナーとして「頼もしい」と感じられるようになりました。
こうやって時間をかけて問題が解けて築いていく関係でもいいんだね。親子も夫婦も。